133

聖霊の​賜物の​中でも、​すべての​キリスト信者に​とって​特に​必要な​ものが​一つ​あると​言えるでしょう。​それは​上智の​賜物です。​上智の​賜物に​よって、​神を​知り味わうに​つれ、​この​世の​事柄を​正しく​判断できるからです。​信仰に​一致した​生活を​しているなら、​周囲を​眺め、​世界的・​歴史的事件に​思いを​巡らせる​とき、​イエス・キリストの​あの​憐れみの​心が​私たちにも​伝わってくる​ことでしょう。​「飼い​主の​いない​羊のように​弱り果て、​打ち​ひしがれているのを​見て、​深く​憐れまれた」21。

​ キリスト信者は​人類の​持っている​すべての​よい​ものに​気づき、​清らかな​喜びを​評価し、​現世の​理想や​望みに​参与するのです。​これら​すべてを​心の​奥底に​感じ、​深く​共鳴し、​共に​生きようと​するはずです。​信者なら、​誰よりも​人の​心の​深遠さを​よく​知っているからです。

​ キリスト教の​信仰は、​心を​小さく​する​ものでも、​気高い​衝動を​そぐ​ものでもありません。​気高い​衝動や​心の​有する​真実で​正確な​意義を​明らかに​する​ことに​よって、​それらを​さらに​大きく​育てるのが​信仰であります。​私たちは​ありきたりの​幸福に​運命づけられているのでは​ありません。​神の​深奥の​生命に​あずかり、​父である​神・子である​神・聖霊なる​神を、​三位に​おける​ご一体の​神と​して​知り愛すると​同時に、​すべての天使と​すべての​人々を​知り、​愛するよう召されているからです。

​ キリスト教の​信仰は​非常に​大胆であります。​人間の​本性の​価値と​尊厳を​称揚し、​人間を​超自然的な​次元まで​高める​恩恵に​よって​神の​子の​尊厳に​達する​ことができるように​創造された​と​宣言するのです。​これは​父である​神の​救世の​約束に​基づき、​キリストの​御血に​よって​実証され、​聖霊の​絶え​ざる​働きかけに​よって​再確認されて​可能と​なったのでなければ、​到底信じえない​ほど​大胆な​宣言であると​言えます。

​ 私たちは​信仰に​よって​生き、​信仰に​よって​成長しなければなりません。​そして​遂には、​東方​教会の​偉大な​博士の​一人が​何世紀も​前に​言った​言葉が、​信者一人​ひとりの​言葉と​ならなければなりません。​「清らかで​透明な物体が​光線を​受けると​燦然と​輝き光を​放つように、​聖霊に​よって​導かれ照らされた​霊魂も​また​自ら聖と​なり、​人々を​恩恵の​光で​照らさなければならない。​未来に​ついての​知識と​秘義を​知る​こと、​隠された​真理を​理解する​こと、​賜物の​分配、​天国での​市民権、​天使たちとの​語り合い、​これらは​すべて​聖霊から​出る​ものである。​終わる​ことの​ない​喜び、​神に​おける​堅忍、​神と​似た​ものに​なる​こと、​考えられる​ものの​中で​最も​崇高な​ことすな​わち神に​なる​こと、​これらも​聖霊に​由来する​ものである」22。

​ 人間の​尊厳、​特に​恩恵に​より​神の​子と​なった​人間の​偉大な​尊厳を​自覚すると、​その​自覚は​信者の​心の​中で​謙遜と​一体と​なります。​救いと​生命を​得るのは​人間の​力に​よるのではなく、​神の​ご厚意に​よる​ものだからです。​これは​決して​忘れてはならない​真実です。​もしこの​事実を​忘れ去ると、​〈神化〉の​意味が​誤解され、​神化は​傲慢や​僣越に​変わってしまい、​遅かれ早かれ自己の​弱さや​惨めさを​経験して​霊的に​倒れてしまう​ことでしょう。

​ 聖アウグスチヌスは​次のように​自問自答しています。​「自分は​聖人であると​敢えて​言えるだろうか。​聖化する​ものを​聖人と​考えて、​誰も​私を​聖化する​必要が​ないと​言えば、​私は​傲慢で​偽り者である。​しかし、​『神である​わたしが​聖であるから、​あなたたちも​聖なる​者と​なりなさい』と​レビ記に​書かれている​意味に​おいて、​聖化される​人を​聖人と​解釈するならば、​地の​果てに​住む人間であっても​キリストの​御体の​一部であるから、​その頭と​共に​頭の​下で​大胆に、​私は​聖人であると​言える」23。

​ 三位一体の​神の​第三の​ペルソナを​愛し、​心の​底で​励まし叱責する​神の​霊感に​耳を​傾けましょう。​心を​照らす光を​たよりに​して、​地上の​道を​歩みましょう。​希望の​神が​私たちを​平和で​満たし、​聖霊の​力に​よって​希望を​ますます豊かに​してくださる​ことでしょう​24。

この点を別の言語で