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聖母マリアに​倣う

​ 聖母は、​恩恵には​いかに​応えるべきかを​示す模範であります。​その​生涯を​黙想するなら、​神の​光が​与えられ、​日常生活に​神的な​価値を​与えるには​どのように​すべきかが​理解できるでしょう。​年間を​通して​聖母の​祝日を​祝う​毎に、​また​日常生活の​いろいろな​瞬間に、​信者は​しばしば​聖母に​思いを​馳せます。​そのような​瞬間を​活用して、​私たちの​果た​すべき仕事を、​聖母ならどのように​果たすかと​考えて、​学びとる​事柄が​見つかり、​ついには​私たちが​聖母に​似てくる​ことでしょう。​ちょうど子どもが​母親に​似るように。

​ まず、​マリアの​愛に​倣わなければなりません。​愛徳とは​感情的な​ことだけでは​ありません。​言葉に、​特に​行いに​表れなければなりません。​聖母マリアは​「なれかし」と​言った​のみならず、​確固たる​決意、​取り消しを​許さない​決意を​最後まで​守りました。​私たちも​同じ態度を​保つべきです。​神の​愛に​刺激されて、​神のみ​旨を​察すると、​忠実・信実を​約束し、​また​約束を​実現させなければならないのです。​「わたしに​向かって、​『主よ、​主よ』と​言う​者が​皆、​天の​国に​入るわけではない。​わたしの​天の​父の​御心を​行う​者だけが​入るのである」12。

​ 聖母マリアの​自然な、​そして​同時に​超自然的な​優雅に​倣わなければなりません。​聖母は、​救いの​歴史に​おいて​特典を​受けた​御方であり、​彼女に​おいて、​「言は​肉と​なって、​わたしたちの​間に​宿られた」​13からです。​表立った​行動を​しない​心細やかな​証人でもありました。​自分の​栄誉を​望まず、​称賛されるのを​好まなかったのです。​聖母は​御子の​幼少時代の​秘義に​立ち会われましたが、​敢えて​言うならば、​秘義と​言っても​それは​ありふれた​秘義でした。​そして、​大きな​奇跡や​群衆の​歓呼の​際には​姿を​現さなかったのです。​エルサレムで​キリストが​小ろばに​乗って​入城し、​王と​しての​歓迎を​受ける​とき、​聖マリアの​姿は​見あたりません。​しかし、​みんなが​逃げてしまった​ときは、​十字架の​傍らに​姿を​現したのです。​聖母の​このような​振舞いには、​おのずと​心の​偉大さと​聖性の​深さが​顕れています。

​ 威厳と​服従の​両方を​兼ね備える​絶妙の​態度、​神に​従う態度を、​聖母を​模範と​して​学びたい​ものです。​聖母には、​従いは​するが、​あの​愚かな​おとめの​態度は​見られません。​聖マリアは​注意深く​神の​思し召しに​耳を​傾け、​理解できない​ことは​よく​考え、​知らない​ことは​尋ねます。​そして、​神のみ​旨を​果た​すために​すべてを​捧げます。​「わたしは​主の​は​しためです。​お言葉どおり、​この​身に​成りますように」14。​なんと​素晴らしい​態度でしょう。​神への​従順とは​隷従でも​良心の​隷属でもない​ことを、​私たちの​師である​聖マリアは​教えてくださいます。​心に​働きかけて、​「神の​子の​自由」​15を​発見させてくださるのです。

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