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​「マリアは​天に​上げられ天使は​喜ぶ」1。​神は​聖母マリアを​体も​霊魂も​共に​天に​上げられました。​天使も​人間も​喜びを​隠せません。​心の​底から​溢れるように​湧き​上がる​喜び、​心を​平和で​満たす​今日の​喜びは​一体​どこからくるのでしょうか。​私たちの​母の​光栄を​祝うからなのです。​三位一体の​神に​これほど​称賛される​聖母を​みて、​その子である​私たちが​大いに​喜ぶのは​当然だと​言えるでしょう。

​ 兄である​至聖なる​御子キリストは、​カルワリオに​おいて、​聖ヨハネに​向かい、​「見なさい。​あなたの母です」2と​言われ御母を​私たちの​母と​してお与えに​なりました。​あの​悲嘆が​頂点に​達する​とき、​主に​愛された​弟子と​共に​私たちは​聖母を​お受けしたのです。​「あなた​自身も​剣で​心を​刺し貫かれます」​3と​いう​昔の​預言が​成就した​その​とき、​苦痛の​うちにも​聖母は​私たちを​受け入れてくださいました。​私たちは​みな​聖母の​子であり、​聖母は​全人類の​母であります。​人々は​今、​得も​言われぬ被昇天を​祝います。​聖母マリアは​天に​上げられたのです。​神なる​御父の​娘、​神なる​御子の​御母、​神なる​聖霊の​花嫁、​御身に​まさるのは​ただ神お一人。

​愛の​神秘

 これこそ愛の​神秘です。​人間の​理性では​到底理解できない​真理です。​被造物である​人間が​三位一体の​神の​愛と​喜びが​集中する​対象と​なったのです。​これほどの​尊厳を​受ける​ところまで​人間が​高められた​わけを​明らかに​するのは、​信仰以外に​ないでしょう。​これは​神の​神秘なのです。​しかし、​聖母に​関する​神秘ですから、​信仰の​他の​真理よりは​理解し易いような​気が​します。

​ もし、​今一度​自分の​母と​なる​人を​選ぶことができると​すれば、​どうするでしょうか。​やはり、​現在の​母を​選び、​できる​限りの​愛を​込めて​接する​ことでしょう。​キリストも​そうな​さったのです。​全能に​して​全知、​愛その​もの4である​キリストは​その力に​よって​すべての​望みを​遂げられたのです。

​ 昔の​キリスト信者は​どのように​考えたのでしょうか。​ダマスコの​聖ヨハネは​次のように​書いています。​「処女性を​完全に​保った​御方が​死後も​身体を​腐敗から​守ったのは​相応しい​ことであった。​子に​なった​創造主である​神を​胎内に​宿した​御方が​神の​宮殿に​住まうのは​相応しい​ことであった。​聖霊の​花嫁が​天の​宮殿に​入るのは​相応しい​ことであった。​出産の​ときに​なかった​苦痛を、​十字架上の​キリストを​見ながら心に​受けた​御方が、​神の​右に​座す御子を​眺めるのは​相応しい​ことであった。​神の​御母が​御子の​ものを​所有し、​すべての​人々から​神の​母、​神の​は​しためと​して​称えられるのは​相応しい​ことであった」5。

​ 神学者たちは​しばしば​同じように​考えて、​聖母マリアに​豊かに​与えられ、​その​被昇天に​おいて​頂点に​達する​恩恵の​わけを​なんとか​理解しようと​努めました。​「それが​相応しかった。​神は​そうする​ことが​できた。​よって​そのようになさった」6と。​これは、​なぜ神は​聖母に​無原罪の​御宿りの​最初の​瞬間から​あらゆる​特権を​お与えに​なったのか、と​いう​質問に​対する​答えなのです。​悪魔の​力に​服する​ことの​なかった​聖母は、​霊魂と​身体と​共に​清く​美しく​純粋であったのです。

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