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キリストの​ご死去を​黙想すると、​日常の​務めを​真面目に​果たし、​自分の​告白する​信仰を​真剣に​考えるようになるはずです。​従って、​聖週間は、​人間的関心に​よって​のみ​動かされる​生活の​流れに​付け加えられた、​一時的で​形式的な​聖なる​期間に​すぎないと​考えては​なりません。​聖週間とは​神の​愛を​深く​極め、​言葉と​行いに​よって​その​愛を​人々に​示す好機と​すべきなのです。

​ 主は​愛する​ための​条件を​定められました。​聖ルカは​看過する​ことのできない、​厳しい​言葉を​書き残しています。​「わたしのもとに​来ると​しても、​父、​母、​妻、​子供、​兄弟、​姉妹を、​更に​自分の​命であろうとも、​これを​憎まないなら、​わたしの​弟子では​ありえない」11。​憎むと​いう​言葉は​キリストの​考えを​うまく​表現しているわけでは​ありませんが、​主のみ​言葉が​厳しかった​ことは​確かです。​この​表現を​和らげる​ために、​それは​〈控え目に​愛する​〉ことであるとの​解釈が​時々​見られますが、​そのような​意味では​ありません。​恐ろしい​ほどの​表現ですが、​否定的で​無慈悲な​態度を​要求しているわけでも​ないはずです。​このように​言われた​イエスは、​別の​ところで、​自分と​同じように​他人を​愛する​ことを​お命じに​なり、​また​ご自身を​人々の​ために​捧げられたからです。​この​言葉は、​神のみ​前では​中途半端な​態度は​許されない​ことを​示しているに​すぎません。​利己的な​狭い​心から​出る​愛ではなく、​〈おおらかな​心から​生まれるより​大きな​愛〉を​要求するのが​キリストの​言葉であると​言えます。​すなわち、​神の​愛を​もって​愛すべきことを​教えておられるのです。

​ 「自分の​命であろうとも」と​いう​イエスの​要求に​注目しましょう。​主が​求めて​おいでになるのは、​命その​もの、​私たちの​霊魂なのです。​従って、​高慢であったり、​自分の​安楽ばかりを​求めたり、​自己中​心的な​考えに​よって​生活していると​すれば、​キリスト信者と​呼ばれる​資格もなく、​キリストの​弟子であると​考える​値打ちも​ありません。​言葉と​口先だけではなく、​〈行いを​もって​誠実に​〉12、​自己を​捧げるべきなのです。​神の​愛が​あれば、​私たちは​十字架を​しっかりと​担い、​全人​類の​罪の​重さを​自分の​肩に​感じ、​各人の​身分や​仕事を​通して、​神のみ​旨に​基づいた​明らかな​愛すべき​ご計画を​果たすことができるでしょう。​これまで​考えてきた​言葉に​加えて、​イエスは​次のように​言われました。​「自分の​十字架を​背負って​ついて​来る​者でなければ、​だれであれ、​わたしの​弟子では​ありえない」13。

​ 恐れずに​神のみ​旨を​受け入れ、​信仰が​教え要求する​ところに​一致した​生活を​築き上げる​固い​決心を​立てましょう。​戦いや、​悩み、​苦しみが​ある​ことは​確かです。​しかし、​生きた​信仰を​持っているなら​決して​不幸だとは​思わないでしょう。​悲しみや​中傷の​的に​なるような​ことが​あったとしても​幸福だと​感じるようになり、​人々を​愛し、​超自然的な​喜びを​与える​ことができる​ことでしよう。

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