96

キリストの​死去と​信仰生活

 カルワリオの​悲劇を​思い​起こしたばかりです。​これこそ、​イエス・キリストに​よって​捧げられた​最初の、​そして​本来の​ミサ聖祭であると​思われます。​父である​神は​御独り子を​死に​渡され、​御子は​刑の​道具である​十字架を​担われました。​イエスの​犠牲は​御父に​受け入れられ、​十字架の​実りと​して​聖霊が​人類の​上に​注がれる​6ことになったのです。

​ 受難の​悲劇に​おいて​私たち自身の​生命と​人類の​全歴史が​完了されるのです。​聖週間を​単なる​思い出に​するのではなく、​私たちの​うちに​生き続けておられる​イエス・キリストの​秘義に​ついて​思い巡らさなければなりません。​キリスト信者は​〈もう​一人の​キリスト、​キリスト自身〉に​ならなければならないのです。​人は​洗礼に​よって​自己の​存在を​つかさどる​司祭と​なり、​また​それは​「神に​喜ばれる​霊的ないけに​えを、​イエス・キリストを​通して​献げ」7、​そして​神のみ​旨に​従う​精神を​もって​行動し、​人と​なられた​キリストと​同じ​使命を​継続する​ためなのです。

​ ところが​現実は​どうでしょうか。​私たちは​過ちばかり繰り返しています。​だからと​いって、​失望し、​大志を​捨ててしまった​人々のように​懐疑的に​なっては​なりません。​私たちが​あるが​ままの​状態で​キリストの​生命に​参与し、​聖人に​なる​ために​戦うように​主は​呼びかけておられるからです。​〈聖化〉、​この​言葉を​なんとしばしば​意味もなく​口に​する​ことでしょう。​大勢の​人々に​とって、​それは​あまりにも​高すぎる​理想であり、​霊的生活の​一つの​テーマとは​なっても​具体的な​目標にはならず、​実際的な​ことでも​ないようです。​しかし​初代の​キリスト信者は​そうは​考えませんでした。​彼らは​ごく​自然に、​しかもしばしば​お互いに​〈聖人〉と​呼び合っていました。​「聖なる​者たち一同に​よろしく」8、​「キリスト・イエスに​結ばれている​すべての​聖なる​者たちに、​よろしく​伝えてください」​9などと​書かれてある​通りです。

​ 今​ここで、​カルワリオの​出来事に​立ち会ってみましょう。​イエスが​亡くなられ​その​勝利の​栄光が​まだ​輝かない​今、​キリスト教的な​生活を​したいと​いう​望み、​聖性への​望みが​いかほどの​ものであるかを​糾明するのに​相応しい​時であります。​糾明が​あれば、​弱さに​直面しても​信仰を​強め、​神の​力に​信頼して​日常の​事柄を​愛の​心で​果たす決心が​できる​ことでしょう。​罪の​経験に​よって​痛悔の​心が​起こり、​忠実に​なりたい、​本当に​キリストに​一致したいと​いう​固い​決意が​生まれる​ことでしょう。​そして、​キリストが​例外なく​すべての​弟子に​対して、​地の​塩・世の​光と​なるように​10と​託された​司祭的使命を、どのような​犠牲を​払ってでも​果たす決心が​生まれるに​違い​ありません。

この点を別の言語で