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祈りの​学び舎

 召し出しに​忠実な​聖母を​見つめて、​聖母の​純潔と​謙遜、​剛毅と​寛大と​忠実など​いろいろと​模範に​すべきことを​神の​助けに​よって​見出した​ことでしょう。​それらは​おのずと​模倣へと​招きます。​なかでも、​霊的生活の​進歩を​促す風土と​なると​いう​理由から、​他の​すべてを​包括する​もの、​つまり​祈りの​生活に​ついて​話してみたいと​思います。

​ 今日、​聖母マリアを​通しても​たらされる​恩恵を​活用し、​また​霊魂の​牧者である​聖霊の​勧めに​従う​ためには、​神との​活発な​交わりを​続ける​真剣な​覚悟を​しなければなりません。​無名氏と​して​隠れている​わけには​いかないのです。​神との​一対一の​出会いが​なければ​内的生活は​存在しないでしょうから。​表面的であれば​キリスト教的とは​言えません。​内的生活で​惰性に​陥って​平気であると​いう​ことは、​観想生活に​終止符を​打つに​等しいのです。​神は​私たち一人​ひとりを​探し求めて​おられるのですから、​私たちも​一人​ひとり個人的に​神の​呼びかけに​応えなければなりません。​「お呼びに​なったので​参りました」16と。

​ 周知の​通り、​祈りとは​神と​語り合う​ことです。​しかし、​語り合うと​言っても​何に​ついて​話すのだろうと​問う​人も​いるでしょう。​神に​ついて、​あるいは​日常の​出来事に​ついてでなければ、​何を​話題に​取り上げる​ことができるでしょうか。​イエスの​降誕に​ついて、​この​世での​生活、​隠れた​生活、​宣教、​奇跡、​贖いの​ご受難、​十字架と​復活に​ついて​話し合うのです。​そして、​三位一体の​神のみ​前で、​聖マリアを​仲介者とし、​敬愛する​私たちの​師である​聖ヨセフを​弁護者と​して、​日々の​仕事や​家族に​ついて、​友人に​ついて、​また​大きな​計画や​些細な​事柄ついても​話し合いましょう。

​ 私の​祈りは​自分の​生活に​ついてです。​私は​そうしています。​そして​自らの​姿を​見ると、​自らを​改善し、​神の​愛に​もっと​素直になろうと​いう​確固とした​決心、​誠実で​具体的な​決心が​生まれてきます。​さらに、​大急ぎで、​しかし​信頼し切った​願いを​しなければなりません。​聖霊が​私たちを​お見捨てになりませんように、​「神よ、​あなたは​わたしの​力です」​17と。

​ 私たちは​普通の​キリスト信者であり、​種々の​職業に​従事しています。​私たちの​活動は​すべて​通常の​経過を​たどり、​いつもの​調子で​展開されます。​毎日​同じような​日ばかりで、​単調に​感じる​こともあります。​ところが、​表面的には​平凡に​しか​見えない​ところに​こそ神的な​価値が​あるのです。​それこそ神の​関心事なのです。​キリストは​人間の​日常茶飯事の​なかに​入り込み、​もっとも​慎ましい​行為を​含めすべてに​生命を​与えようと​望まれたのです。

​ この​考えは​確かに​純粋な​超​自然的事実であって、​金縁の​歴史書に​自らの​名を​書き連ねる​ことのできなかった​人々を​慰める​単なる​思いでは​ありません。​キリストの​関心事は、​会社や​工場や仕事場、​学校や​田畑などで、​絶えず​繰り返さなければならない​私たちの​知的労働であり、​肉体的労働です。​また、​自らの​不機嫌を​人々に​ぶちまけないための​隠れた​犠牲にも​関心を​持っておられます。

​ 以上のような​ことを​念祷で​考え直してみましょう。​そのような​機会を​利用して​イエスを​礼拝して​ほしいのです。​そう​すれば、​世間の​直中で、​街頭の​雑踏の​なかで、​つまり​あらゆる​ところで​観想の​人である​ことができるでしょう。​これが、​イエスとの​交わりかた​教室の​第一課です。​そして​この​教室の​最も​すぐれた​先生は​聖マリアです。​聖母は​身の​まわりに​起こった​出来事を​常に​超自然的に​眺めて​信仰篤い態度を​保ち、​「これらの​ことを​すべて​心に​納めて​いた」​18のですから。

​ 観想の​人と​なる​ことができるよう、​また、​心の​扉を​叩いて​呼びかける​神に​気づく​ことができるよう助けてくださいと、​今日聖マリアに​謹んで​お願い​したい​ものです。​聖母よ、​あなたは​父である​神に​愛を​示すイエスを​この​世にも​たらしてくださいました。​日々の​仕事の​うちに、​イエスを​見つける​ことができるよう​お助けください。​神の​声や​恩恵の​働きかけを​聴きとることができるよう知性と​意志を​動かしてください。

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