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キリスト信者の​喜び

 教会が​提供する​話題を​もう​一度​取り上げてみましょう。​マリアは​霊魂と​体ともに​天に​上げられ、​天使たちは​喜び踊る。​私は、​天国で​マリアの​到着を​心待ちに​していた、​いと​潔き夫ヨセフの​ことも​考えています。​しかし​この​世での​生活の​話題に​戻りましょう。​信仰に​よれば​この​世での​生活は​巡礼・旅の​時期であり、​犠牲や​苦痛、​窮乏に​襲われない​ことはないと​教えていますが、​同時に​喜びも​あるのです。

​ 「喜び祝い、​主に​仕え」​28よ。​主に​仕える​ために​これ以上​よい​方法は​ありません。​心惜しみせずに​犠牲の​生活に​身を​捧げる​人、​「喜んで​与える​人を​神は​愛してくださる」29のです。​悲嘆に​くれても​当然だと​言えるような​動機など​存在しないのです。

​ 誰でも​自らの​至らなさや​失敗を​よく​知っており、​苦しみや​疲労、​忘恩や​憎しみを​経験するのだから、​こういう​楽天的な​考えは​大げさではないかと​考える​人も​いるでしょう。​キリスト信者と​いえども​他の​人々と​同じで、​人間の​条件から​免れる​ことは​できないのではないかと。

​ 地上を​旅する間、​苦痛や​落胆、​悲しみや​孤独に​何度も​見舞われる​ことを​否定するならば、​あまりにも​無邪気だと​言えるでしょう。​これらが​成り​行きの​結果でない​こと、​幸せの​望みを​失ってしまうのが​人間の​運命ではない​ことを、​信仰に​よって​確かに​学びました。​信仰は​あらゆる​事柄に​神的な​意味が​あると​教えますが、​その​神的な​意味こそ​私たちを​御父の​住まいに​導く​呼びかけの​核心なのです。​キリスト信者の​地上での​生活を​超自然的に​理解したからと​言って、​複雑な​人間の​生活を​単純化する​ことには​なりません。​しかし、​超自然的に​理解する​ことに​よって、​複雑な​人間生活には、​強くて​切れない​線、​つまり神の​愛と​いう​一本の​線が​貫き通っており、​それが​この​世の​生命と​天の​祖国での​最終的な​生命を​しっかり​結びつけていると​いう​事実が​確信できるのです。

​ 聖母の​被昇天は​この​喜びに​満ちた​希望を​示してくれます。​私たちは​今の​ところ​旅人ですが、​聖母は​先に​進み、​すでに​目的地を​教えてくださったのです。​到着の​可能性を​示すだけでなく、​忠実で​あれば​〈必ず〉到着できると​繰り返し教えているのです。​聖母は​私たちの​模範である​上に、​キリスト信者の​助けでも​あるのです。​「御身が​母たる​ことを​示し給え」​30と​いう​願いを​耳にし、​母と​しての​心遣いを​示し、​子である​私たちの​世話を​しない​ことなど​聖母には​考えられない​ことです。

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