再び立ち上がる

 改心しなければならない、​あなたは​そう​思っている。​主は​もっと​多くを​要求しておいでになるのに、​あなたの​捧げものは​日毎に​少なくなっているからである。

 実の​ところ、​私たちが​動きを​始めたのは​一人​ひとりが​ラザロのように​「出て​来なさい」と​いう​声を​聞いたからであった。

​ 未だに​死んだままで​神の​慈しみの​力を​知らない​人の​ことを​思うと、​本当に​悲しくなる。

​ あなたの聖なる​喜びを​新たに​しなさい。​キリストから​離れているが​ために​滅びる​人に​対して、​主と​共に​復活した​人が​立ち上がるからである。

 この​世に​おける​愛情は、​汚れて​干から​びた​情欲でないに​しても、​普通なにが​しかの​自己愛を​含んでいる。

​ だから、​まことに​聖なる​愛と​なり得る​そのような​愛情を​侮(あなど​)り​軽んずる​ことなく、​常に​意向を​改めなさい。

 同情を​求めないようにしなさい。​そういう​態度は​多くの​場合、​自惚(う​ぬぼ)れと​虚栄心の​現れであるから。

 信仰と​希望と​愛、​つまり​対神徳に​ついて​話すとき、​それらが​理屈を​こねる​ためでなく、​実行する​ための​徳である​ことを​考えなさい。

 あなたの​生き方には​キリスト者と​しての​身分に​そぐわない​点が​あり、​それが​自らを​清める​気もなくさせているのではなかろうか。

​ 良心を​糾明し、​改めなさい。

 自分の​振る​舞いを​ゆっくり振り返ってみなさい。​あなたは​たくさんの​過ちを​犯しており、​その​過ちが​自分だけでなく、​まわりの​人たちにも​害を​与えている​ことに​気づくだろう。

​ 子よ、​猛獣よりも​細菌の​ほうが​恐ろしい​ことを​忘れないように。​それなのに​あなたは、​実験室で​細菌を​培養するように、​過ちや​間違いを​育てている。​あなたの​信仰不足、​祈りの​不足、​義務の​怠り、​あなた​自身に​ついての​認識不足が​原因で​そうなるのだ。​そして​その​感染源が、​まわりを​汚染するのである。

​ あなたには​毎日の​深い​良心の​糾明が​必要だ。​糾明すれば、​自分の​過ちと​怠りと​罪に​対する​誠実な​心の​痛みを​感じ、​自己改善の​ために​具体的な​決心を​立てる​ことができるだろう。

 全能、​万能、​全知である​神は、​ご自分の​母を​お選びに​なる​必要が​あった。

​ 万一あなたが​母を​選ばなければならないとしたら、​どうするだろう。​思うに​あなたも​私も​今の​母を​選び、​あらゆる​恩恵で​満たすのではないだろうか。​神は​そのようになさったのである。​それゆえ、​いとも​聖なる​三位一体の​あとに​位置するのは​マリアである。

​ 神学者たちは、​マリアの​たくさんの​恩恵に​ついて、​サタンに​支配され得ない​ことに​ついて、​真に​筋の​通った​論拠を​打ち立てている。​すなわち、​それが​ふさわ​しかった、​神には​それが​可能であった、​だから​そうな​さった。​見事な​論証である。​これこそ神が​最初の​瞬間から​あらゆる​特権で​聖母を​飾られた​ことの​最も​明らかな​証明である。​事実、​マリアは​美しく​清純、​霊魂も​体も​清い​御方である。

 勝利を、​戦いの​終結を、​期待している。​しかし、​まだ​来ない?

​ すでに​その​目的を​達したつもりに​なって​主に​感謝し、​あなたのも​どかしさを​捧げなさい。​「忠実な​人は​勝利を​語る」、​忠実を​保つ人は​勝利の​喜びを​歌うからである。

 神のみ​旨に​反抗しているのではないかと​思われる​ときが​ある。​あなたが​眠りながらも​絶えず​祈りを​続ける​ことができるように​してくださったのは​神であるが、​その主と​一致していないからである。

​ あなたが​よく​知っているように、​それは​無気力の​なせる​わざである。​十字架を​愛しなさい。​すなわち、​誰もが​当然必要と​考える​ものの​不足した​状態を、また、​歩みを​始め、​或いは​歩みを​続ける​ときに​現れる​種々の​困難を、さらに​あなた​自身の​下劣さと​霊的な​惨めさを​愛するのである。

​ 行いに​表れる​効果的な​望みを​もって、​あなたのもの​及びあなたの​仲間の​ものを​捧げなさい。​それらは​人間的に​見ると​わずかな​こととは​言えないが、​超自然の​光に​照らして​見ると​無に​等しい。

 時折、​誰かが​こう​言った。​「神父様、​疲れて心が​冷たくなった​ときや、​信心の​規定を​果た​したり​祈ったりする​とき、​私は​喜劇を​演じているのだと​思ってしまいます」。

​ その​友に、​そして​万一あなたが​同じ​状態に​いるなら​あなたにも、​私は​こう​答える。​「喜劇だって?​ 子よ、​素晴らしい​ことではないか。​喜劇を​演じなさい。​観客は​神である。​〈私たちが​喜劇を​演じている​とき〉、​御父と​御子と​聖霊、​つまりいとも​聖なる​三位一体の​神が​私たちを​眺めて​おいでになるのだから」。

​ 何を​するにも​気持ちに​逆らってしなければならない​とき、​神に​愛を​示すため神を​お喜ばせする​ために、​主の​前で​そのように​振る​舞うのは​実に​麗しい​ことだ。​神の​旅芸人に​なるのだ。​自分では​何ら満足を​得られなくても、​主を​お喜ばせする​ため、​神に​愛を​示すために、​自分の​役を​演じるのは​本当に​素晴らしい。

​ これこそ、​神を​愛する​人の​生き方である。

 地上の​物事に​みだりに​執着する​心は、​鎖か​〈細い​針金〉で​縛りつけられているような​状態だから、​神のもと​へ​飛んで​行く​ことができなくなる。

 ​「誘惑に​陥らぬよう、​目を​覚まして​祈っていなさい」。​束の​間の​ペテンに​だまされて、​いかに​簡単に​神的な​事柄を​捨ててしまうか、​経験を​振り返って​見ると​恐ろしくなる。

 生温い​使徒こそ、​人々の​大敵である。

 超​自然的な​〈頑固さ〉の​不足。​仕事を​最後まで​やり遂げる​剛毅を​欠いて、​〈最後の​仕上げ〉を​するまで​頑張らない​こと。​これらは、​明らかに​生温さに​陥っている​証拠である。

 頑(かたく​)なだが、​高貴な​心が​ある。​そのような​心が​イエス・キリストの​聖心の​熱に​近づくと、​銅のように​溶けて​愛と​償いの​涙を​流す。​燃え​上がるのだ。

​ 逆に、​生温い​人の​心は​泥や​惨めな​肉で​できている。​そして​そのような​心は​壊れて​崩れてしまう。​塵である。​なんと​悲しい​ことか。

​ 一緒に​申し上げよう。​イエスよ、​私たちが​絶対に​生温くならないよう​お助けください。​生温さに​だけは​陥りたく​ありません。

 すべての​善、​すべての​美、​すべての​荘厳さ、​すべての​麗しさ、​すべての​恩恵が、​私たちの​御母を​飾っている。​このような​母親に​なら、​徹底的に​心を​奪われてしまうのではないだろうか。

 ​私たちは​愛その​ものである​御方に​心酔している。​だから、​私たちが命なきもののように​干(ひ)から​びて​固くなるのを​主は​お望みに​ならない。​主への​愛情に​満ちた​私たちを​お望みなのである。

 この​一見​矛盾したことが​理解できるだろうか。​三十歳の​誕生日を​迎えた​人が​「もう​若くはない」と​日記に​書き記した。​そして、​四十歳を​越えた​時、​また​書き付けた。​「八十歳に​なるまで​若さを​保とう。​万一​その前に​死んだら、​失敗だと​考えよう」と。

​ その​人は、​寄る​年波を​ものとも​せず、​神への​愛に​円熟した​若者のように​動き回っていた。

 神に​夢中に​なった​あの​人が​何故あの​質問を​したか、​私には​難無く​理解できる。​主よ、​私の​愛よ、​私が​あなたを​不愉快にし、​しかめ面​(つら)を​させた​こと、​あなたを​悲しませた​ことは​なかったでしょうか、​彼は​こう​尋ねたのだった。

​ 私たちが愛に​動かされて、​絶えず​この​程度まで​自らに​要求する​ことができるよう、​父なる​神に​願いなさい。

 キリストの​友人た​ちがどれほどの​愛情と​信頼を​もって​主に​接したか、​見ただろう。​ラザロの​姉妹は、​そうして​当然だと​言わんばかりに​「もしここに​いてくださいましたら、​わたしの​兄弟は​死ななかったでしょうに」と、​もっと​早く​そこに​おいでにならなかった​イエスを​なじる。

​ 信頼を​込めて​ゆっくり主に​申し上げなさい。​マルタと​マリア、​ラザロのように​友愛に​満ちた​接し方を​お教えください。​最初の​うちは​あまり​超​自然的な​動機と​言えなかったに​しろ、​あなたに​付き従った​十二使徒のように​接するには、​どう​すれば​良いのでしょうか。

 キリストの​胸に​頭を​もたせかけた​ヨハネを​見るのは​まことに​嬉しく​快い。​イエスの​聖心に​燃える​火で​知性を​燃え​上がらせる​ため、​辛くても​愛情を​込めて​知性を​従わせているようだから。

 神は​私を​愛しておられる。​そして​使徒聖ヨハネは、​「わたしたちが愛するのは、​神が​まずわたしたちを​愛してくださったからです」と​書いている。​イエスは、​それでも​まだ​足りないかのように、​私たちの​否定する​ことのできない​惨めさを​気にも​留めず、​ペトロに​なさったのと​同じ​問い​かけを​私たち一人​ひとりになさる。​「ヨハネの​子シモン、​この​人たち以上に​わたしを​愛しているか」。

​ もう​そろそろ​お答えする​ときだろう。​「主よ、​わたしが​あなたを​愛している​ことは、​あなたが​ご存じです」。​そして​謙遜に​言い​添えなさい。​「もっと​あなたを​お愛しする​ことができるよう​お助けください。​私の​愛を​増してください」。

 ​「愛とは、​行いであって、​理屈ではない」。​行い、​行い。​そこで、​決心を​立てる。​お愛ししております、と​何度も​あなたに​申し上げる​ことに​いたします。​今日も​幾度と​なく​繰り返しました。​しかし​あなたの​恩恵を​得て​〈沈黙の​熱弁〉を​振るい、​み前で​私の​愛を​示すのは、​特に​私の​行いと​日々の​小さな​行為でしょう。

 哀れな​無骨者(ぶこつもの​)とは​言えキリスト者が、​妻や​子供や​友など​自分と​同じく​哀れな​人間に​対して​日々優しく​濃やかな​心遣いを​示すのに、​私たちは​イエスに​対して​そうする​ことができない。

​ この​事実は、​私たちを​奮い​立たせる​起爆剤​(きばく​ざい​)と​なるはずである。

 神の​愛は​真に​魅力的で​心を​魅了する​ものだから、​一旦​それが​キリスト者の​生命の​中で​成長し始めると、​留まる​ところを​知らない。

 腕白坊主や​異常者のように​振る​舞ってはならない。

​ たくましい​人、​神の​子でなければならない。​すなわち専門職や​人々との​関わりに​おいて​落ち着いた​態度を​示し、​神の​現存を​保つことに​よって​小さな​点まで​完全を​期する​人でなければならないのである。

 正義だけを​押し通すと、​傷つく​人の​出る​恐れが​ある。

​ だから、​常に​神への​愛を​動機と​して​行動しなさい。​そう​すれば​単なる​正義に​隣人愛と​いう​香油が​加わり、​人間的な​愛を​清めて​純粋に​してくれる。

​ 神を​仲立ちに​すれば、​すべてが​超自然化されるのだ。

 夢中に​なって​主を​愛しなさい。​愚かと​思える​くらい主を​愛しなさい。​愛が​あれば、​その​時こそ、​愛する​決心を​する​必要さえないと​言えるからである。​自分の​親の​ことを​考えてみなさい。​私の​親は​わざわざ私を​愛する​決心を​するまでもなく、​毎日​毎日、​なんと​濃やかな​愛情を​注いでくれた​ことだろう。

​ この​人間の​心で​神を​愛する​ことができるし、​また​実際に​愛さなければならない。

 愛とは​犠牲である。​そして、​愛ゆえの​犠牲は​喜びである。

 自問自答してみなさい。​愛情と​行いを​捧げる​ため、​心を​神の​うちに​置け、​と​意志は​一日に​何度くらい​あなたに​要求するだろうか。

​ あなたの愛の​強さと​質を​確かめる​ために、​うって​つけの​基準と​なるだろう。

 子よ、​神は​あなたに​次のように​問い​かける​権利が​ある​ことを​確信しなさい。​「私の​ことを​考えているだろうか」。​「私の​現存を​保っているだろうか」。​「私に​支えを​求めているだろうか」。​「あなたの​生活を​照らす光で​あり盾である​私、​あなたの​すべてである​私を、​探し求めているだろうか」。

​ そこで、​次の​決心を​再び確かな​ものとしなさい。​世間が​良いと​呼ぶときが​訪れると​「主よ」と​呼びかけ、​世間が​悪いと​呼ぶときが​来ても、​やはり​「主よ」と​叫ぶことにしよう、と。

 超​自然に​対する​感覚を​決して​失わないように。​たとえ自分の​惨めさや​悪い​傾向が、​つまり泥で​できた​あなた​自身が​あからさまに​見えても、​神は​あなたに​期待を​かけておいでになるのだ。

 まわりに​居る​人たちと​同じように、​自然な​生き方を​しなさい。​ただし、​毎日の​各瞬間を​超自然的に​過ごしながら。

 清い心と​神に​関する​事柄への​熱意、​人々への​偏見なき愛が​なければ、​正しい​意向で​物事を​判断する​ことは​できない。

​ よく​考えてみなさい。

 知人た​ちがラジオの​話を​しているのを​耳にした。​私は​ほとんど​意識せずに、​その​話を​霊的な​(超​自然的な)​分野に​当てはめて​聞いていた。​私たちは​多すぎる​くらいの​アースを​しっかり​付けているが、​内的生活の​アンテナを​忘れている​ことに​気づいたのである。

​ これが​神と​付き合いを​続ける​人の​少ない​原因である。​願わくは、​私たちが超​自然的な​事柄に​対する​アンテナを​欠く​ことがありませんように。

 ​私は、​何の​期待も​できない​無益で​つまらない​ことや​取るに​足らない​ものの​方を、​神よりも​大切に​しているのではないだろうか。

​ 神と​共に​居ない​とき、​私は​一体、​誰と​一緒に​いるのだろうか。

 主に​申し上げなさい。​「あなたの​お望みに​なる​ことだけを​望みます。​最近ずっとお願いしている​ことも、​あなたのみ​旨からたとえ一ミリでも​離れるようなら、​どうか​お与えに​ならないでください」。

 効果を​上げる​秘訣は​信心深くなる​こと、​心から​信心を​深める​ことに​ある。​こう​すれば、​丸一日を​神と​共に​過ごすことができるだろう。

 決心。​聖霊との​友情と​愛に​満ちた​素直な​付き合いを​〈頻繁に​〉する。​できれば​それを​中断せずに​続ける。​「聖霊よ、​来たりたまえ」。​私の​霊魂の​うちに​お住みください。

 心の​底から、​そして​常に​より​いっそう​深い​愛を​込めて、​特に​聖櫃の​傍らに​居る​ときや、​胸に​主を​いただいている​ときに​繰り返しなさい。​「主の​熱から​隠れうる​ものは​ない」。​私が​あなたから​逃げないよう​お助けください。​私を​聖霊の​火で​満たしてください。

 あなたは​「聖霊の​火で​私を​焼き尽くしてください」と​叫び、​さらに​言い足した。​「できるだけ早く​私の​哀れな​心が​再び飛翔を​始め、​あなたの内に​憩うまで​飛び続けなければなりません」と。

​ 実に​立派な​望みだと​思う。​聖霊が​あなたの​存在の​中心に​座を​占め、​あなたを​支配し、​すべての​行いと​言葉、​思い、​熱意に​超自然の​調子を​お与えくださる​よう、​あなたの​ためしっかり​慰め主に​祈ってあげよう。

 聖十字架称賛の​祝日を​祝うに​あたり、​能力と​感覚を​使って​聖十字架を​〈称賛〉できるよう恩恵を​お恵みください、と​あなたは​心の​底から​主に​お願いした。​新たな​命を​願ったのである。​使命が​本物である​ことを​確認する​ための​封印、​あなたの​全存在が​十字架上に​ある​ための​封印を​願ったのである。

​ どうなるか、​様子を​見る​ことにしよう。

 犠牲は、​心臓の​鼓動のように​絶えず​実行しなければならない。​そう​すれば、​自らを​コントロールし、​人々に​対して​キリストの​愛を​実行できるだろう。

 十字架を​愛するとは、​キリストを​愛するが​ゆえに、​たとえ辛くても、​また​辛いから​こそ、​喜んで​自分を​〈嫌がらせる​〉ことである。​これが​両立する​ことを​あなたも​体験して​欲しい。

 キリスト教で​いう​喜びは、​生理的な​ものではない。​喜びの​根拠は​超自然的な​ものだから、​病や​困難を​ものともしない。

​ 喜びとは​鳴物入りの​大騒ぎや​祭りや​踊りに​浮かれる​ことではない。

​ 本当の​喜びは、​もっと​親密な​もので、​時と​して​険しい​表情を​隠せない​ことが​あっても、​落ち着きを​保たせ、​内的な​喜びで​満たしてくれる。

 あなたに​次の​手紙を​書き送った。​普通の​言い方では​あるが、​高慢が​原因と​なって​生じた​困難を​十字架と​呼ぶのを​耳に​すると​不愉快に​なる。​そのような​悩みは​十字架ではない。​キリストの​十字架でないから、​本物の​十字架ではないのである。

​ 自分で​生みだした​困難は、​キリストの​刻印とは​関係ないから、​捨て​去りなさい。​自我の​偽装に​過ぎない​事柄を​すべて​捨てなさい。

 日常の​無数の​つまらない​事柄を​散文に​している​うちに​時が​経ち、​時間を​浪費したと​思われる​毎日であっても、​その​中には​相当以上の​詩が​含まれている。​だから​あなたは​十字架の​上、​つまり​見る​人の​いない​十字架の​上に​いる​ことを​実感できるのである。

 いずれ消えてしまう​事柄に​心を​執着させないようにしなさい。​キリストに​倣いなさい。​主は​私たちの​ために​貧しくなり、​枕する​ところさえ​お持ちに​ならなかった。

​ 世間に​居ながらも、​いささかの​譲歩も​認めない​効果的な​離脱の​心を​主に​願いなさい。

 ​何​一つと​して​自分の​ものだと​考えない​こと。​これこそ、​離脱した​心を​持っている​ことの​明白なしるしである。

 誠実な​信仰に​生きる​人は、​現世の​富が​手段に​過ぎない​ことを​知っている。​だから、​それを​気前よく​英雄的に​使う。

 復活し栄光に​包まれた​キリストは、​地上的な​もの​すべてを​捨て​去られた。​主の​兄弟である​私たちに、​何を​捨てるべきかを​教える​ためである。

 聖なる​処女マリアを​愛さなければならない。​いくら聖母を​愛しても、​決して​もう​十分とは​言えないのである。

​ たくさん​愛しなさい。​聖母の​ご絵を​飾り、​挨拶し、​射祷を​唱えるだけで​満足してはならない。​たくましく​生き、​日々、​小さな​犠牲を​捧げなさい。​あなたの愛、​そして​全人​類が​示して​欲しいと​あなたが​望む愛を、​聖母に​お捧げするのである。

 キリスト教の​真理とは​犠牲を​土台に​した愛、​つまり​神への​愛と​神ゆえの​隣人愛、​及び献身の​ことである。

 イエスよ、​信頼しきってあなたの腕に​私自身を​委ね、​愛すべき胸に​頭を​埋め、​心を​聖心に​寄せます。​私は、​何事に​おいても​あなたが​お望みに​なる​ことを​望みます。

 世界中に​不従順や​陰口、​争い、​嘘(う​そ)偽(いつわ)りが​満ちている​今日、​以前にもまして​従順、​誠実、​忠誠、​単純さを​愛さなければならない。​しかも、​すべてを​超自然の​感覚で​愛するのである。​超自然的な​感覚が​あれば、​もっと​思いやりの​ある​人間に​なれるからである。

 キリストに​従う​固い​決意が​できている、と​あなたは​言った。

​ それなら、​あなたの​歩調でなく、​神の​歩調に​合わせて​進まねばならない。

 何が​私たちの​忠実の​根拠なのだろうか。

​ あらましを​述べると​こうなる。​忠実の​根拠は、​神への​愛である。​神を​愛するなら、​利己主義や​高慢、​疲労、​短気など、​あらゆる​障害に​打ち​勝つことができる。

​ 愛する​ことのできる​人なら​自我を​踏みつける。​全霊を​込めて​愛しても、​十分に​愛したと​言えない​ことが​分かっているからである。

 アラゴン​(スペイン)​出身の​修道女の​言った​ことを​話してくれた​人が​いたが、​美しい​言葉だから​ここに​書き写そう。​父なる​神の​優しさに​心から​感謝していた​その​修道女は​「神は​なんと​よく​気の​つく​御方でしょう。​何に​おいても​優しく​心を​配ってくださいます」と​話したのである。

 すべての​神の​子と​同じく、​あなたにも​個人的な​祈りが​必要だ。​私たちの​主と​親しく​付き合い、​一対一で​顔と​顔を​合わせて​話し合い、​匿名の​人と​して​隠れずに​直接の​付き合いを​しなければならないのである。

 祈りの​第一条件は​堅忍であり、​第二条件は​謙遜である。

​ 聖なる​頑固さを​持ち、​信頼して​祈りなさい。​大事な​ことを​お願い​する​とき、​私たちが​何年にも​わたって​嘆願するのを​主が​お望みであるかもしれない​ことを​考え、​繰り返し願いなさい。​ただし、​祈る​毎に、​より​いっそう​信頼を​込めて。

 師キリストが​お勧めに​なるように、​堅忍して​祈りなさい。​これを​出発点に​すれば、​平和と​喜び、​落ち着きの​源となる。​そして​超自然的にも​人間的にも、​効果的な​働きが​できるだろう。

 あなたは​人々の​雑談や​音楽が​聞こえてくる​ところに​居たが、​その​とき心の​中で​湧き出るように​祈りが​始まり、​言うに​言われ​ぬ慰めを​感じた。​そして、​「イエスよ、​慰めは​欲しく​ありません。​あなたが​欲しいのです」と​申し上げて​祈りを​終えた。

 楽しい​ときも​不愉快な​ときも、​容易な​ことを​前に​しても、​困難な​ことを​前に​しても、​通常の​場合でも​特別の​場合でも、​あなたの​生活は​絶(た​)え間(ま)ない​祈り、​主との​継続的な​話し合いでなければならない。​ どのような​時にも、​心の​中に​現存される​父なる​神を​求めて、​すぐに​語り合いを​始める​必要が​あるのだ。

 ​祈りや​黙想の​とき潜心するのは​易しい。​イエスは​私たちを​待たせたり、​控室に​通したりはなさらない。​ご自分の​方で​待っていてくださる。

​ 「主よ、​祈りが​したいのです。​お話ししたいのです」と​申し上げるだけで​十分。​それだけで、​あなたは​神の​前に​出て、​すでに​主と​語り合いを​始めているのである。

​ それでも​足りないかのように、​あなたの​ためには​時間を​惜しみなく​割いてくださる。​十分や​十五分どころか、​何時間でも​丸一日でも。​しかも、​そうなさるのは、​ほか​でもない​全知​全能の​御方である。

 内的生活に​おいては、​人間同士の​愛と​同じく​堅忍が​必要である。

​ そう。​同じ​テーマを​繰り返し黙想し、​新たに​〈地中海〉を​発見する、​つまり、​何かを​再発見するまで​頑張らなければならない。

​ 今まで​この​点を​このようにはっきり​見る​ことができなかったのは​何故だろう、と​あなたは​驚いて​尋ねる​ことだろう。​答えは​簡単。​私たちは​しばしば石のようになって​一滴も​染み込ませず水を​流してしまうからである。

​ だから​こそ、​神の​祝福に​浸される​ために、​同じ​事柄に​ついて、​実は​全然​同じではないのだが、​幾度も​思いを​巡らす必要が​あるのだ。

 祭壇上の​聖なる​犠牲の​とき、​司祭は​私たちの​神の​御体と​御血の​カリスを​手に​取り、​地上の​もの​すべての​上に​掲げ、​「キリストに​よって、​キリストと​共に、​キリストの​うちに」、​すなわち私の​愛に​よって、​私の​愛と​共に、​私の​愛の​うちに、と​唱える。

​ 司祭の​この​動作に​一致しなさい。​それだけでなく、​これを​あなたの​生活に​組み入れなさい。

 福音史家に​よれば、​奇跡の​後で​人々が​自分を​王にしようとするのを​知った​イエスは​姿を​隠された。

​ 私たちを​聖体の​奇跡に​与らせてくださった​主よ、​お願い​いたします。​姿を​隠さず、​共に​居てください。​私たちがあなたを​見、​あなたに​触れ、​あなたを​感じ、​常に​あなたと共に​居たいと​望めますように。​どうか、​私たちの​生活と​仕事の​王と​なってください。

 父なる​神と​子なる神、​聖霊なる​神、​つまり​三つの​ペルソナと​付き合いなさい。​そして​至聖なる​三位一体の​神に​近づく​ために、​マリアを​通って​行きなさい。

 現に​今、​イエス・キリストに​自らを​捧げていない​人は、​〈生き​生きとした​〉信仰を​持たない​人である。

 すべての​キリスト者は、​もっと​もっと​イエス・キリストを​愛する​ため、​主を​探し求め、​主と​付き合う​必要が​ある。​婚約期間と​同じで、​付き合いの​ない​二人に​愛は​芽生えないからである。​ところで、​私たちは​愛の​生活を​送らなければならない。

 エルサレムの​神殿で​御父に​関する​ことが​ひどく​扱われているのを​ご覧に​なった​ときの、​主の​聖なる​怒りに​ついて​ゆっくり考えてみなさい。

​ 神に​関する​事柄が​丁重に​扱われていない​とき、​決してあなたが​無関心な​態度を​とったり、​臆病に​なったりしないために、​大切な​ことを​教えてくださっているのだから。

 イエス・キリストの​至聖なる​人間性に​惚れ込みなさい。

​ 私たちと​同じ​人間に​なってくださったのに、​嬉しくないのだろうか。​イエスの​この​上ない​優しさに​感謝しなさい。

 待降節が​やって​来た。​キリスト降臨への、​そして​日々聖体の​秘跡の​うちに​あなたの心に​来られる​キリストヘの、​心からの​望みと​憧れと​切望を​生き​生きとさせる​ため、​絶好の​ときである。​「キリストは​すぐに​来られる」と、​教会は​元気づけてくれる。

 降誕祭には​「来たれ、​われら​拝みたて​まつらん。​来たれ、​われら​拝みたて​まつらん」と​歌う。​行こう、​主が​お生まれに​なったから。​マリアと​ヨセフが​御子を​お世話するのを​見て、​私は​思い切ってあなたに​勧めたい。​もう​一度ゆっくり幼子を​眺めなさい、​休みなく​幼子を​見つめなさい。

 苦しくても​ ― そして​私は​この​苦しみを​増してくださる​よう、​神に​祈っているが​ ― とにかく、​あなたも​私も​キリストの​死と​無関係ではない。​人間の​罪が​槌となって、​主を​木に​釘づけたからである。

 聖ヨセフ。​聖なる​太祖を​愛さなければ、​イエスと​マリアを​愛する​ことは​できない。

 聖ヨセフを​敬い、​その​生涯から​学ぶべきだと​いう​理由は​たくさん​ある。​ヨセフは​信仰の​篤い人であった。​一所​懸命に​働いて​家族を、つまり​イエスと​マリアを​養った。​配偶者である​処女(おとめ)の​純潔を​守った。​そして、​処女を​母と​して​選んだだけでなく、​聖ヨセフを​マリアの​夫と​して​選ばれた​神の​自由を​尊重した​ ― 愛した​ ― のである。

 純潔​その​もの、​清さその​ものであり、​私たちの​父であり主(あるじ)である​聖ヨセフ、​幼子イエスを​腕に​抱き、​洗い​清め、​保護するよう任せられた​聖ヨセフよ、​どのように​して神と​接すれば​よいのか、​どう​すれば​清くなって​もう​一人の​キリストに​なることができるのか、​お教えください。

​この​世に​おいて、​霊的に​素晴らしい​効果を​絶えず​上げる​ことができると​人々に​教え、​隠れているが​輝かしい​神への​道の​数々を、​キリストのように​切り​拓き、​そして​教える​ことのできるよう、​お助けください。

 全霊を​込めて​心から​聖ヨセフを​愛しなさい。​ヨセフこそ、​イエスと​共に、​聖マリアを​最も​愛し、​誰よりも​親しく​神に​接した方​だから。​また​私たちの​御母に​次いで​最も​深く​主なる​神を​愛した​御方​だから。

​ 聖ヨセフは​あなたの​愛情を​受けるに​値する方である。​また​彼と​親しく​すれば、​大いに​あなたの役に​立つ。​聖ヨセフは、​内的生活の​先生であり、​主と​神の​御母の​前で​大きな​力を​持っているからである。

 聖母。​三位一体の​神と​こんなにも​親しい​女王・貴婦人・御母、​すなわち父なる​神の​娘・神の​御子の​御母・聖霊の​花嫁であると​同時に​私たちの​母である​御方。​この​聖母ほど​見事に​神の​愛を​教える​先生が​いるだろうか。

​ 自分で​個人的に​取次ぎを​お願いしなさい。

 愛徳が​あれば、​そしてたとえ自分には​辛くても、​神を​侮辱しないで​人々を​喜ばせる​ことが​実行できるなら、​あなたは​聖人に​なるだろう。

 聖パウロは​濃やかな​愛徳を​実行する​ための​処方​箋を​教えてくれる。​「互いに​重荷を​担いなさい。​そのように​してこそ、​キリストの​律法を​全う​する​ことに​なるのです」と。​あなたの​生き方は​こうなっているだろうか。

 ​私たちの​主イエス・キリストは​人間を​愛する​あまり​託身​(受肉)​され、​人間性を​取り、​貧しい​人や​金持ち、​義人や​罪人、​若者や​老人、​異教徒や​ユダヤ人の​間で、​日々の​生活を​送られた。

​ すべての​人と​絶えず話し合われた。​主を​愛する​人々だけでなく、​主を​非難する​ため、​お言葉を​曲解する​口実を​求めて​近づく​人たちとも。

​ あなたも​主と​同じようにしなさい。

 神を​愛するが​ゆえに​人々を​愛するなら、​すべての​人を​理解し、​弁明し、​赦すはずである。

​ 人間の​惨めさの​結果である​無数の​欠点を​かばう愛を​持たなければならない。​「愛を​もって​真理を​宣言する」、​つまり、​人を​傷つけずに​真理を​弁護すると​いう​見事な​愛徳を​実行すべきである。

 ​私が​〈良い​模範〉と​言う​とき、​人々を​理解し、​弁明して、​世界を​平和と​愛で​満た​すべきことを​も​含めた​意味で​使っている。

 しばしば​自分に​問い​かけなさい。​一緒に​生活する​人々に​対して​濃やかな​愛徳を​実行するよう、​一所​懸命に​なっているだろうか。

 ​私たちは​人々が​気持ちよく​歩けるよう絨緞に​なるべきだ、​と​言う​とき、​私は​単に​優雅な​表現を​玩(もてあそ)んでいるのではない。​実際に​そうしなければならないのである。​聖性に​達するのが​難しいように、​そうするのは​難しい。​しかし、​容易であるとも​言える。​なぜなら、​重ねて​言うが、​聖性は​誰の​手にも​届く​ところに​あるからだ。

 皆が​自分の​ことしか​考えないと​いう、​まことに​ひどい​利己主義と​無関心の​直中(ただなか)に​いると、​机の​上のがっしりして​丈夫な​木製の​ロバたちの​速足の​姿を​思い出す。​一頭は​片足を​無くしたが、​それでも​歩みを​続けていた。​仲間を​支えに​する​ことが​できたからである。

 カトリック信者は、​― 譲歩せずに​真理を​守り、​維持するに​あたり ― すべての​憎しみと​恨みを​窒息させる​ことのできる​愛徳と​共存の​雰囲気を​作り出すよう​努力しなければならない。

 キリスト者、​すなわち神の​子に​とって、​友情と​愛徳は​ひとつである。​つまり、​それは​熱を​与える​神的な光である。

 福音書を​根拠とした​兄弟的説諭を​実行するなら、​それは​超自然の​愛情と​信頼を​持っている​証拠に​なる。

​ 説諭を​受けた​ときは​感謝しなさい。​そして、​一緒に​生活している​人たちへの​説諭を​怠らないように。

 必要で​あり当然の​義務でも​あるゆえに​兄弟的説諭を​する​ときは、​相手が​感じる​心痛と​あなた​自身の​心痛を​考えておかなければならない。

​ しかし、​だからと​言って、​心痛を​口実に​して​説諭を​控えてはならない。

 あなたの母・処女マリアの​すぐ傍に​居なさい。​あなたは​常に​神と​一致していなければならない。​だから、​聖母の​傍らに​居る​ことに​よって​主との​一致を​目指しなさい。

 私の​言う​ことを​よく​聞きなさい。​この​世に​居(お)り、​この​世に​属すると​言っても、​俗物に​なれと​いう​ことではないのだ。

 あなたは、​どこに​居ても​まわりに​火を​移す​真っ赤な​熾(​おき)の​働きを​しなければならない。​あるいは​少なくとも、​まわりに​居る​人たちの​霊的な​温度を​高め、​彼らが​しっかりした​キリスト教的生活を​送れる​よう​導かなければならないのである。

 神は、​人間に​任せられた​ご自分の​事業が、​祈りと​犠牲を​もとにして​成功するよう望まれる。

 市民 ― カトリックの​市民 ― と​して、​私たちが​携わる​全活動の​基礎は​深い​内的生活に​ある。​本当に、​実際に、​一日中、​絶え間なく​神と​語り合いを​続ける​人に​なることに​ある。

 誰かと​一緒に​いる​とき、​その​人の​霊魂を​見なければならない。​あなたが​助けるべき霊魂、​理解すべき霊魂、​仲よく​一緒に​生活すべき霊魂、​救うべき霊魂を​見るべきなのだ。

 あなたは​独り​歩きしようとする。​つまり、​自分の​思い通りにし、​自分の​判断に​しか​従わない。​そう​すれば​どうなるか​分かるだろう。​その​結果は​〈不毛〉と​呼ばれる。

​子よ、​万一、​あなたが​自分の​判断を​捨てず、​高慢で​あり続け、​〈あなたの〉使徒職を​するなら​ ― あなたの​一生は​一晩に​過ぎないから​ ― 一晩​中働いた​あげく​朝を​迎えても、​網は​空のままだろう。

 キリストの​死を​考えると、​徹底的に​誠実な​心で​日々の​務めに​対処し、​私たちが告白する​信仰を​真剣に​考えるよう​招かれる。

​ 神の​愛の​大きさを​深く​理解し、​言葉と​行いで​その愛を​人々に​示す機会にしなければならないのである。

 あなたは​キリスト者であり、​四六時中そうでなければならない。​そして​人々を​動かし駆り立てる​言葉、​徹底的に​打ち込む心構えを​示す超​自然の​言葉が、​あなたの​口から​出なければならないのである。

 権威ある​立場に​いる​人が、​人々の​苦しみを​避けると​いう​口実のもと、​自分が​苦しみたくないので​説諭しないと​すれば、​それは​裏に​安逸を​むさぼる​心が​あり、​〈時には​重大な​無責任〉が​潜んでいる​証拠である。

​ 多分​この​世での​不愉快を​避ける​ことは​できるだろう。​しかし、​その​怠り​(実はれっきとした​罪)に​よって、​― 自分と​他人の​ ― 永遠の​生命を​危険に​さらすことになる。

 聖人とは​大勢の​人の​生活に​とって​〈窮屈な​〉人間であるが、​だからと​言って​我慢できない​人間でなければならないわけではない。

​ 聖人の​熱意が​辛辣であってはならない。​聖人は​人を​正すとき、​傷つけるような​やり方を​すべきではない。​聖人の​模範は​隣人を​精神的に​辱めるような​傲慢であってはならない。

 あの​若い​司祭は​「たとえを​説明してください」と​いう​使徒たちの​言葉を​使って​イエスに​話しかけるのを​常としたが、​その後で​こう​付け加えていた。​「私たちの​霊魂に​あなたの​明晰な​教えを​注ぎ込んでください。​私たちの​生活と​行いに​教えの​明るさが​欠けないよう、​また​それを​人々に​伝える​ことができるようになる​ためです」。

​ あなたも​主に​こう申し上げなさい。

 譲歩せず、​曖昧さにも​陥らずに、​信仰の​真理を​そのまま​そっくり提示する​勇気を​持ちなさい。​実は​その​勇気こそ、​謙遜であり、​神に​仕えている​ことの​証拠である。

 カトリック信者で​あれば、​これ以外の​心構えは​考えられない。​すなわち教皇の​権威を​〈常に​〉擁護する​こと、​教会の​教導職の​教えに​沿って​素直に​意見を​正す​決意が​〈常に​〉できている​こと。

 ずいぶん昔の​話だが、​私に​無遠慮な​質問を​した​人が​あった。​司祭の​道を​歩んだ人は​歳を​とってから​退職したり​引退したりするのですか、と。​私が​答えない​ものだから、​その​人は​無作法にも​質問を​繰り返した。

​明らかな​返答が​私の​心に​浮かんだ。​「司祭職は​経歴ではない。​それは​使徒職なのだ」。​私は​こう​彼に​答えたのである。

​ 私は​こう​考えている。​神の​助けを​得て、​単なる​経歴と​使徒職の​違いを​決して​忘れないよう、​ここに​書き記す。

 カトリック精神を​持つとは、​この​部分、​あの​部分と​限らず、​教会全体​への​心遣いを​示す​ことである。​その​ため、​私たちの​祈りは​北から​南へ、​東から​西へと​広がる​寛大な​嘆願でなければならない。

​ そう​すれば、​私たちの​母・聖なる​教会に​対して​冷淡な​態度を​とる​大勢の​人を​見て、​あの​友が​叫んだ​言葉 ― 射祷 ― の​意味が、​あなたにも​よく​理解できるだろう。​彼は、​「教会を​思うと​心が​痛む」と​言ったのである。

 ​「日々わたしに​迫る​やっかい事、​あらゆる​教会に​ついての​心配事が​あります」と​聖パウロは​書いている。​使徒の​この​溜息を​聞くと、​あなたも​含めて​すべての​キリスト者が​イエス・キリストの​花嫁、​すなわち聖なる​教会の​足元に​私たち自身と​私たちに​できる​こと​すべてを​差し出して、​財産と​名誉と​生命を​かけても​忠実に​教会を​愛すべき責任を​思い出す。

 教会に​猿ぐつわを​はめる​ため共謀して​沈黙を​守ろうと​いう​試みに​対して、​驚かずに、​できる​範囲内で​抵抗しなければならない。​ある​者は​人々に​教会の​声を​聞か​せず、​また​ある​者は​行いを​もって​教えを​述べる​模範的な​人たちが誰の​目にも​留まらないように​する。​ある​者は​確かな​教えが​跡形も​残らないようにし、​大多数の​者は​確かな​教えに​堪(た​)えられず、​耳も​貸さない。

​ 重ねて​言うが、​驚く​必要は​ない。​しかし、​飽きず疲れず拡声器の​役目を​果たし、​教導職の​教えを​どんどん​広めなさい。

 日毎に​〈ローマ的〉に​なりなさい。​そして、​唯一で​真の​教会の​子供たちを​飾る​この​幸いな​身分を​愛しなさい。​イエス・キリストが​それを​望まれたのだから。

 聖母信心は、​キリスト者が​「神の​家族」の​一員と​して​振る​舞う​よう、​超自然の​衝動を​起こしてくれる。

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