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亡くなられて​復活され、​あらゆる​ところに​いつも​現存しておられる​キリストヘの​信仰は、​心を​照らし、​歴史の​変遷の​中で​諸問題の​解決に​全力を​尽くして​協力するように​促しています。​天地の​創造より​その​終末に​至る​歴史に​おいて、​キリスト信者は​無国籍者では​ありません。​その魂は​神の​愛を​求める​人間社会の​一員です。​人間は​この世に​ありながら神の​愛を​垣間見る​ことができ、​この​世に​住んでいる​目的が​何であるかも​知っているのです。

​ 個人的な​経験に​触れる​ことが​許される​ならば、​次のように​言えるでしょう。​司祭と​して、​霊的指導者と​しての​仕事とは、​神の​お望みを​各人に​自覚させ、​信者の​良心の​〈幸いな​〉責任と​自立に​何ら制限を​加える​ことなく、​各自の​生活を​完成させるように​導く​ことであると​考えてきました。​このような​指導原理は、​啓示された​偉大な​真理に​対する​尊敬と​人間の​自由に​対する​愛から​生まれますが、​さらに、​歴史の​流れは​明確に​定められているのではなく、​あらゆる​可能性を​神から​付与されている​事実への​確信に​基づくとも​言えるでしょう。

​ キリストに​従うとは、​教会の​建物に​逃避し、​社会の​発展や​人間の​成功や​逸脱に​背を​向ける​ことでは​ありません。​信仰を​もつならば、​世界が​神の​創造に​なる​ことを​知り、​すべての​高貴で​美しい​ものに​背を​向ける​ことなく​その​価値を​認め、​神の​似姿である​人間の​人格を​尊重し、​また、​自らの​行いの​主人たる​人間が​神の​恩恵に​より​永遠の​生命を​築くもととなる​特別の​恵み、​つまり​自由を​称える​ことができるのです。

​ どのような​資格が​あって​そうするかは​不明ながら、​多種​多様の​解決方​法を​持ち得る​諸問題に​ついて、​他人が​自分と​同じ​考え方を​しないからと​言って、​政治的宗教的旗じるしを​掲げて​排斥する​人が​います。​それこそ、​信仰を​狭小な​もの、​現世的な​イデオロギーに​帰してしまう​ことだと​言えるのではないでしょうか。

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