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私事にかまけて​一生を​過ごす当時の​人々に​とって、​主の​謙遜は​もう​一つの​衝撃と​なりました。​私が​口―マに​住みついてから​何度も​繰り返したので、​もう​お聞きに​なったことが​あるかもしれません。​今日では​廃墟と​なった​あの​凱旋門の​下を、​自惚れと​傲慢と​思い​上がりで​膨れあがった​勝利者や​皇帝や​将軍たちが​行進した​ものです。​壮大な​アーチを​通り抜ける​ときに​威厳に​満ちた額を​ぶつけまいと​少し​頭を​下げて。​ところで​謙遜​その​ものである​キリストは、​「あなたたちが​謙遜で​慎み深いなら、​わたしの​弟子であると​認められるであろう」とも、​おっしゃらなかったのです。

​ 注目して​欲しい​ことがあります。​それは、​二十世紀を​経た​今も、​先生である​主の​掟は​新しい​掟と​しての​力を​維持している​のみならず、​本当に​神の​子である​ことを​示す紹介状の​役割を​果たすと​いう​事実です。​司祭生活を​通して、​私は​実に​何度も​繰り返し説いてきました。​遺憾ながら​この​<新しい​>掟の​実行に​努力を​傾ける​人は​皆無に​等しい。​従って、​この​掟は​相変わらず​<新しい​>掟です。​嘆かわしい​限りですが、​これが​現実です。​救い主の​言葉には、​紛う方​なき明白さが​あります。​「互いに​愛し合うならば、​それに​よってあなたが​たが​わたしの​弟子である​ことを、​皆が​知るようになる」。​だから​こそ、​この​主の​言葉を​絶えず​想い​起こす必要を​感じるのです。​聖パウロは​言葉を​続けています。​「互いに​重荷を​担いなさい。​そのように​してこそ、​キリストの​律法を​全う​する​ことに​なるのです」15。​時間は​余っていると​自分を​偽って​時間を​浪費する​あなた、​けれども、​仕事に​追われて​困り果てる​兄弟や​友人が​大勢いるのではないでしょうか。​礼を​失せぬよう優しく​微笑みながら、​相手が​気づかぬよう、​さり​気なく​手を​貸してあげましょう。​相手が​感謝する​必要を​感じない​ほど、​あなたの​愛徳が​慎み深く、​さり​気なく、​人目を​引か​ぬものであるように。

​ 油の​ない​灯を​携えて​行く​あの​かわい​そうな​乙女たちは、​自由な​時間は​なかったと​弁解する​ことでしょう。​広場の​男たちは​ほとんど​一日​中​時間を​持て​余していました。​主は​朝早くから​急きたてるように​して​人を​お探しに​なったのに、​彼らは​手助けの​必要さえ​感じなかったからです。​主の​求めや​要求には​快く​応じたい​ものです。​「一日の​労苦と​暑さ」​16を​愛ゆえに​忍びましょう。​とは​言え、​愛が​あるなら​忍ぶ必要も​ないでしょう。

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