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朝早くから

​ ​「天の​国は、​ぶどう​園の​働き人を​雇う​ために、​朝早くから​出かける​主人の​ようである」7。​これは​すでに​よく​ご存じの​一節でしょう。​主人は​何度か​広場に​出て、​働き人と​契約を​結びます。​ある​人たちは​夜明けに​呼ばれ、​また​ある​人は​日暮れ近くに​招かれました。

​ 全員が​一デナリオンンずつ受け取ります。​「ここで​言う​<デナリオン>とは​約束の​俸給、​つまり神の​似姿の​ことである。​デナリオン貨幣には​王の​像が​刻んであるのだ」8。​これこそ、​私たち一人​ひとりの​事情を​考えてお呼びに​なる​神の​慈しみと​言えるでしょう。​神は​「すべての​人が​救われる​よう」9お望みです。​私たちは​信者の​家庭に​生まれ、​信仰の​うちに​育まれ、​確かに​神の​選びを​受けました。​これも​現実です。​それなら、​たとえ招かれたのが​日暮れ近くであったとしても、​呼びかけに​応える​義務を​知りながら、​時間を​もて余して​日向ぼっこを​する​あの​大勢の​労働者のように、​広場で​暇つぶしを​していて​よい​ものでしょうか。

​ 時間を​持て​余すような​ことが​あっては​なりません。​たとえ一秒たりとも。​別に​誇張するまでもなく​仕事は​山ほど​あります。​世界は​広く、​しかも、​この​広い​世界で​キリストの​教えを​聞いた​ことの​ない​人々が​数限りなく​いるからです。​あなたが​た​一人​ひとりに​話しかけたい。​時間が​余ると​いうのなら​少し​考え直してみようでは​ありませんか。​生温い​状態に​陥っているか、​ひょっと​すれば​超​自然的に​見て、​足が​動かなくなっているのかも​知れない。​あなたは​鎮座を​決めこみ動こうとも​せず、​まるで​実を​なさぬ木のようである。​周囲や​傍に​いる​人々、​職場や​家庭で​共に​毎日を​過ごす​人々に、​幸せを​伝え​広めなければならないのに、​手を​こまねいているのではないだろうか。

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