永遠

 神の​子なら、​生命も​死も​恐れない。​神の​子と​しての​精神が​内的生活の​基礎と​なっているからである。​神は​私の​父であり、​すべての​善の​創り主、​善その​ものであると​考えているからである。

​ところで、​あなたも​私も​本当に​神の​子らしい​生き方を​しているのだろうか。

 私の​言った​ことを​理解してくれたので​本当に​嬉しかった。​「あなたと​私は​愛する​ことを​知っている​人らしく​働き、​生き、​死ななければならない。​そう​すれば、​永遠に​〈生きるだろう〉」、​私は​そう​言ったのだった。

 主は​常に​勝利を​得られる。​あなたが​主の​道具に​なれば、​やはり​あなたも​勝利を​得るだろう。​その​とき、​あなたの​戦いは​神の​戦いと​なっているからである。

 聖性とは、​一生を​通して​忠実を​保つために​戦い、​死が​訪れた​ときは​神のみ​旨を​喜んで​受け入れる​こと、​これに​尽きる。

 ご聖体の​主を​拝領した​ときは、​あなたと共に​いてくださる​主の​優しさに​心の​底から​感謝しなさい。

​ 救い主の​降臨が​実現するまでに​幾世紀もの​歳月を​待たなければならなかった​ことを​考えたことがあるだろうか。​太祖や​預言者たちがイスラエルの​民全体と​共に、​「地は​渇いています。​主よ、​来てください」と​祈り続けたのだった。

​ 愛を​待つあなたも​このようであって​欲しい。

 神を​否定する​人の​居る​現在でも、​地は​天の​すぐ​近くに​ある。

 あなたは​次のように​書いていた。​「『天の​国は​宝が​隠されている​畑』。​福音書の​この​一節は、​心に​落ちて、​しっかり根を​張った。​幾度も​読んだ​箇所であったが、​その​時まで​その​核心の​神的味わいを​捉える​ことができなかった」。

​ 分別の​ある​人は、​栄光に​輝く​素晴らしい​宝・真珠を​手に​入れる​ためなら、​すべてを​売り払うはずである。

 聖母マリアに​話しかけ、​信頼を​込めて​申し上げなさい。​「聖母よ、​神が​心に​注がれた​理想を​実現させるには、​高く、​高く、​非常に​高くまで​飛び​上がらなければなりません」。

​ 神の​御助けを​得て、​土に​過ぎない​この​世の​ものから​離脱するだけでは、​十分とは​言えない。​さらに、​天に​近づく​ためには、​たとえ宇宙全体を​山積みに​してあなたの​足下(あしもと)に​置いたとしても、​まだ​十分とは​言えない。

​ 地上の​事物を​頼りに​せず、​聖霊のみ​声と​ささやきに​耳を​傾けて、​舞い​上がる​必要が​あるのだ。​「しかし」と​あなたは​言う。​「私の​翼は​汚れています。​汚れてべたべた​した​何年分もの​泥が​こびり付いているのです」。

​ 処女マリアの​御名を​お呼びしなさい、と​私は​重ねてあなたに​勧めた。​「舞い​上がる​ことさえできません。​この​世が​呪われた​磁石の​ごとく​私を​引き寄せます。​聖母よ、​あなたなら、​わたしが​栄光に​輝く​決定的な​飛行を​始め、​やがて神の​聖心に​届く​よう、​お助けに​なることができます」。​繰り返し、​こう申し上げなさい。

​ 必ず​聞き届けてくださるから、​信じてお任せしなさい。

 主の​ために​焚(た​)く​香(こう​)が​どれほど神を​お喜ばせできるか​考えてみなさい。​始まった​途端に​終わる​この​世の​ものが、​いかに​値打ちの​ない​ものであるかに​ついても​考えなさい。

​ それに​対し、​天では​偉大な​愛が​あなたを​待っている。​裏切りも​欺(​あざむ​)きもない、​愛その​もの、​美その​もの、​偉大さその​もの、​知恵その​ものでありながら、​うんざりさせない。​すなわち、​飽(あ)かせる​ことなく​満足させ、​いくらでも​欲しくなる​愛が​待っているのだ。

 超​自然的な​見方、​落ち着き、​平和。​このように、​つまり​永遠の​目で、​人と​物事と​出来事を​眺めなさい。

​ そうするなら、​たとえ人間の​力では​どうにもならない​ほど​厚く​高い​壁が​道を​塞いだと​しても、​本気に​なって​目を​天に​上げるだけで、​それら​すべてが​ちっぽけな​ものに​見えてくる。

 キリストの​傍に​居て、​キリストの​跡に​従うなら、​地上の​物事からの​離脱や​清貧、​種々の​欠乏や​不足を​心から​愛さなければならない。

 霊的生活に​おいては、​天国で​勝利を​得る​ため、​しばしば地上で​敗北を​喫(きっ)するべきである。​そう​すれば、​常に​勝利を​得る​ことができる。

 現世的な​事柄に​ついて​〈いつまでも​〉と​いうのは​嘘である。​どこから​見ても​嘘偽りなく​真実なのは、​永遠の​〈いつまでも​〉だけである。​このように、​すなわち真の​〈いつまでも​〉と​言える​永遠を​思う​とき、​蜜の​味と​天の​甘美を​味わわせてくれる​信仰を​持って​生きなければならない。

 現世しかないと​すれば、​一生は​残酷な​冗談と​なる。​人生が、​偽善、​邪悪、​利己主義、​裏切りと​なるのだ。

 まことに​小さな​存在 ― 無 ― に​過ぎない​あなたであっても、​喜んで​努力を​続け、​前進しなさい。

​ 神と​一緒で​あれば、​この世であなたの​歩みを​妨げる​者は​いないだろう。​また次の​ことも​考えなさい。​神を​愛する​人に​とって​すべては​良い​ものである。​この​世では​死以外の​すべてが​解決可能であり、​私たちに​とって​死は​〈生命〉である。

 主よ、​あなたは​人間を​救う​ため十字架の​上で​死去されます。​それにも​かかわらずあなたは、​たった​一つの​大罪を​犯した​人を​断罪し、​永遠の​苦しみと​いう​不幸へ​落とされます。​あなたに​とって​罪は​なんと​ひどい​侮辱なのでしょう。​私は​徹底的に​罪を​憎まなければなりません。

 大聖テレジアは、​「祈りを​しない​人なら、​悪魔が​誘惑するまでもありません。​毎日​十五分の​祈りさえすれば、​必ず​救われます」と​保証している。​苦しい​ときも、​心が​冷たい​ときも、​神との​優しくて​温かい​語り合いが​あれば、​生活の​本当の​意義と​正しい​値打ちを​知る​ことができるのである。

​ 祈りの​人に​なりなさい。

 ​「すると、​あなたは​王か?」、​そう、​キリストは​王である。​そして​王は、​あなたが​望むとき謁見を​お認めに​なるだけでなく、​愛に​捕(とら)えられ、​あなたには​まだ​行く​ことができない​天の​素晴らしい​宮殿を​捨てて、​聖櫃の​中であなたを​待っていてくださる。

​ 急いで​近づき、​もっと​忠実に​主と​話し合わないなんて、​愚かな​ことだと​思わないのだろうか。

 天国の​幸せは、​この​世に​幸せで​いる​ことのできる​人が​手に​入れる。​私の​この​確信は​日毎に​強くなる。

 現世と​永遠の​幸せを​得る​ための​方法・​秘訣が​真昼の​太陽に​照らされたようにはっきり​見える。​それすなわち、​神のみ​旨に​順応するだけでなく、​意志の​積極的な​行為に​よって​神のみ​旨と​一致し、​それに​固執する​こと、​一言で​いえば、​神のみ​旨を​愛する​ことである。

​ 繰り返すが、​これこそ​喜びと​平和を​得る​ための​最も​確実な​秘訣である。

 幾度も​幾度も​神の​恩恵に​満たされ、​酔っていると​言える​ほどの​状態である​ことに​気づくだろう。​それにも​かかわらず、​恩恵に​応じないと​すれば​なんと​大きな​罪に​なる​ことだろう。

 誘惑に​襲われた​ときは​希望の​徳を​実行して、​次のように​言いなさい。​「永遠の​休息と​喜びが​私を​待っている。​今は​信仰に​満ち、​働きに​よって​休息を​得、​苦しみを​通して​喜びを​得る​ときだ。​天国ではどのような​愛を​得る​ことができるのだろうか」。

​ もっと​良いのは、​愛を​実行して、​次のように​反応する​ことである。​「すべてに​おいて​神のみ​旨を​果たし、​私の​神・​私の​愛する​御方を​お喜ばせしたい。​賞も​罰も​考えず、​ただただ神を​お喜ばせすると​いう​目的の​ために​神のみ​旨を​果た​そう」。

 時には​稲妻のように、​また​時には​追い​払っても​舞い​戻ってくる​汚くてうるさい​蝿(は​え)のように、​意向が​正しくなかったのではないかと​いう​不安が​襲ってきたら、​いつも​すぐに​意向を​正し、​主に​よって、​主と​共に、​落ち着いて​仕事を​続けなさい。

​ ついでに、​口先だけのように​思えても、​「主よ、​私の​ためには​何も​欲しく​ありません。​すべては​あなたの​栄光の​ため、​あなたの愛の​ために​いたします」と、​ゆっくり申し上げなさい。

 ​「ここに​居るのも​中国に​居るのも​私に​とっては​同じ​ことです」と、​あなたは​言った。

​ それなら、​神の​聖なるみ旨を​果たせる​ところに​居るようにしなさい。

 大勢の​人が​闇に​留まらず、​永遠の​生命に​至る​道を​歩むか​否か、​これも​あなた​次第である。

 あなたが​接する​人々、​一人​ひとりを​それぞれの​守護の​天使の​保護に​委ねなさい。​その​人た​ちが​善良で​忠実、​しかも​朗らかで​いる​ことができる​ため、​また​定められた​ときに、​父なる神、​子なる神、​聖霊なる神、​聖マリアの、​永遠の​愛を​受ける​ことができる​ためである。

 ​私たちは、​麦の​粒と​同じく、​実を​結ぶ​ために​死ななければならない。

​ あなたと​私は​神の​恩恵を​受け、​深くて​光り輝く​道を​拓(ひら)いて​行きたいと​思う。​その​ために​哀れな​動物的人間​(古い​人)を​捨てて霊の​分野に​飛び出し、​人間が​携わる​すべての​仕事と​そこで​働く​人々に、​超自然的な​意味を​伝えなければならない。

 イエスよ、​あなたと​語り合う​ときは​世間の​ことを​思い出さず、​この​世の​事柄を​相手に​する​ときは​注意散漫となりあなたを​思い出すことができますように。

 あまりにも​光が​強すぎて、​見つめる​ことは​おろか、​見る​ことさえ​難しいのではないかと、​あなたは​少し​恐れた。

​ あなたの​明らかな​惨めさに​対して​目を​閉じ、​心の​目を​信仰と​希望と​愛に​向けなさい。​そして​人間を​通してあなたを​お導きに​なる​御方に​すべてを​委ねて、​道を​歩み続けなさい。

 寛大に​なりなさい。​イエスには​わずかの​慰めを​も​求めないようにしなさい。

​ あなたは​「なぜ?」と​問うた。​あなたたちも​知っているように、​私たちの​神は​遠くに​おられるようでも​心の​真ん中に​座を​占めて​おいでになり、​生活全体に​神的な​彫りと​深みを​与えてくださるからである。

 あなたに​話したように、​洗礼を​受けていない​人で​さえ​感動して​言っていた。​「本当に、​聖なる​人は​幸せであって​当然です。​地上の​事柄を​超越した目で​この​世の​出来事を​眺め、​永遠の​目で​物事を​見るからです」。

​ その後で、​「三位一体の​神が​お与えに​なった​寵愛に​ふさわしい​生き方が​できるよう、​超自然の​見方を​失わないようにしなさい」と、​私は​付け加えた。

 あなたに​保証しよう。​神の​子らが​望みさえ​すれば、​主が​私たちの​心に​委ねられた​ ― 永遠の​ ― 神的な​光で、​人々の​仕事と​生活を​照ら​すため、​大いに​貢献できる。

​ しかし​聖ヨハネが​教えるように、​「神の​内に​いつも​いると​言う​人は、​イエスが​歩まれたように​自らも​歩まなければなりません」。​必ず​栄光に​至る​道を​歩むわけだが、​その道は​必ず犠牲を​通って​行くのである。

 偽(に​せ)の​使徒の​光を​見た​人々は、​闇から​出て​その​明るさに​近づいた​とき、​がっかりする​ことだろう。​そこへ​行くには​走らなければならなかった。​道の​途中で​皮膚が​傷だらけに​なることも​あっただろう。​光を​渇望する​あまり魂を​ずたずたに​した​人も​いただろう。​そして​やっと​偽の​使徒のもとに​着いたと​思ったら、​あるのは​冷淡さと​闇。​わずかの​あいだ理想を​信じた​人たちの​傷ついた​心を​満たすのは​冷淡さと​闇のみである。

​ 偽の​使徒の​邪悪な​仕業である。​燃え​上がる​火や​素晴らしい​愛徳の​ルビーとで​あれば、​自らの​肉体さえ​交換する​覚悟で​やって​来た​人々も、​がっかりして​再び元の​ところへ​落ちて​行く。​燃え​尽きた心、​心と​呼べない​心、​やがて​頭脳さえ​真っ暗に​するような​闇に​包まれた​一片の​氷の​ごとき心で、​落ちて​行くのである。

​ 矛盾だらけの​偽の​使徒よ、​自らの​仕業を​見よ。​口先で​キリストの​名を​呼ぶが、​お前の​行いは​キリスト不在である。​自分が​持たない光で​人を​引き付けるが、​愛徳の​熱は​持っていない。​見知らぬ人を​気遣う​ふりは​するが、​仲間の​ことは​無視する。​お前は​嘘つきで、​嘘は​悪魔の​申し子である。​だから​お前は​悪魔の​ために​働き、​私たちの​主に​付き従う​人々を​迷わせる。​そして​この​世でしばしば​勝利を​得ると​しても、​哀れな​人間よ、​私たちの​友なる​死の​訪れる​日、​お前が​決して​欺(​あざむ​)き通せなかった​審判者の​怒りを​目に​するだろう。​主よ、​矛盾は​嫌です。​矛盾だらけの​生き方は​決して​したく​ありません。

 確実な​道を​教えよう。​恥辱を​通って​十字架へ、​そして​十字架から​キリストと​共に、​御父の​終わりなき栄光へと​向かう道である。

 ​その​日の​ミサの​書簡は​本当に​嬉しかった。​聖霊が​聖パウロを​通して​不滅と​栄光の​秘訣を​教えてくださるのである。​人間は​誰でも​永遠に​生きたいと​切に​望んでいる。

​ 自分が​幸せだと​思う​生活の​瞬間を​永遠に​したいと​望み、​自分に​ついての​思い出を​称えたいと​思っている。​私たちは​自分の​理想を​不滅に​したいと​望むのである。​だから、​見せかけの​幸せを​感じる​ときや​孤独を​慰めてくれる​ものが​ある​とき、​誰もが​自然に、​〈永遠に、​永遠に​〉と​言い、​また​そう​願うのである。

​ 悪魔の​なんと​賢い​ことか。​人間の​心を​知り尽くしている。​人祖に、​あなたたちは​神のようになる、と​言った。​実に​残酷な嘘であった。​聖パウロは​フィリピの​信徒への​手紙の​中で、​不滅と​栄光を​得る​ための​神的な​秘訣を​教えてくれる。​イエスは​僕の​身分に​なり、​自らを​無と​された。​へりくだって、​死に​至るまで、​それも​十字架の​死に​至るまで​従順であった。​この​ため、​神は​キリストを​高く​上げ、​あらゆる​名に​まさる​名を​お与えに​なった。​こうして、​天上の​もの、​地上の​もの、​地下の​ものが​すべて、​イエスの​御名に​跪(​ひざまず​)いた、と。

 栄光の​キリスト、​決定的な​勝利を​得た​キリストの​お伴を​するには、​その前に​主の​燔祭に​与り、​カルワリオで​死去された​キリストと​ひとつに​なる​必要が​ある。

 気を​散らしてはならない。​想像力を​野放しに​してはいけない。​あなた​自身の​中で​生きなさい。​そう​すれば、​もっと​神の​近くに​居る​ことができるだろう。

 あの​人にも、​この​人にも、​すべての​人の​耳元で​繰り返したいので​手伝って​ほしい。​信仰の​ある​罪人なら、​たとえこの​世の​あらゆる​幸福を​手に​入れた​としても、​必ず​自分が​不幸で​惨めな​存在である​ことを​感じる​ものである。

​ 確かに、​たとえ小罪であっても​罪を​憎む動機は​ ― 誰もが​持つべき動機だが​ ― 超​自然的でなければならない。​神は​罪を​無限の​善に​反する​悪と​して、​神の​無限性を​もって、​最高に、​永遠に、​必然的に​憎まれるからである。​ところで、​最初に​述べた​ことを​考えると、​二番目に​述べた​考えに​導かれるだろう。

 愛なる方の​ために​捧げる​犠牲が​多ければ​多い​ほど、​それだけ​高い​聖性が​得られる。

 激しい​迫害が​猛威を​振るい​始めた。​そこで、​あの​司祭は​祈った。​イエスよ、​汚(お)聖(せい)の​放火が​なされる​ごとに、​私の​愛と​償いの​火を​より​大きくしてください。

 使徒職の​偉大さと​効果に​思いを​馳せると​ ― なんと​大勢の​人が​待っている​ことか​ ―、​走るべき道程の​長さを​思って​頭が​痛くなるが、​同時に、​自らを​奴隷と​して​イエスに​捧げる​ことの​幸せを​感じる、と​言う。​十字架、​苦しみ、​愛、​そして​人々の​救いを​あなたは​熱望している。​考えたわけではないが​自然に、​愛に​動かされて、​腕を​広げ、​両手を​開いた。​イエスが​あなたを​幸いな​十字架に​釘づけになさる​ため、​〈わたしは​仕えます〉、​わたしを​ご自分の​奴隷になさる​ためである。​ところで、​奴隷に​なるとは​支配する​ことである。

 あなたの​口から​出る、​燃えるが​ごとき​嘆願を​聞いて​私は​感動した。​「神よ、​あなたの目に​喜んでいただける​ことだけを​望んでいます。​それ以外は​どうでも​よいのです。​無原罪の​御母よ、​私が​愛だけを​動機と​して​生きるよう、​お助けください」。

 神を​侮辱する​くらいなら、​その前に​死を、​何千回もの​死を​心から​願いなさい。

​ そして​罰を​受けるのが​当然とは​言え、​罪に​対する​罰を​恐れてではなく、​イエスは​今も​昔も​非常に​優しい方であるから、​そう​願いなさい。

 ​私の​神よ、​いつに​なったら​あなたの​ためだけを​考えて、​あなたを​お愛しする​ことができるのでしょうか。​よく​考えれば、​主よ、​あなたは​ご自身を​報いと​してお与えに​なりますから、​不滅の​褒美を​望むとは、​すなわちあなたを​望むことであるのは​確かなのですが…。

 ​「味わい、​見よ。​主の​恵みの​深さを」と​詩編作者は​歌う。

​ 霊的な​征服とは​愛の​行為であるから、​大きな​ことや​小さな​ことに​おいて、​無限を、そして​永遠を​熱望する​ものでなければならない。

 イエスよ、​〈明日〉は​どうなるかに​ついて​考えたく​ありません。​あなたの​寛大さを​制限したくないからです。

 あの​友の​書いた​ことを​あなたの​考えに​しなさい。​「神が​お示しくださった​数々の​慈しみを​考えていたが、​喜びに​溢れた​心で​街に​飛び出して、​『父よ、​父よ』と​叫びを​上げ、​私が​子と​して​抱く​感謝の​思いを​皆に​知って​ほしいと​思った​くらいだった。​そしてたとえ叫ばないまでも、​きっと​喜んでくださると​確信して、​小声で​幾度も​『父よ』と​呼びつつ歩いたのだった」。

​ 「他の​ことは​望まない。​主に​喜んでいただける​こと、​主の​栄光だけを​望む。​すべては​神の​ためである。​自分の​救いと​聖性を​望むのは、​主が​それを​お望みである​ことが​分かっているからである。​キリスト者と​して​生きる​私が​人々の​救いを​熱望するのは、​神が​それを​お望みである​ことを​知っているからである。​本気で​言う。​私は​褒美に​目を​留めない、​褒賞は​望まない、​すべて​愛の​ためである」。

 霊的に​世話を​してあげていた​あの​病床に​伏す女性は、​なんと​見事に​神のみ​旨を​愛していた​ことか。​健康な​ところが​一つもない​その​人は、​たくさんの​苦しみを​伴う​長患いを、​イエスの​祝福で​あり寵愛の​しるしであると​考えていた。​そして​自分は、​罰に​値する​人間だと​謙遜に​話していたが、​彼女が​体中で​感じていた​大変な​苦痛は​罰ではなく、​慈しみの​現れであった。

​ 私たちは​死に​ついて、​天国に​ついて、​さらに、​イエスと​聖母に​お話し​すべきことに​ついて​語り合った。​天国からなら、​この​地上に​いる​ときよりも、​ずっと​効果的な​〈働きが​できる​〉ことに​ついても​考えた。​病人は​神が​お望みの​ときに​死を​受け入れる​つもりで​いたが、​喜びに​溢れて、​「今日だったら​よいのに」と​叫んでいた。​死ねば​御父と​一緒に​いる​ことができると​知っている​人に​特有な​喜びを​もって、​死を​見つめて​いたのである。

 死を​恐れてはならない。​死は​あなたの友なの​だから。

​ 死と​いう​現実に​慣れなさい。​あなたの墓を​頻繁に​覗(の​ぞ)き見るのである。​そこで、​一週間を​経た​あなたの​腐敗した死体を​眺め、​臭いを​かぎ、​触れてみるのだ。

​ 特に​肉体が​あなたを​困らせる​とき、​この​場面を​思い出しなさい。

 ある​人が​心を​開いて​話してくれた。​「私は​多くの​罪を​犯してきましたが、​それにも​かかわらず​ここ数日、​死は​休息であると​考えていました。​そして​〈死の​時が​来たぞ〉と​言われれば、​大喜びで​〈生きる​時が​訪れた​〉と​応える​ことを​考えていたのです」。

 死ぬと​いうのは​良い​ことである。​信仰を​持ちながら死を​恐れる​人が​いるなんて​考えられるだろうか。​ところで、​この​世に​いる​ことを​主が​お望みに​なっているのに​死を​望むのは、​臆病以外の​何ものでもない。​愛なる​御方の​ために​生きる、​生きて​苦しみ、​そして​働く。​これこそ、​あなたの​すべきことなのだ。

 一日に​一度で​よいから、​臨終の​時を​考えなさい。​死と​いう​光に​照らして​日々の​出来事を​見る​ためである。

​ そう​すれば、​素晴らしい​心の​平安を​経験できると​保証する。

 あなたは​私の​話を​聞いて​考え込んだ。​「私は、​主が​お望みの​時、​お望みの​方法、​お望みの​所で、​死を​受け入れる​覚悟です。​それと​同時に​思うのは、​早死(は​やじに​)するとは​〈楽を​求める​〉に​等しいと​いう​ことです。​私たちは、​主の​ため、​主に​よって、​長年の​間​働いて​人々の​役に​立つことを​望みとしなければなりません」。

 繰り返し言う。​死ぬと​いうのは、​楽を​求める​ことだ。

​ あの​病に​伏す年老いた​聖なる​司教のように​申し上げなさい。​主よ、​〈苦労は​厭いません〉。​お役に​立つ限り、​あなたの​ために​生きる​ことも​働く​ことを​も​拒むつもりは​ありません。

 何を​するにも、​功徳を​得る​ためや​練獄の​罰を​恐れてするような​ことは​避けなさい。​今から​常に、​小さな​ことも​含めて​すべてを、​イエスを​お喜ばせする​ために​するよう​努力しなさい。

 避ける​ことのできない友、​すなわち死が、​神のみもとに​連れて​行く​ために​訪れた​とき、​すべての​ものから​離脱していたい。​こう​強く​望みなさい。

 生命、​それも​永遠の​生命と​幸せを​切望するのなら、​母である​聖なる​教会と​いう​船を​下りてはならない。​考えても​みなさい。​船を​離れると、​波にも​まれて​溺れ死ぬ。​キリストと​共に​いる​ことができなくなり、​主が​お与えに​なっていると​気づいても、​自ら​自由に​選んだ主との​友情を​失ってしまうのである。

 イエスは、​自ら苦しむため、​そして​人々の​この​世での​苦しみを​避けさせる​ために、​この​世に​来られたのである。

 仕える​ことを​知る。​人々の​ため自ら​仕える​ことを​知る​ほど、​優雅な​自己支配は​ない。

​ これが、​天と​地の​両方で、​素晴らしい​名誉を​得る​ための​方法である。

 苦しみと​迫害を​前に​した​人が、​それらを​超自然的に​受けとめて、​「煉獄で​打ちの​めされるよりは、​この​世で​打たれる​ほうが​いい」と​言っていた。

 ​私が​愛するなら、​私に​とって​地獄は​なくなるだろう。

 神に​頼って​生きる、​なんと​素晴らしい​ことだろう。​神の​栄光のみを​望むこと、​本当に​素晴らしい​ことだ。

 本当に​永遠の​生命と​栄誉を​得たいの​なら、​いかに​高貴では​あっても​多くの​事柄に​おいて、​個人的な​野心を​捨てなければならない。

 〈私の​〉健康、​〈私の​〉名前、​〈私の​〉経歴、​〈私の​〉仕事、​〈私の​〉歩みの​一歩​一歩など、​〈私の​〉と​いう​言葉を​くっつけないで​ほしい。​なんて​不愉快な​ことだろう。​〈あなた〉は​何も​持たず、​すべては​主に​属する​ことを​忘れているようだ。

​ 一日の​うちに、​おそらく​訳(わけ)も​ないのに​辱(は​ずかし)められた​と​感じ、​自分の​考えが​通るべきだと​思った​とき、​あるいは​各瞬間毎に、​あなたの​もの、​貴方の​もの、​貴女の​ものと​いう​風に、​アナタの​自我が​湧いて​出てくるなら、​それは​あなたが​時間を​潰(つぶ)している​証拠である。​ところで、​〈潰す​〉べきは、​あなたの​利己主義である​ことを​確信しなさい。

 受けて​当然と​言える​場合を​含めて、​自らに​対する​称賛を​求めないように​と​勧める。​隠れて過ごすのが​最高なのだ。​私たちの​活動や​生活の​うち最も​美しく​高貴な​ことは、​目立たず​隠れていなければならない。​〈小さくなる​〉とは、​なんと​いう​偉大な​ことだろう。​〈すべての​栄光は​神に〉。

 悲嘆に​くれていた​とき、​あの​人は​主に​申し上げた。​「私の​イエスよ、​私は​他には​何も​持っていません。​自尊心以外に​何を​差し上げれば​良いのでしょうか。​財産が​あれば、​差し出した​ことでしょう。​徳が​あれば、​あなたに​仕える​ため​その​一つ​ひとつで​人々を​啓発した​ことでしょう。​私に​あるのは​自尊心だけでしたが、​それを​差し上げました。​あなたが​賛美されますように。​御手の​中に​いれば、​安全である​ことは​明らかです」。

 私は​泥で​できた​もの、​土こそ​私の​先祖の​遺産である。

​ 神の​ほかに、​称賛を​受けて​当然な方が​おられるだろうか。

 あなたの中で​自負心 ― 高慢 ― が​煮えたぎり、​自分を​スーパーマンだと​考え​始めたなら、​「いやだ!」と​叫びを​上げる​ときが​訪れた​証拠である。​そう​すれば、​失敗を​繰り返しながらも​善を​実行しつつ、​この​世の​歩みを​続け、​神の​子と​しての​喜びを​味わうことができるだろう。

 〈聖母マリア、​海の​星〉よ、​どうか​私たちを​お導きください。

​ このように​力一杯​叫びなさい。​処女の​甘美な御心を​〈難船〉させる​ほどの​嵐は​ないからである。​嵐の​訪れを​感じたなら、​この​マリアと​いう​堅固な​拠り所に​逃げ込むことに​よって、​座礁や​沈没の​危険を​避ける​ことができるのである。

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