キリストの聖心・信者の平和

1966年6月17日 イエスの聖心の祝日


父である​神は​尽きる​ことの​ない​愛1と​慈悲と​愛情の​宝を、​御子の​聖心を​通して​私たちに​お与えに​なりました。​神が​私たちの​祈りを​待って​聞き​入れるだけでなく、​願う​前に​願いを​かなえてくださる​こと、​つまり、​神が​私たちを​愛してくださっている​ことを​確かめたいと​思うなら、​聖パウロの​教えを​知るだけで​十分でしょう。​「その​御子を​さえ惜しまず死に​渡された​方は、​御子と​一緒に​すべての​ものを​わたしたちに​賜らないはずが​ありましょうか」2。

​ 恩恵は​人の​心を​新たにし、​罪深く​反抗的であった​者を​善良で​忠義な​僕3に​変えます。​そして、​その​恩恵の​源とは、​言葉だけでなく、​行いを​もってお示しに​なった​神の​愛なのです。​神は​その​愛ゆえに、​聖三位一体の​第二の​ペルソナである​〈みことば〉、​父である​神の​御子を、​罪以外は​すべて、​人間の​条件を​備えた肉体を​有する​ものとなさいました。​それゆえ、​神の​〈みことば〉は、​神の​愛から​出る​〈みことば〉4であると​言えるのです。

​ 受肉​(託身)に​始まり、​救い​主と​しての​この​世での​ご生活、​イエス・キリストの​十字架に​おける​この​上ない​犠牲に​至るまで、​神の​愛の​顕れです。​ところが、​十字架上では、​その神の​愛が​新たなしるしを​もって​示されたのです。​「兵士の​一人が​槍で​イエスの​わき腹を​刺した。​すると、​すぐ血と​水とが​流れ出た」5。​イエスの​水と​血、​それは​愛ゆえに​すべてを​成し遂げる​6まで、​最後の​最後まで​身を​挺した​主の​献身を​物語っています。

​ 祝日を​迎えるに​あたり、​信仰の​中心的な​秘義〈神秘〉を​改めて​考えてみると、​御子を​お与えに​なった父である​神の​愛、​また、​ゴルゴタを​目指して​心静かに​歩む御子の​愛が、​いかに​して​人間に​身近な​振舞いと​なって​表れているかを​知り、​ただただ​驚くばかりです。​神は、​権力者や​支配者の​態度を​もってではなく、​「僕の​身分に​なり、​人間と​同じ​者に​なられました。​人間の​姿で​現れ」7、​接してくださいます。​教えを​説き続ける​間、​時には、​人間の​邪悪に​満ちた​態度に​心を​痛め、​不愉快を​味わわれた​こともありますが、​イエスは​決して​人々に​背を​向けたり、​尊大な​態度を​とったりは​なさいませんでした。​それどころか​少し​気を​つけて​見ると、​イエスの​立腹や​怒りは​愛から​出ている​ことが​すぐに​わかります。​私たちを​不忠実と​罪の​状態から​救いだすための​呼びかけである​ことが​理解できるのです。

​ ​「わたしは​悪人の​死を​喜ぶだろうか、​と主なる神は​言われる。​彼が​その​道から​立ち帰る​ことに​よって、​生きる​ことを​喜ばないだろうか」8。​キリストの​一生は​この​言葉に​言い​尽く​されています。​また、​私たちと​同じ心、​生身の​心を​もってお現れに​なった​理由も​この​言葉よって​理解できるのです。​まさに、​キリストの​聖心は​確かな愛であり、​筆舌に​尽くしが​たい​神愛の​秘義〈神秘〉の​証しなのです。

キリスト・イエスの​聖心を​探る

​ 悲しみのもとであり、​私を​行動に​駆り立てる​動機と​なっている​ことを​打ち明けたいと​思います。​それは、​キリストを​知らない​人々、​天国の​この​上ない​幸せに​まだ​気づいていない​人々の​ことなのです。​およそ​喜びとは​言いが​たい​喜びを​でたらめに​追い​求め、​まことの​幸せから​遠ざかって​行く​人々です。​パウロが​トロアデで​幻視を​見た​時の​心が​痛い​ほどに​感じられます。​「一人の​マケドニア人が​立って、​『マケドニア州に​渡って​来て、​わたしたちを​助けてください』と​言って​パウロに​願った。​パウロが​この​幻を​見た​とき、​わたしたちは​すぐに​マケドニアへ​向けて​出発する​ことにした。​マケドニア人に​福音を​告げ知らせる​ために、​神が​わたしたちを​召されているのだと、​確信するに​至ったからである」9。

​ 私たちの​周囲の​出来事を​通して​神が​私たちを​お呼びに​なり、​イエスの​到来と​いう​福音を​宣べ伝えるよう促しておいでになるのです。​ところが、​キリスト信者は​時と​して、​召し出しの​意味を​十分に​理解せず、​浮薄な​態度に​終始し、​口論や​諍いにかまけて​時間を​浪費してしまいます。​あるいは、​もっと​ひどい態度も​見受けられます。​他人の​信仰の​表し方​や​信心の​実行を​みて、​偽善的な​批判を​投げかけるのです。​自ら​努力して、​正しいと​思う​信心の​実行法を​見つけようとも​せず、​ただ​破壊したり​批判したりする​ことに​精を​出す人たちです。​キリスト信者の​生活にも​欠点が​あり、​それが​目に​つくこともあるでしょう。​しかし、​私たち自身の​有する​弱さは、​問題ではないのです。​たった​一つ​大切なのは、​イエスご自身です。​キリストに​ついてこそ​語る​べきで、​私たちに​ついて​話しても​役に​立ちません。

​ 以上のような​ことを​考えたのは、​イエスの​聖心への​信心が​危機に​瀕していると​勝手に​決めて​かかっている​人々が​いるからです。​そのような​危機は​考えられません。​本当の​信心は、​今までのように​今日でも​生気に​溢れ、​人間的であると​同時に​超自然の​意味に​満ちています。​本当の​信心は​今まで​通り、​回心と​依託を​生みます。​また神のみ​旨を​果たす力、​救いの​秘義を​愛の​眼差しで​洞察する​力を​与えてくれるのです。

​ それに​引き替え、​教理的な​基礎を​欠き、​敬虔主義に​浸された、​無益で​感傷的な​態度と​なると​話は​全く​違ってきます。​常識的で​超自然的感覚を​持つキリスト信者の​信仰心を​呼び起こせない、​取り澄ました​イエスの​聖心の​ご像など、​私も​好きには​なれません。​しかし、​いずれ自然に​消滅する​誤った​信心を​楯に、​聖心に​対する​信心が​教理的にも​神学的にも​間違いであると​いう​結論を​出すと​すれば、​まともな​論理だとは​言いかねるのです。

​ 危機が​あると​すれば、​それは​人間の​心の​中の​危機の​こと、​近視眼的な​見方​・利己主義・狭量な​視野を​有するゆえに、​主キリストの​計り​知れない​愛を​垣間見る​ことさえできない​人間の​心の​危機の​ことだと​言えます。

​ イエスの​聖心の​祝日が​制定されて以来、​聖なる​教会の​典礼は​聖パウロの​教えを​朗読に​取り入れ、​本当の​信心の​糧を​与えてくれています。​その​朗読には、​イエスの​聖心の​信心に​始まる、​知識と​愛、​祈りと​生命と​いう​観想生活の​全プログラムが​提示されています。​使徒の​口を​借りて、​神ご自身が、​この​道を​歩むようにと​招いてくださるのです。​「信仰に​よってあなたが​たの心の​内に​キリストを​住まわせ、​あなたが​たを​愛に​根ざし、​愛に​しっかりと​立つ者と​してくださるように。​また、​あなたが​たが​すべての​聖なる​者たちと​共に、​キリストの​愛の​広さ、​長さ、​高さ、​深さが​どれほどであるかを​理解し、​人の​知識を​はるかに​超える​この​愛を​知るようになり、​そして​ついには、​神の​満ちあ​ふれる​豊かさの​すべてに​あずかり、​それに​よって​満たされるように」10。

​ 神の​充満は​キリストに​おいて、​キリストの​愛に​おいて、​キリストの​聖心に​おいて​示され、​そして​与えられます。​と​いうのも、​キリストの​聖心とは、​「満ちあ​ふれる​神性が、​余す​ところなく、​見える​形を​とって​宿って」11いるからです。​それゆえ、​受肉と​救いの​業、​聖霊降臨に​よって​再び神の​愛を​世に​与えると​いう​神の​計画を​忘れると、​主の​聖心の​優しさを​理解する​ことは​できないでしょう。

キリストの​聖心への​正しい​信心

 イエスの​聖心と​いう​言葉が​もつ​豊かな​意味を​心に​留めて​おきましょう。​人間の​心に​ついて​話すとき、​気持ちを​指すだけではなく、​望み、​愛し、​人と​接する​本人の​全人​格を​考えているのです。​人間に​神的な​事柄を​理解させる​ために​聖書が​用いる​表現法、​つまり​人間的な​表現法に​よると、​心とは​考えや​言葉や​行いの​縮図で​あり根源であると​言われます。​それゆえ​人の​値打ちは、​その​人の​心の​豊かさに​よって​決まるとも​言いかえる​ことができます。

​ 喜びは​心で​感じる​ものです、​「わたしの​心は​救いに​喜び躍り」12と。​そして​痛悔も​「心は​胸の​中で​蝋のように​溶ける」​13、​神の​賛美に​ついても​「心に​湧き出る​美しい​言葉、​わたしの​作る​詩を、​王の​前で​歌おう」​14。​主に​耳を​傾ける​決心も​「わたしは​心を​確かにします」​15と。​また、​愛ゆえに​見張りを​続けるのも​心です。​「眠っていても、​わたしの​心は​目覚めていました」16。​さらに、​疑いや​恐れも​心から​出ます。​「心を​騒が​せるな。​神を​信じなさい。​そして、​わたしを​も​信じなさい」17。

​ 心は​感じる​のみでなく、​知る​こと、​そして​理解する​ことも​できます。​神の​法は​心に​受け18、​心に​刻み込まれる​19のです。​聖書は​また、​「人の​口からは、​心に​あふれている​ことが​出て​来るのである」20と​付け加えています。​主は​律法学士たちを、​「なぜ、​心の​中で​悪い​ことを​考えているのか」​21と​非難なさいました。​そして、​人間が​犯しうる​罪を​要約して、​次のように​仰せに​なったのです。​「悪意、​殺意、​姦淫、​みだらな​行い、​盗み、​偽証、​悪口などは、​心から​出て​来るからである」22と。

​ 聖書が​心と​いう​言葉を​使う​ときは、​感動や涙を​もたらす​一時的な​感情の​ことを​言っているのでは​ありません。​聖書が​心と​言う​とき、​その​心とは、​イエス・キリストご自身が​お示しに​なったように、​善であると​考える​ものに​霊魂と​体を​もって​向かっていく、​人格​その​ものに​言及しているのです。​「あなたの富の​ある​ところに、​あなたの心も​あるのだ」​23。

​ それゆえ​今、​イエスの​聖心に​ついて​考えると​いう​ことは、​神の​愛が​確かな​ものである​こと、​また神は​本当に​ご自分を​お与えに​なった​ことを​明らかに​する​ことです。​聖心への​信心を​勧めるとは、​自己の​全存在を​あげて、​つまり、​魂と​感情、​思いと​言葉と​行い、​仕事と​喜びを​伴う​全人​格を​込めて、​〈イエス全体​〉に​向かえと​勧める​ことなのです。

​ イエスの​聖心への​正しい​信心が​あれば、​神を​知り、​自分​自身を​知る​こと、​そして、​私たちを​元気づけ、​教え、​導く​イエスを​眺めて、​イエスの​元へと​駆け寄る​態度に​現れてくるはずです。​完全な​人間ではないので​仕方ないとは​言え、​託身​(受肉)された​神に​気づかない​人が​いると​すれば、​そのような​人が​持つ浅薄な​態度こそ​聖心への​信心と​相容れないと​言えるでしょう。

十字架上で、​人々を​愛するが​ゆえに​刺し貫かれた​聖心を​もつイエスこそ、​物事や​人間の​価値を​雄弁に​物語っており、​もは​や​言葉を​必要としません。​人間、​そして​その​命と​幸せには、​神の​御子が​人々を​救い、​清め、​高める​ため​自らを​お与えに​なる​ほどの​値打ちが​あるのです。​傷ついた​聖心を​眺めて、​ある​祈りの​人が​言いました。​「これほど​傷ついた​聖心を​誰が​愛さずに​いられようか。​愛に​愛を​もって​応えない​人が​あるだろうか。​これほど​清らかな​聖心を​抱擁しない​者が​あるだろうか。​生身の​わたしたちは、​愛には​愛を​報いる​傷ついた​御方を、​不信仰者たちが​御手と​御足、​脇腹と​み心に​手を​差し入れた​その方を​抱きしめるのである。​我々の​心を​愛の​絆で​結び、​槍で​傷つけてくださる​よう​お願いしよう。​我々の​心は​いまだに​頑なで​強情であるから」24。

​ 愛する​人は、​昔から​このような​考えや​愛情を​イエスに​捧げ、​イエスと​このように​語り合ってきたのです。​ところで、​このような​話を​理解し、​人の​心と​キリストの​聖心、​神の​愛を​本当に​知ろうと​望めば、​信仰と​謙遜が​要求されます。​信仰篤く​謙遜な​聖アウグスチヌスは、​万人周知の​有名な​言葉を​残してくれました。​「主よ、​御身は​私たちを、​御身の​ものとなるように​お創りに​なりました。​私たちの​心は​御身に​憩うまで​安らぐことがありません」​25。

​ 謙遜に​なる​努力を​怠ると​人は​神を​自分の​ものにしようとします。​しかし、​キリストが、​「これは、​あなたが​たの​ための​わたしの​体である」26と​言って​神を​所有する​ことができるように​してくださったような​神的な​仕方に​よってではなく、​逆に、​神の​偉大さを​自己の​能力の​限界にまで​引き下げようとするのです。​このような​理屈、​冷たく​盲目的な​考え方、​それは​信仰から​生まれる​知性でも、​事物を​玩味して​愛する​ことのできる​正しい​知性でもありません。​かえって、​人間の​能力を​超えた​真理を​卑小にし、​人間の​心を​覆ってしまい、​聖霊の​霊感に​対して​無感覚に​させる​考え方、​いつもの​惨めな​経験に​合わせて​すべてを​判断しようと​いう​無茶な​考え方なのです。​神の​慈しみ深い力に​よって、​哀れな​人間が​持つ貧困を​打ち​破って​もらわない​限り、​人間の​貧弱な​知性は​何の​役にも​立ちません。​「新しい​心を​与え、​お前たちの​中に​新しい​霊を​置く。​わたしは​お前たちの​体から​石の​心を​取り​除き、​肉の​心を​与える」27。​そして、​聖霊の​約束を​前に​して、​魂は​光を​取り戻し喜びに​溢れます。

​ ​「わたしは、​あなたたちの​ために​立てた計画を​よく​心に​留めている、と主は​言われる。​それは​平和の​計画であって、​災いの​計画ではない。​将来と​希望を​与える​ものである」28と、​神は​預言者エレミヤの​口を​借りて​告げておられます。​典礼に​おいて​この​言葉は​イエスに​当てはめられます。​神が​このように​愛してくださっている​ことは、​イエスに​おいて、​はっきりと​示されたからです。​主は、​人間の​不甲斐なさや​卑小さを​処罰する​ため、​あるいは​問責する​ために​おいでになったのではなく、​私たちを​救う​ため、​赦すため、​平和と​喜びを​与える​ために​おいでになったのです。​主と​その​子どもである​私たちとの​間の​このように​素晴らしい​関係を​認める​ことができれば、​当然​私たちの​心も​変わり、​彫りと​深さと​光に​溢れた​全く​新たな​展望が​目前に​展開する​ことでしよう。

キリストの​愛を​伝える​ 

 しかし、​神は、​心の​代わりに​純粋な​意志を​やろうとは​言っておられない​ことに​注目してください。​心を​くださいます。​キリストになさったように​心を​くださるのです。​私は、​神を​愛する​心と​人々を​愛する​心と​いう​二つの​異なる​心を​持っているわけでは​ありません。​両親や​友人を​愛する​同じ心で、​キリストと​御父、​聖霊、​聖母マリアを​愛するのです。​何度も​申し上げたいと​思います。​非常に​人間味に​溢れた​人に​ならなければならない、​さも​なければ、​神的に​なる​ことは​できない、と。

​ 人間愛、​この​世での​愛が​本当の​愛で​あれば、​神の​愛を​〈味わう​〉のに​役立ちます。​真の​愛を​もつなら、​「神が​すべてに​おいて​すべて」29と​なる​天国の​「神を​所有すると​いう​愛」と​「人間相互の​愛」を​垣間見る​ことができるのです。​このように​して、​神の​愛が​どのような​ものであるかを​理解し始めると、​より​憐れみ深く​寛大、​より​献身的な​態度を​示すよう努力する​ことでしょう。

​ 受けた​ものを​与え、​学んだ​ことを​教えなければなりません。​思い​上がらず、​謙遜な​心で、​キリストの​愛を​人々にも​伝えなければならないのです。​社会に​おいて、​仕事や​職業に​いそしむに​あたり、​仕事や​職業を​奉仕の​営みに​変える​ことができます。​また​そうする​義務が​あるのです。​訓練と​技術の​進歩を​取り入れて​完成させた​仕事は、​それ自体が​一つの​進歩であり、​他の​仕事の​進歩にも​役立つことでしょうが、​それだけではなく、​そのような​仕事は​重要な​役割を​果たし、​人類全体に​大きく​貢献する​ことができるのです。​ただし、​利己主義に​陥らない​寛大な​心と、​自己の​利益ではなく、​公益を​求める​心、​つまり、​キリスト教的な​考え方に​基づいて​働かなければなりません。

​ 人間関係の​織りなす日常生活に​おいて、​仕事を​続けるに​あたり、​キリストの​愛と、​キリストの​愛の​具体的な​表れである​理解と​愛情、​平和を​示さなければなりません。​キリストが​あまねく​パレスチナ地方を​巡って​「善を​行われた」30ように、​私たちも、​家庭や​社会、​日常の​仕事や​勉学、​休息など​人間の​辿る​道に​おいて、​〈平和の​種蒔き〉作業を​繰り​広げていかなければなりません。​それが​できる​時こそ心に​神の​国が​訪れた​と​言えるのです。​「わたしたちは、​自分が​死から​命へと​移った​ことを​知っています。​兄弟を​愛しているからです。​愛する​ことの​ない​者は、​死にとどまったままです」​31と​聖ヨハネが​書く​通りです。

​ しかし、​イエスの​聖心と​いう​学校で​学ばない​限り、​誰一人と​して​今​述べたような​愛を​実行する​ことは​できません。​キリストの​聖心を​熟視し黙想する​ことに​よってこそ、​私たちの​心から​憎悪と​無関心が​姿を​消し、​他人の​苦しみ、​悲しみを​見て、​信者に​相応しい​態度を​とることができるからです。

​ 聖ルカが​語る​場面を​思い浮かべてください。​キリストは​ナインと​いう​町の​近くを​お通りに​なり32、​偶然、​行き交う​人々の​悲嘆を​ご覧に​なります。​素通りする​ことも、​あるいは、​呼び​かけや​願い出を​待つことも​できました。​しかし、​そのまま​行ってしまうことも、​待つこともなさいません。​ただ​一つ​残っていた​もの、​一人​息子を​失った​寡婦の​悲しみに​心動かされ、​自ら​近づいていかれたのです。

​ イエスは​哀れに​お思いに​なった、と​福音史家が​書き記しています。​ラザロの​死の​ときと​同じように、​傍目にも​わかる​ほど心を​動かされたのでしょう。​イエスは​愛ゆえの​苦しみに​対して​無関心で​いる​ことは​できなかったし、​今も​無関心では​ありません。​両親から​子どもを​引き離してお喜びに​なることもありません。​イエスは、​命を​与える​ため、​互いに​愛し合う​人々が​一緒に​いる​ことができるように​死を​克服な​さったのです。​しかし​その前に、​そして​同時に、​正真正銘の​キリスト的な​生き方を​するには、​すべてに​優越する​神の​愛に​生活を​支配させなければならないとお教えに​なりました。

​ キリストは​ご自分を​取り巻く​群衆が​奇跡に​驚くだろう​こと、​また​町中に​その出来事を​言い​触らしに​行くだろう​ことを​ご存じです。​しかし、​主の​身ぶりに​わざとらしさは​ありません。​ただ​あの​婦人の​苦しみに​心を​動かされ、​慰めを​与えずには​おれないのです。​事実、​彼女の​方に​近づき、​「もう​泣かなくとも​よい」​33と​仰せに​なります。​それは、​「涙に​くれる​お前は​見たくない。​私は​喜びと​平和を​この​世にもたら​すために​来たのだから」と​悟らせようとなさるかのようです。​その後で、​神と​しての​キリストの​力が​発揮され、​奇跡が​起こります。​しかし、​奇跡より​先に、​キリストの​聖心は​憐れみに​震え、​人と​して​キリストの​有する​聖心の​優しさが​はっきりと​表れたのでした。

イエスから​学ばなければ、​本当に​愛する​ことは​決して​できないでしょう。​ある​人たちが​考えるように、​神の​愛に​相応しい​清い心を​保つとは、​人間的な​愛情に​係わったり染まったりしない​ことだと​すれば、​他人の​苦しみに​対して​冷淡に​なって​当然と​言えるでしょう。​潤いもなく​心の​こもらない​形だけの​愛と​なり、​情愛と​人間味ある​温かさ、​つまり​キリストの​本当の​愛徳は​実行できない​ことでしょう。​こう申し上げても、​人々の​心を​迷わせ、​神から​離れさせ、​罪の​機会に​そして​滅びに​導くような、​誤った​考え方を​認める​つもりは​毛頭ありません。

​ この​世に​おいては​避ける​ことができない​苦しみ、​時には​ひどい​苦悩から​人々を​救う​ための​真の​聖香油とは​愛であって、​その​ほかの​慰めは​ほんの​ひと​とき心を​慰めるのに​役立つと​しても、​その後で​苦痛と​絶望を​心に​残すだけである​ことが​理解できる心、​人々の​悲しみに​同情できる​心を​くださる​よう、​今日の​祝日に​あたって、​主に​お願いしなければなりません

​ 繰り返し申し上げますが、​人を​助けたいの​なら、​理解と​献身と​愛情、​自ら​へりくだる​意志を​もって​人々を​愛さなければなりません。​そう​すれば、​なぜ主が​全律法を​二つの​掟に​要約されたかが​理解できるでしょう。​といっても、​実際には​一つ、​つまり、​心を​尽くして、​神と​隣人を​愛する​ことなのです34。

​ キリスト信者、​実は​あなたと​私の​ことなのですが、​キリスト信者は​時と​して、​この​掟の​実行を​全く​忘れているのではないかとお考えかもしれません。​正義にもとる​数多くの​行いを​避ける​努力が​なされていないとか、​正されていないとか、​あるいは​また、​根本的な​解決策を​講じないまま​世代から​世代へと​差別が​伝わっていると​思う​こともあるでしょう。

​ このような​問題の​具体的な​解決策を​提案する​ことは​私には​できませんし、​また​そうする​つもりも​ありません。​しかし、​キリストの​司祭と​して、​聖書の​教えを​思い出してくださるように​申し上げるのは​私の​務めです。​キリストご自身が​お示しに​なる​審判の​場面を​黙想してください。​「それから、​王は​左側に​いる​人たちにも​言う。​『呪われた​者ども、​わたしから​離れ去り、​悪魔と​その​手下の​ために​用意してある​永遠の​火に​入れ。​お前たちは、​わたしが​飢えていた​ときに​食べさせず、のどが​渇いた​ときに​飲ませず、​旅を​していた​ときに​宿を​貸さず、​裸の​ときに​着せず、​病気の​とき、​牢に​いた​ときに、​訪ねてくれなかったからだ』」35。

​ 困難や​不正義を​目にしても​反応せず、​それらを​軽く​する​努力もしないような​人や​社会と​いう​ものは、​聖心の​愛に​従う人でもなく​社会でもないと​言えます。​キリスト信者は​種々の​解決策を​自由に​研究し、​そして​自由に​実行に​移さなければなりません。​当然、​多様性を​尊重するよう​要求されてはいますが、​人類への​奉仕と​いう​同一の​目的に​向かって​一路邁進すべき点では​一致していなければなりません。​そうでなければ、​その​キリスト教は​神と​人々に​対する​偽りと​見せかけに​すぎず、​イエスの​言葉であるとも、​生命であるとも​言えないでしょう。

キリストの​平和

 しかし、​さらに​もう​一つの​ことを​考えなければなりません。​善を​行う​ために​ひる​まずに​戦う​必要が​あると​いう​ことです。​それと​言うのも、​正義を​実行しようと​真剣な​決心を​立てる​ことは​難しいと​わかっているだけでなく、​社会生活が​憎悪や​無関心に​よってではなく、​愛に​鼓舞された​ものとなるには​まだまだ​実行すべきことが​残っているからなのです。​たとえ富が​正当に​分配され、​社会の​構成が​調和のとれた​ものになっても、​病の​苦しみ、​無理解や​孤独の​苦しみ、​愛する​人の​死が​与える​苦痛、​自己の​限界を​体験した​ときの​苦しみが​消えて​なくならない​ことも​明白な​事実であるからです。

​ このような​苦しみを​経験する​信者に​与えられる、​本当の​答え・​決定的な​答えは​ただ​一つしか​ありません。​すなわち、​苦しみ死去される​神、​すべての​人々を​愛するが​ゆえに​槍に​貫かれた​心を​お与えに​なる神、​十字架上の​キリストなのです。​主は​不当な​行いを​憎み、​不正義を​働く​人々を​罰せられます。​それでも、​一人​ひとりの​自由を​尊重なさいますから、​不正義を​働く​人が​いる​ことは​許容されるのです。​主なる​神は​わざと​人間に​苦しみを​与えたりなさいませんが、​苦しみは​原罪を​犯した​後の​〈人間の​条件〉ですから、​苦しみを​黙認されます。​しかし、​それにも​拘わらず、​人々への​愛に​溢れる​聖心は​自ら​進んで​十字架と​共に、​人間の​苦しみと​悲しみと​苦悩、​正義に​飢え渇く​心を​背負ってくださったのです。

​ 苦しみに​ついての​キリストの​教えは​安っぽい​慰めの​一覧​表では​ありません。​第一に、​それは、​人間生活と​切っても​切れない​苦しみを​受け入れよ、​と​説く​教えです。​私は、​十字架の​ある​ところ、​キリスト​あり、​愛あり、と​説き続けてきましたし、​そのように​生きる​努力を​続けてきました。​そして、​一生に​何度も​苦しみに​襲われ、​一度ならず​泣きたくなったこともあると​隠さずに​申し上げます。​不正義と​悪を​見て​嫌悪の​情が​昂ずるのを​どうしようもなかったこともあります。​そして、​それに​ついて​何も​できない​自分に​気づき、​なんとか​したいと​望みつつも、​努力の​甲斐なく​そのような​不正な​状態を​改善する​ことができないが​ために、​不快感を​味わった​こともあります。

​ 苦しみに​ついて​お話しする​とき、​ただ​抽象的な​苦しみを​考えているのでは​ありません。​いつか苦しみに​襲われて心の​動揺を​感じるなら、​その​ときの​唯一の​手立ては​キリストを​見る​ことであると​保証しても、​私は​他人の​経験に​ついて​話しているのでは​ありません。​カルワリオの​場面に​目を​やると、​十字架に​一致して​生きよ、​そう​すれば​悲しみは​聖化されるはずである、と​教えています。

​ キリスト教的に​受け止めるなら、​私たちが​受ける​苦難は​償いと​なり、​人々を​愛するが​ゆえに​あらゆる​種類の​苦しみを​体験された​キリストの​運命と​生涯に​あずかる​ことに​なるのです。​キリストは​生まれ、​哀れな​死を​遂げました。​非難され、​侮りと​中傷を​受け、​最後には​不当にも​死罪を​お受けに​なりました。​弟子たちに​裏切られ、​見捨てられ、​孤独に​さいなまれ、​刑罰と​死の​悲痛を​体験されたのです。​今も、​同じ​キリストが、​その​仲間、​地上に​住むすべての民、​ご自分が​その頭であり長子、​救い主である​民の​ために​苦しみ続けておられます。

​ 苦しみは​神の​計画の​なかに​入っています。​理解し難い​ことでは​ありますが、​それが​現実なのです。​人と​しての​イエス・キリストに​とっても、​苦しみに​耐えるのは​並大抵の​ことでは​ありませんでした。​「父よ、​御心なら、​この​杯を​わたしから​取りのけてください。​しかし、​わたしの​願いではなく、​御心のままに​行ってください」36。​御父のみ​旨と​責苦との​板挾みに​なりつつも、​イエスは​静かに​死に​赴き、​十字架の​刑の​執行者を​お赦しに​なるのです。

​ 苦しみを​超自然的に​受け入れる​ことこそ、​大きな​勝利を​意味します。​イエスは​十字架上で​死去する​ことに​より、​死を​克服なさいました。​神は​死から​命を​引き出されるのです。​神の​子は​たとえ悲劇的な​不運に​遭遇しても、​諦めるのではなく、​勝利の​満足感を​前もって​味わう​態度を​とらなければなりません。​勝利を​もたらすキリストの​愛の​名に​おいて、​信者は​この世の​ありと​あらゆる​道に​飛び出し、​言葉と​行いを​もって、​〈平和と​喜びの​種蒔き人〉に​ならなければなりません。​悪と​不正義と​罪に​対抗し、​平和の​ための​戦いを​続け、​人間の​現在の​状態が​最終的な​ものではなく、​やがて​キリストの​聖心に​現れた​神の​愛が、​栄光に​満ちた​霊的な​勝利を​人々にもたらせる​ことを​宣言しなければならないのです。

先ほど​ナインの​出来事を​思い出しましたが、​福音書には​同じような​場面が​数多く​ありますから、​別の​ところを​引用する​ことも​できます。​これらの​話は​感動を​呼び起こしてきました。​また、​いつに​なっても​同じ​効果を​与える​ことでしょう。​人と​して​同情する​イエスの​真心からの​行いであり、​主の​偉大な​愛を​特に​明らかに​する​話だからです。​イエスの​聖心は​託身​(受肉)された​神の​聖心、​私たちと​共に​おいでになる神・インマヌエルの​聖心です。

​ 「キリストに​一致する​教会は、​傷ついた​聖心から​誕生する」37。​その​広く​寛大な​聖心から​命が​伝わってきます。​神が​私たちの​中で​お働きに​なる​秘跡、​キリストの​救いの​力に​あずから​せてくださる​秘跡に​ついて、​たとえ簡単に​でも、​思い出さなければならないでしょう。​感謝の​心を​込めて、​聖体の​秘跡と​十字架上の​聖なる​犠牲、​そして、​ごミサに​おける​犠牲の​絶え​ざる​現在化​(現実化)を​思い出さないわけには​いきません。​イエスは​自らを​食物と​してお与えに​なります。​イエス・キリストが​おいでになったのですべては​変わりました。​心を​満たし、​行いと​考えと​思いに​影響を​与える​力、​聖霊の​助けが​私たちの​うちに​現れるのです。​キリスト信者に​とって​キリストの​聖心は​平和であります。

​ 主が​要求なさる​依託の​基礎と​なるのは、​私たちが​有する​小さい​望みや​弱い力ではなく、​第一に、​人と​なった​神の​聖心の​愛が​得てくださった​恩恵です。​そうであるから​こそ、​意気消沈したり、​落胆したりせずに、​天に​おいでになる​御父の​子に​相応しく、​内的生活に​堅忍できる​のみならず、​また​堅忍する​義務が​あるのです。​平凡な​生活や​単純な​些事や​日常生活を​取り巻く​いつも​変わらない​環境に​おいて、​キリスト信者が​どのような​態度で、​信仰・希望・愛の​徳を​実行に​移していく​か​考えてくだされば​嬉しく​思います。​神の​助けを​頼りに​行動する​人の​真髄は、​そういう​生活の​中に​あり、​また、​対神徳を​実行する​ことに​こそ心の​平和が​見出されるからなのです。

​ 以上が​キリストの​平和、​聖心が​もたらす平和の​結果です。​繰り返して​申し上げますが、​人々に​対する​イエスの​愛は、​神の​秘義の、​つまり​御父と​聖霊に​対する​御子の​計り​知れない​深い愛の​一面であるからです。​御父と​御子の​愛の​絆である​聖霊は、​〈み言葉〉の​うちに​人間の​心を​見出されます。

​ このように​信仰の​中心的な​秘義に​ついて​考えると、​どうして​も​知性の​限界と​啓示の​偉大さに​気づかないわけには​いきません。​しかし、​たとえ信仰の​真理を​完全に​理解する​ことができず、​真理を​前に​して​理性が​驚嘆する​ほかは​ないと​しても、​謙遜に、​固く​信じます。​キリストの​証言が​あるので、​これが​真理であると​確信できるのです。​イエスの​聖心の​愛を​通して、​三位一体の​神の​愛が​すべての​人々の​上に​注がれる​ことを​確信できるのです。

​それゆえ、​イエスの​聖心の​うちに​生き、​イエスに​一致するとは、​私たち自身が​神の​住まいに​変わる​ことだと​言えます。​わたしを​愛する​人は、​わたしの​父に​愛される​38、​と主は​仰せに​なりました。​キリストと​御父は、​聖霊に​おいて、​私たちの​心に​おいでになり、​そこに​お住まいに​なります39。

​ ほんの​わずかでも以上のような​ことを​理解すると、​私たちの​生き方は​変わり、​神に​飢える​心は​詩編の​言葉を​自分​自身の​言葉と​して​繰り返します。​わたしの​魂は​あなたを​渇き求めます。​あなたを​待って、​わたしのからだは​乾ききった​台地のように​衰え、​水の​ない​地のように​渇き果てています40。​すると、​願う​よう​勧められた​イエスは​出迎えに​きてくださり、​「渇いている​人は​だれでも、​わたしの​ところに​来て​飲みなさい」41と​仰せに​なります。​聖心を​差し出し、​憩いと​勇気を​得る​場を​お与えに​なるのです。​その​招きに​応えれば、​主の​言葉に​偽りの​ない​ことが​わかり、​飢えと​渇きは​募りに​募って、​願いの​言葉が​ほとばしり出る​ことでしょう。​神よ、​私の​心に​憩いの​場を​定め、​あなたの熱と​光を​与え続けてください、と。

​ ​「わたしが​来たのは、​地上に​火を​投ずる​ためである。​その​火が​既に​燃えていたらと、​どんなに​願っている​ことか」​42。​神の​愛の​火を​わずかなりとも​垣間見る​ことができました。​神の​霊感に​すべてを​委ねましょう。​人々が​キリストの​平和を​知り、​それと​共に、​幸せに​なることができるように、​地の​果てまで​〈神の​火〉を​もたらす​熱意を​燃え立たせたい​ものです。​キリストの​聖心に​一致して​生きる​信者に​とっては、​社会の​平和と​教会の​平和、​心の​平和、​神の​王国が​訪れた​ときに​完成する​神の​平和以外に​目的と​すべき​ものは​存在しないのです。

​ 平和の​元后である​マリア、​天使の​お告げの​実現を​信じた​あなたに​お願いします。​私たちの​信仰が​増し、​希望するに​堅く、​愛に​深さを​増すことができるよう​お助けください。​これこそまさしく、​御子が​本日至聖なる​心を​人々に​示すに​あたり、​お望みに​なることに​ほかならないからです。

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