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​「あらゆる​ものが、​頭である​キリストのもとに​一つに​まとめられます」​11 。​聖パウロは​エフェソの​信者に、​このような​標語を​与えました。​キリストの​精神で​世界中を​満たせ、​すべての​中心に​キリストを​据えよ、と​いう​意味の​標語なのです。​「わたしは​地上から​上げられる​とき、​すべての​人を​自分の​もと​へ​引き寄せよう」12。​人と​なられた​キリスト、​ナザレで​日々​労働に​明け暮れ、​ユダヤや​ガリラヤの​地方を​巡って​教えを​説き、​奇跡を​行い、​十字架上で​死去し、​復活した​キリストは、​全被​造物の​長子で​あり主、​創造の​業の​中心なのです。

​ 私たち信者の​使命は、​キリストが​王である​ことを​言葉と​行いを​もって​宣べ知らせる​ことです。​地上の​至る​ところに​ご自分の​民が​いる​ことを、​主は​望んで​おられます。​ある​人々には、​砂漠での​生活を​お与えに​なります。​人間社会の​流転に​関わり合わずに、​自らの​証しに​よって、​人々に​神の​存在を​思い起こさせる​ために。​また​ある​人々には​祭司職を​託されます。​そして​大部​分を​なす残りの​人々には、​社会の​中で​諸々の​仕事に​従事する​ことを​お望みに​なります。​従って、​これらの​キリスト信者は、​自己の​仕事を​展開していく​あらゆる​場に、​キリストの​精神を​広めなければなりません。​工場に、​研究所に、​田畑に、​職人の​仕事場に、​大都市の​街路や​山あいの​小道に​キリストの​教えを​伝えなければならないのです。

​ エマウスに​行く​途中で、​イエスと​弟子たちが話し合った​場面を​思い​起こしてみましょう。​人生が​無意味に​見え​はじめる​ほど​希望を​失っていた​あの​二人と、​イエスは​歩みを​共に​されました。​彼らの​心痛を​よく​理解して、​心の​奥まで​見抜き、​ご自分の​神的生活を​いくばくか​彼らに​お伝えに​なったのです。

​ 村に​着いた​とき、​イエスは​な​おも​先に​行こうとされたので、​二人の​弟子は​イエスを​引き止め、​無理に、​泊まってくださる​よう​願いました。​そして、​パンを​裂かれた​とき、​彼らの​同行者が​イエスである​ことに​気づいたのです。​「一緒に​いてくださったのは​キリストだった」と​彼らは​叫び、​「『道で​話しておられる​とき、​また​聖書を​説明してくださった​とき、​わたしたちの​心は​燃えていたではないか』と​語り合った」​13のでした。​人々に​キリストを​もたらすのは​信者の​務めです。​人々が、​私たちから​「キリストの​よき​香り」14を​感じとるように​振る​舞うのは​信者の​義務です。​使徒である​信者の​行いの​中に、​師のみ​顔が​浮かび​上がらなければならないのです。

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