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十字架上で、​人々を​愛するが​ゆえに​刺し貫かれた​聖心を​もつイエスこそ、​物事や​人間の​価値を​雄弁に​物語っており、​もは​や​言葉を​必要としません。​人間、​そして​その​命と​幸せには、​神の​御子が​人々を​救い、​清め、​高める​ため​自らを​お与えに​なる​ほどの​値打ちが​あるのです。​傷ついた​聖心を​眺めて、​ある​祈りの​人が​言いました。​「これほど​傷ついた​聖心を​誰が​愛さずに​いられようか。​愛に​愛を​もって​応えない​人が​あるだろうか。​これほど​清らかな​聖心を​抱擁しない​者が​あるだろうか。​生身の​わたしたちは、​愛には​愛を​報いる​傷ついた​御方を、​不信仰者たちが​御手と​御足、​脇腹と​み心に​手を​差し入れた​その方を​抱きしめるのである。​我々の​心を​愛の​絆で​結び、​槍で​傷つけてくださる​よう​お願いしよう。​我々の​心は​いまだに​頑なで​強情であるから」24。

​ 愛する​人は、​昔から​このような​考えや​愛情を​イエスに​捧げ、​イエスと​このように​語り合ってきたのです。​ところで、​このような​話を​理解し、​人の​心と​キリストの​聖心、​神の​愛を​本当に​知ろうと​望めば、​信仰と​謙遜が​要求されます。​信仰篤く​謙遜な​聖アウグスチヌスは、​万人周知の​有名な​言葉を​残してくれました。​「主よ、​御身は​私たちを、​御身の​ものとなるように​お創りに​なりました。​私たちの​心は​御身に​憩うまで​安らぐことがありません」​25。

​ 謙遜に​なる​努力を​怠ると​人は​神を​自分の​ものにしようとします。​しかし、​キリストが、​「これは、​あなたが​たの​ための​わたしの​体である」26と​言って​神を​所有する​ことができるように​してくださったような​神的な​仕方に​よってではなく、​逆に、​神の​偉大さを​自己の​能力の​限界にまで​引き下げようとするのです。​このような​理屈、​冷たく​盲目的な​考え方、​それは​信仰から​生まれる​知性でも、​事物を​玩味して​愛する​ことのできる​正しい​知性でもありません。​かえって、​人間の​能力を​超えた​真理を​卑小にし、​人間の​心を​覆ってしまい、​聖霊の​霊感に​対して​無感覚に​させる​考え方、​いつもの​惨めな​経験に​合わせて​すべてを​判断しようと​いう​無茶な​考え方なのです。​神の​慈しみ深い力に​よって、​哀れな​人間が​持つ貧困を​打ち​破って​もらわない​限り、​人間の​貧弱な​知性は​何の​役にも​立ちません。​「新しい​心を​与え、​お前たちの​中に​新しい​霊を​置く。​わたしは​お前たちの​体から​石の​心を​取り​除き、​肉の​心を​与える」27。​そして、​聖霊の​約束を​前に​して、​魂は​光を​取り戻し喜びに​溢れます。

​ ​「わたしは、​あなたたちの​ために​立てた計画を​よく​心に​留めている、と主は​言われる。​それは​平和の​計画であって、​災いの​計画ではない。​将来と​希望を​与える​ものである」28と、​神は​預言者エレミヤの​口を​借りて​告げておられます。​典礼に​おいて​この​言葉は​イエスに​当てはめられます。​神が​このように​愛してくださっている​ことは、​イエスに​おいて、​はっきりと​示されたからです。​主は、​人間の​不甲斐なさや​卑小さを​処罰する​ため、​あるいは​問責する​ために​おいでになったのではなく、​私たちを​救う​ため、​赦すため、​平和と​喜びを​与える​ために​おいでになったのです。​主と​その​子どもである​私たちとの​間の​このように​素晴らしい​関係を​認める​ことができれば、​当然​私たちの​心も​変わり、​彫りと​深さと​光に​溢れた​全く​新たな​展望が​目前に​展開する​ことでしよう。

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