キリスト信者に現存するキリスト

1967年3月26日 復活祭


〈キリストは​生きておられる〉。​これは​信仰の​中心を​なす偉大な​真理であります。​十字架上で​死去された​イエスは、​復活され、​闇の​力と​苦痛と​苦悩に​対して​勝利を​かち取られたのです。​「恐れる​ことはない」― 天使は​こう​呼びかけて、​墓に​かけつけた​婦人たちに​挨拶しました。​「驚く​ことはない。​あなたがたは​十字架に​つけられた​ナザレの​イエスを​捜しているが、​あの​方は​復活な​さって、​ここには​おられない」1、​「今日こそ主の​御業の​日。​今日を​喜び祝い、​喜び躍ろう」2。

​ 復活節は​喜びの​季節であります。​しかも​その​喜びは、​復活節の​間だけでなく、​常に​信者の​心に​ある​喜びなのです。​なぜなら​キリストは、​美しい​思い出と​素晴らしい​模範を​残して​行ってしまった​過去の​人物ではなく、​今も​生きる​御方であるからです。

​ 生きておられる​キリスト。​イエスは​私たちと​共に​いてくださる​神、​インマヌエルなのです。​神は​ご自分の​民を​お見捨てにならない​ことが、​キリストの​復活に​よって​明らかに​なりました。​「女が​自分の​乳飲み子を​忘れるであろうか。​母親が​自分の​産んだ子を​憐れまないであろうか。​たとえ、​女たちが​忘れようとも、​わたしが​あなたを​忘れる​ことは​決してない」3と​主は​約束してくださいましたが、​今その​約束は​果たされました。​神は​な​おも​人の​子との​交流を​楽しみに​しておられるのです4。

​ 〈キリストは​教会の​中に​生きておられる〉。​「実を​言うと、​わたしが​去って​行くのは、​あなたが​たの​ために​なる。​わたしが​去って​行かなければ、​弁護者は​あなたが​たの​ところに​来ないからである。​わたしが​行けば、​弁護者を​あなたが​たの​ところに​送る」5。​すべて​神の​ご計画​通りでした。​十字架上の​死を​遂げる​ことに​よって、​イエスは​真理と​生命の​霊を​与えてくださいました。​キリストは、​秘跡と​典礼、​宣教、​教会の​全活動を​通して、​教会と​共に​いてくださるのです。

​ 特に、​毎日​ご自分を​お与えに​なる聖体の​秘跡に​おいて、​キリストは​私たちと​共に​おられます。​だから​こそ、​ミサ聖祭は​キリスト信者の​生活の​中心で​あり拠り所なのです。​すべての​ミサ聖祭に、​キリストの​頭と​体、​つまり​全キリストが​現存されます。​「キリストに​よって、​キリストと​共に、​キリストに​おいて」。​キリストは​道であり仲介者です。​キリストには​すべてが​見出されます。​キリストと​一緒でなければ、​私たちの​生活は​空しくなる​ことでしょう。​イエス・キリストに​おいて​こそ、​み教えに​従って​「我等の​父よ」と​敢えて​祈る​ことができ、​天と​地の​主を​恐れずに​父と​呼ぶことができるのです。

​ 聖なる​ホスチアに​現存される​生ける​イエスは、​この​世に​おける​イエスの​現存の​保証・根拠・完成に​ほかならないのです。

〈キリストは​キリスト信者の​中に​生きておられる〉。​信仰に​よれば、​人は​恩恵の​状態に​ある​時、​〈神化〉されていると​言われます。​私たちは​人間であって、​天使では​ありません。​心を​持ち、​情念に​燃え、​悲しみや​喜びを​感じる​生身の​人間です。​しかし​〈神化〉は、​光栄ある​復活に​先駆けるかのように、​人間全体に​影響を​与えるのです。​「キリストは​死者の​中から​復活し、​眠りに​ついた​人たちの​初穂となられました。​死が​一人の​人に​よって​来たのだから、​死者の​復活も​一人の​人に​よって​来るのです。​つまり、​アダムに​よって​すべての​人が​死ぬことになったように、​キリストに​よって​すべての​人が​生かされる​ことに​なるのです」6。

​ ​「わたしを​愛する​人は、​わたしの​言葉を​守る。​わたしの​父は​その​人を​愛され、​父と​わたしとは​その​人の​ところに​行き、​一緒に​住む」7と、​最後の​晩さんで​使徒たちに​約束な​さった​通り、​キリストの​生命は​私たちの​生命と​なりました。​それゆえ、​キリスト信者は​キリストと​同じ​心を​持ち、​キリストに​倣う​生活を​しなければなりません。​そう​すれば、​聖パウロと​共に​「生きているのは、もは​やわたしでは​ありません。​キリストが​わたしの​内に​生きておられるのです」8と​叫ぶことができるようになるのです。

イエス・キリスト、​信仰生活の​基礎

​「イエス・キリストは、​きのうも​今日も、​また​永遠に​変わる​ことの​ない方です」9。​キリストが​現に​生きておられる​ことを、​いく​つかの​面から​簡単に​考えてみました。​これこそ​信者の​生活​その​ものの​基礎を​なす真理であるからです。​周囲を​見回して、​人類の​歴史の​流れを​振り返ってみると、​進歩や​発展の​あったことに​気が​付きます。​科学に​よって​人類は​自己の​能力を​最大限に​自覚しました。​技術に​よって​過去の​時代よりもはるかに​自然を​支配し、​さらに​高い​水準の​文化や​物質生活、​そして​平和に​達する​ことを​夢みるようになりました。

​ 現在、​人々は​不正と​戦争に​苦しんで​おり、​その​苦しみは​時には​昔よりはるかに​大きく、​一概に​進歩・発展が​あったとは​言い​切れまいと​言う​人も​いる​ことでしょう。​そう​考える​根拠も​あります。​しかし​私は、​いずれかの​考えを​選ぶと​いうのではなく、​宗教の​分野に​おいては、​人間は​人間、​神は​神である​ことに​変わりは​なかった​ことを​思い​起こしていただきたいと​思うのです。​宗教面では、​アルファと​オメガ、​つまり​初めであり、​終わりである​10キリストに​おいて​進歩は​頂点に​達したからです。

​ 霊的生活に​おいては、​これから​向かうべき​新たな​時代など​存在しません。​死して​復活した​キリスト、​いつまでも​生きておられる​キリストに​おいて、​すべては​成し遂げられたのです。​ただし​私たちは、​信仰に​よって​キリストに​一致し、​キリストの​生命が​私たちの​中に​現れる​よう​努めなければなりません。​信者は​〈もう​一人の​キリスト〉と​いうより​〈同じ​キリスト〉、​〈キリストご自身〉であると​言えるようにならなければならないのです。

​「あらゆる​ものが、​頭である​キリストのもとに​一つに​まとめられます」​11 。​聖パウロは​エフェソの​信者に、​このような​標語を​与えました。​キリストの​精神で​世界中を​満たせ、​すべての​中心に​キリストを​据えよ、と​いう​意味の​標語なのです。​「わたしは​地上から​上げられる​とき、​すべての​人を​自分の​もと​へ​引き寄せよう」12。​人と​なられた​キリスト、​ナザレで​日々​労働に​明け暮れ、​ユダヤや​ガリラヤの​地方を​巡って​教えを​説き、​奇跡を​行い、​十字架上で​死去し、​復活した​キリストは、​全被​造物の​長子で​あり主、​創造の​業の​中心なのです。

​ 私たち信者の​使命は、​キリストが​王である​ことを​言葉と​行いを​もって​宣べ知らせる​ことです。​地上の​至る​ところに​ご自分の​民が​いる​ことを、​主は​望んで​おられます。​ある​人々には、​砂漠での​生活を​お与えに​なります。​人間社会の​流転に​関わり合わずに、​自らの​証しに​よって、​人々に​神の​存在を​思い起こさせる​ために。​また​ある​人々には​祭司職を​託されます。​そして​大部​分を​なす残りの​人々には、​社会の​中で​諸々の​仕事に​従事する​ことを​お望みに​なります。​従って、​これらの​キリスト信者は、​自己の​仕事を​展開していく​あらゆる​場に、​キリストの​精神を​広めなければなりません。​工場に、​研究所に、​田畑に、​職人の​仕事場に、​大都市の​街路や​山あいの​小道に​キリストの​教えを​伝えなければならないのです。

​ エマウスに​行く​途中で、​イエスと​弟子たちが話し合った​場面を​思い​起こしてみましょう。​人生が​無意味に​見え​はじめる​ほど​希望を​失っていた​あの​二人と、​イエスは​歩みを​共に​されました。​彼らの​心痛を​よく​理解して、​心の​奥まで​見抜き、​ご自分の​神的生活を​いくばくか​彼らに​お伝えに​なったのです。

​ 村に​着いた​とき、​イエスは​な​おも​先に​行こうとされたので、​二人の​弟子は​イエスを​引き止め、​無理に、​泊まってくださる​よう​願いました。​そして、​パンを​裂かれた​とき、​彼らの​同行者が​イエスである​ことに​気づいたのです。​「一緒に​いてくださったのは​キリストだった」と​彼らは​叫び、​「『道で​話しておられる​とき、​また​聖書を​説明してくださった​とき、​わたしたちの​心は​燃えていたではないか』と​語り合った」​13のでした。​人々に​キリストを​もたらすのは​信者の​務めです。​人々が、​私たちから​「キリストの​よき​香り」14を​感じとるように​振る​舞うのは​信者の​義務です。​使徒である​信者の​行いの​中に、​師のみ​顔が​浮かび​上がらなければならないのです。

キリスト信者は、​洗礼に​よって​キリストに​接ぎ木され、​堅信に​よって​キリストの​ために​戦う​力が​与えられます。​また、​キリストの​司祭・預言者・王と​しての​使命に​参与する​ことに​よって​社会で​働くように​召され、​一致と​愛の​秘跡である​聖体に​よって​キリストと​ひとつに​なった​ことを​知っています。​従って、​キリストのように、​周囲の​人々​一人​ひとりを、また​人類全体を、​愛の​眼差しで​眺め、​人々の​ためを​考えながら​生きなければならないのです。

​ 信仰に​よって、​キリストを​神と​して​認め、​救い​主と​して​考え、​キリストと​同じように​行動すれば、​キリストに​一致する​ことができます。​復活された​お方は、​ご自分の​傷口を​示して​使徒聖トマの​疑いを​はらし、​叫ばれました。​「わたしを​見たから​信じたのか。​見ないのに​信じる​人は、​幸いである」15。​この​言葉に​ついて、​大聖グレゴリオは​次のように​述べています。​「ここでは、​特に​私たちの​ことを​指しているのだ。​その御体を​見たこともない​お方を​私たちは​霊的に​所有しているからである。​私たちの​ことを​指しては​いるが、​ただし、​私たちの​行いと​信仰が​一致している​場合に​限っての​ことである。​信じている​ことを​実際に​行いと​して​表さないと​すれば、​本当に​信じているとは​言えない。​口先でしか​信仰を​表さない​人々の​ことを​聖パウロは​次のように​言っている。​『神を​知っていると​言うが、​その​行いに​よって​神を​否定している』」16。

​ 神で​あり人である​キリストと、​その​救い​主と​しての​使命を​別々に​考える​ことは​できません。​み言葉は​人と​なり、​この​世に​来られましたが、​それは​「すべての​人を​救う」1​7ためでした。​個人的な​惨めさや​限界が​あったとしても、​私たちは​すべての​人々に​奉仕するように​召された​もう​一人の​キリスト、​キリスト自身なのです。

​ 新しい​愛の​掟は、​いつに​なっても​何度でも​繰り返し響き渡らなければなりません。​ヨハネが​書き送っています。​「愛する​者たち、​わたしが​あなたが​たに​書いているのは、​新しい​掟ではなく、​あなたが​たが​初めから​受けていた​古い掟です。​この​古い​掟とは、​あなたが​たが​既に​聞いた​ことの​ある​言葉です。​しかし、​わたしは​新しい​掟と​して​書いています。​その​ことは、​イエスに​とっても​あなたが​たに​とっても​真実です。​闇が​去って、​既に​まことの​光が​輝いているからです。​『光の​中に​いる』と​言いながら、​兄弟を​憎む者は、​今も​な​お闇の​中に​います。​兄弟を​愛する​人は、​いつも​光の​中に​おり、​その​人には​つまずきが​ありません」​18。

​ 全人​類に、​平和と​福音と​生命を​もたら​すために​主は​来られました。​金持ちの​ためだけではなく、​貧しい​人々の​ためだけでもありません。​賢い​人々の​ためだけではなく、​素朴な​人々の​ためだけでもありません。​兄弟である​全人​類の​ために​来られたのです。​私たちは​皆、​同じ父である​神の​子ですから​兄弟なのです。​従って、​神の​子と​いう​人種だけしか​存在しないのです。​肌の​色も​同じく、​神の​子の​肌色しか​ありません。​言葉も​一つだけで、​それは​心に​無言の​うちに​語りかけ、​神に​ついて​教え、​互いに​愛し合うようにさせる​言葉の​ことです。

キリストの​生活を​黙想する

​ ​私たちが​それぞれ生活の​場で​実行しなければならないのは、​この​キリストの​愛であります。​そして、​〈同じ​キリスト〉に​なる​ためには、​キリストを​見習わなければなりません。​イエスの​実行された​精神を、​ただ​一般的に​知っているだけでは​十分ではなく、​イエスの​ご生活の​細かい​点や​態度までも​学ばなければなりません。​力と​光、​冷静さと​平和を​汲みとる​ために​特に​その​ご生涯に​ついて​黙想する​必要が​あるのです。

​ 人を​愛すると、​その​人の​生活や​性格を​すべて​知ろうと​望み、​最後には​その​人と​同じようになりたいと​思う​ものです。​イエスを​愛する​私たちも、​馬屋での​ご誕生から、​ご死去、​ご復活に​至るまで、​イエスの​全生涯を​黙想しなければなりません。​私が​司祭生活に​入った​最初の​頃には、​福音書や​キリスト伝を​贈り物に​した​ものです。​キリストの​ご生涯に​ついては​よく​知っておかなければならないからです。​それも​すっかり心に​刻みつける​必要が​あるのです。​どんな​時でも、​書物に​頼らずに、​ただ眼を​閉じるだけで​映画でも​見ているかのように、​主の​ご生涯を​思い浮かべる​ことができる​ためです。​そう​すれば、​私たちは​生活の​どのような​場に​あっても、​主の​お言葉や​み業を​思い浮かべる​ことができるからです。

​ こうして、​キリストの​ご生活に​入り込んでいる​自分を​知る​ことでしょう。​ただイエスの​ことを​考え、​その​ご生活を​想像するばかりではないのです。​私たちは​その​場面に​入って、​登場人物の​一人と​なるのです。​聖母マリアのように、​十二使徒のように、​聖なる​婦人たちのように、​イエスの​まわりに​押し寄せた​群衆のように、​イエスの​傍に​いて​そのみ​跡に​従わなければなりません。​このように​振る​舞い、​邪魔を​しなければ、​キリストのみ​言葉は​心の​底まで​染み透り、​私たちを​変えてしまう​ことでしょう。​「神の​言葉は​生きており、​力を​発揮し、​どんな​両刃の​剣よりも​鋭く、​精神と​霊、​関節と​骨髄とを​切り離すほどに​刺し通して、​心の​思いや​考えを​見分ける​ことができるからです」19。

​ 人々を​神のもとに​引き寄せたいと​思うならば、​福音書を​手に​とって、​キリストの​愛に​ついて​黙想しなければなりません。​「友人の​ために​生命を​与える以上の​大きな​愛は​ない」20と​御自ら​言われましたから、​ご受難が​最高潮に​達した​場面を​特に​注目する​ことも​できるでしょう。​しかし、​主の​ご生涯の​他の​場面や、​イエスと​行き交う​人々との​日常の​付き合いなどに​ついても​考える​ことができます。

​ 完全な​神であり完全な​人である​キリストは、​救いの​教えを​人々に​伝える​ために、​そして​神の​愛を​人々に​示すために、​人間的で​あり神的でもある​方​法を​選ばれました。​その方​法とは、​人と​なる​ことを​受諾され、​罪以外は、​人間の​本性を​すべて​所有なさる​ことでした。

​ キリストが​私たちと​同じ肉体を​もった​人間に​なられた​ことを​考えると、​心の​底から​喜びが​湧きあがってきます。​神が​人の​心で​愛してくださるとは、​考えるだけでも​素晴らしい​ことではないでしょうか。

福音史家の​述べる​多くの​場面の​中から、​いく​つかを​選んで​ゆっくり考えてみましょう。​まず、​十二使徒は​イエスと​どのように​接したのでしょうか。​生涯の​経験を​福音書の​中に​織り込んだ​使徒聖ヨハネは、​忘れ得ない​あの​最初の​魅力的な​対話を​書き残しています。​「『ラビ―“先生”と​いう​意味―どこに​泊まっておられるのですか』と​言うと、​イエスは、​『来なさい。​そう​すれば​分かる』と​言われた。​そこで、​彼らは​ついて​行って、​どこに​イエスが​泊まっておられるかを​見た。​そして​その​日は、​イエスのもとに​泊まった」21。

​ それは、​ヨハネや​アンデレ、​ペトロや​ヤコブ、​その​他の​多くの​者の​生活を​変えた​神と​人との​対話であり、​ガリラヤの​浜辺に​おける、​イエスの​力強い​呼びかけに​応える​ことができるよう、​弟子の​心を​準備した​対話だったのです。​「イエスは、​ガリラヤ湖の​ほとりを​歩いておられた​とき、​二人の​兄弟、​ペトロと​呼ばれる​シモンと​その​兄弟アンデレが、​湖で​網を​打っているのを​御覧に​なった。​彼らは​漁師だった。​イエスは、​『わたしに​ついて​来なさい。​人間を​とる​漁師にしよう』と​言われた。​二人は​すぐに​網を​捨てて​従った」22。

​ 後に​続く​三年間、​イエスは​弟子たちと​共に​生活され、​彼らを​よく​知り、​その​質問に​答え、​疑問を​解決なさいました。​権威を​もって​話す​この​ラビ、​この​先生は​確かに​神から​遣わされた​救い主です。​しかし​同時に、​親しみの​ある、​話しやすい​お方でした。​ある​日、​イエスが​祈りを​する​ために​退かれた​ときの​ことです。​弟子たちは​お傍近くに​いて、​おそらく、​イエスを​見つめて、​何を​言っておられるのか​当て​ようと​していたのでしょう。​イエスが​戻って​来られると、​その中の​一人が​尋ねます。​「『主よ、​ヨハネが​弟子たちに​教えたように、​わたしたちにも​祈りを​教えてください』と​言った。​そこで、​イエスは​言われた。​『祈る​ときには、​こう​言いなさい。​“父よ、​御名が​崇められますように。​御国が​来ますように​(…)​”』」23。

​ 神と​しての​権威を​もって、​また​人と​しての​愛情を​もって​主は​弟子たちを​等しく​受け入れておられました。​彼らが​最初の​宣教の​成果に​驚いて、​使徒職の​素晴らしさに​ついて​話し合っていた​とき、​その​彼らに、​「人里離れた​所へ​行って、​しばらく​休むが​よい」​24と​言われたのです。

​ これに​よく​似た​場面が、​ご昇天の​少し前、​イエスの​地上での​滞在も​あと​わずかに​迫った​頃に​繰り返されます。​「既に​夜が​明けたころ、​イエスが​岸に​立っておられた。​だが、​弟子たちは、​それが​イエスだとは​分からなかった。​イエスが、​『子たちよ、​何か​食べる​物が​あるか』と​言われると、​彼らは、​『ありません』と​答えた。​イエスは​言われた。​『舟の​右側に​網を​打ちなさい。​そう​すればとれるはずだ』。​そこで、​網を​打ってみると、​魚が​あまり​多くて、​もは​や網を​引き上げる​ことができなかった。​イエスの​愛しておられた​あの​弟子が​ペトロに、​『主だ』と​言った。​シモン・ペトロは​『主だ』と​聞くと、​裸同然だったので、​上着を​まとって​湖に​飛び込んだ。​ほかの​弟子たちは​魚の​かかった​網を​引いて、​舟で​戻って​来た。​陸から​二百ペキスばかりしか​離れていなかったのである。​さて、​陸に​上がってみると、​炭火が​おこして​あった。​その​上に​魚がのせて​あり、​パンも​あった。​イエスが、​『今とった​魚を​何匹か​持って来なさい』と​言われた。​シモン・ペトロが​舟に​乗り込んで​網を​陸に​引き上げると、​百五十三匹もの​大きな​魚で​いっぱいであった。​それほど​多くとれたのに、​網は​破れていなかった。​イエスは、​『さあ、​来て、​朝の​食事を​しなさい』と​言われた。​弟子たちは​だれも、​『あなたは​どなたですか』と​問いただそうと​は​しなかった。​主である​ことを​知っていたからである。​イエスは​来て、​パンを​取って​弟子たちに​与えられた。​魚も​同じように​された」25。

​ イエスは、​小さな​グループの​弟子たちばかりにではなく、​すべての​人々に、​このような​愛情や​思いやりを​お示しに​なりました。​聖なる​婦人たちに、​ニコデモのような​衆議所の​議員に、​ザケオのような​税吏に、​そして​病人にも​健康な​人にも、​律法学士や​異教徒にも、​その​一人​ひとりに、​また​群衆全体にも​愛を​お示しに​なったのです。

​ 福音書には、​イエスは​枕する​ところさえなかった​と​記してありますが、​イエスを​愛し、​信頼し、​是非​お世話したいと​望んだ​友人が​いたことも​書いてあります。​さらに、​病人に​対する​御憐れみ、​無知な​人や​過失を​犯した​人々への​ご心痛、​偽善に​対する​お怒りに​ついても​述べてあります。​イエスは​ラザロの​死に​際して​涙を​流され、​神殿を​けが​す商人には​立腹され、​ナイムの​寡婦の​心痛を​ご覧に​なって​心を​打たれたのです。

このような​人間的な​表情の​一つ​ひとつが​神の​表情でもあります。​「キリストの​内には、​満ちあ​ふれる​神性が、​余す​ところなく、​見える​形を​とって​宿って」26いる。​ キリストは​人となられた​神です。​完全な​人であり、​人その​ものなのです。​人間と​しての​ご生活を​通して、​ご自分が​神である​ことを​示してくださるのです。

​ 人々への​奉仕の​ために、​生涯を​捧げられた​キリストの​思いやりを​黙想する​方が、​私たちのとるべき​動作や​行動を​あれこれ​述べるよりも​ずっと​役に​立ちます。​私たちは​イエスの​中に​神を​発見していくのです。​キリストのみ​業には​すべてに​勝る​超越的な​価値が​あります。​キリストは、​神が​どのような​御方であるかを​教えてくださり、​人間を​創り、​神の​深奥の​生命に​あずからせようとお望みに​なる​神の​愛を​信じるように​誘い​かけておられるからです。​「世から​選び出して​わたしに​与えてくださった​人々に、​わたしは​御名を​現しました。​彼らは​あなたの​ものでしたが、​あなたは​わたしに​与えてくださいました。​彼らは、​御言葉を​守りました。​わたしに​与えてくださった​ものは​みな、​あなたからの​ものである​ことを、今、​彼らは​知っています」27。​福音史家ヨハネが​伝えている​長い​祈りの​中で、​イエスは​こう​叫ばれました。

​ それゆえ、​イエスの​人々に​対する​関係は、​口先や​上辺だけの​態度に​終わる​ものでは​ありませんでした。​イエスは​人間の​ことを​真剣に​考え、​人の​生活の​神的意味を​お示しに​なりたいのです。​いとも​聖なる​神を​知るよう導く​ために、​イエスは​ご自分に​耳を​傾ける​人を​安易な​生活や​妥協から​引き離して、​厳しく​急き立て、​彼らに​自分の​義務を​果たすよう​要求されるのです。​イエスは​空腹や​苦痛に​心を​動かされましたが、​特に​無知に​同情なさいました。​「イエスは​舟から​上がり、​大勢の​群衆を​見て、​飼い​主の​いない​羊のような​有様を​深く​憐れみ、​いろいろと​教え​始められた」28。

日常生活での​実践

 人々と​交わる​イエスを​黙想する​ため、​また​私たち自身が​キリストに​なって、​兄弟である​人々に​キリストを​知らせるには​どう​すれば​良いかを​学ぶために、​福音書の​数頁に​目を​通してみました。​この​教えを​各々の​日常生活で​実行しましょう。​社会人と​して、​また​同僚の​間で​過ごす生活は、​普通の​ありふれた​生活であっても、​決して​平坦な​深みの​ない​ものでは​ありません。​まさに、​この​生活に​おいて​こそ、​大多数の​神の​子ども​たちが​聖人に​なるのを​神は​お望みに​なっているのです。

​ イエスは、​特に​恵まれた​人々だけに​向かって​話しかけられたのではなく、​神の​広く​大きな​愛を​証すために​来られたと​いう​ことを​絶えず​繰り返して​教える​必要が​あります。​人は​皆神に​愛され、​そして​神は、​個人的な​事情や​社会的条件、​職業、​仕事を​問わず、​すべての​人間からの​愛を​待っておられるのです。​平凡な​日常生活に​価値が​ないとは​言えません。​地上での​道は​すべて、​キリストとの​出会いの​道です。​各々が​置かれた​場所で​神から​託された​使命を​果たし、​キリストに​一致する​ために、​私たちは​キリストに​招かれているのです。

​ 日常の​出来事や、​一緒に​生活している​人々の​喜びや​悲しみの​うちに、​同僚の​人間的な​熱意や​家庭の​小さな​出来事を​通して、​神は​私たちを​呼んで​おられます。​さらに、​各時代の​歴史を​特徴づけ、​人類の​大多数の​人々の​努力や夢を​引きつける​大きな​問題や​葛藤、​課題などを​通して、​私たちを​呼んで​おられるのです。

人間の​作り出す個人的・​社会的不正を​前に​して、​もともと​キリスト的な​心を​持っている​人29の​感じる、​我慢できないも​どかしさや​苦悩、​焦燥感は​よく​理解できます。​何世紀にもわたる​人類の​共存生活にも​拘わらず、​目が​あるのに​見ない​人、​心が​あっても​愛さない​人々は、​まだまだ​憎悪や​破壊、​狂気の​沙汰を​やめようとしない​状態に​あります。

​ この​世の​富は​少数の​人々の​間で​分配され、​文化財も​一部の​人が​握っています。​そして​それ以外の​ところには、​食べ物と​知識への​飢えが​あるばかりです。​人間の​生活は​神から​出た​もので​聖なるはずですが、​実際には、​統計表の​項目とか​その​数字と​してしか​扱われていないのです。​このような​現状を​眺めると、​先に​述べたも​どかしさが​わかり、​それに​共感を​覚えます。​すると、​これが​動機と​なって、​〈新しい​愛の​掟〉を​実行するよう絶えず​私たちに​誘い​かけておられる​キリストの​方に​視線を​向けるようになるのです。

​ 日常生活の​いろいろな​出来事から、​神の​意向を​悟る​ことができますが、​同時に​人々を​愛し人々の​ために​献身しなければならない​ことも​理解できます。​「人の​子は、​栄光に​輝いて天使たちを​皆従えて​来る​とき、​その​栄光の​座に​着く。​そして、​すべての​国の​民が​その前に​集められると、​羊飼いが​羊と​山羊を​分けるように、​彼らを​より​分け、​羊を​右に、​山羊を​左に​置く。​そこで、​王は​右側に​いる​人たちに​言う。​『さあ、​わたしの​父に​祝福された​人たち、​天地創造の​時から​お前たちの​ために​用意されている​国を​受け継ぎなさい。​お前たちは、​わたしが​飢えていた​ときに​食べさせ、の​どが​渇いていた​ときに​飲ませ、​旅を​していた​ときに​宿を​貸し、​裸の​ときに​着せ、​病気の​ときに​見舞い、​牢に​いた​ときに​訪ねてくれたからだ』。​すると、​正しい​人たちが王に​答える。​『主よ、​いつわた​したちは、​飢えておられるのを​見て​食べ物を​差し上げ、のどが​渇いておられるのを​見て​飲み物を​差し上げたでしょうか。​いつ、​旅を​しておられるのを​見てお宿を​貸し、​裸で​おられるのを​見てお着せしたでしょうか。​いつ、​病気を​なさったり、​牢に​おられたりするのを​見て、​お訪ねしたでしょうか』。​そこで、​王は​答える。​『は​っきり​言っておく。​わたしの​兄弟である​この​最も​小さい​者の​一人に​したのは、​わたしに​してくれた​ことなのである』」30。

​ 兄弟である​人々を​見て、​私たちとの​出会いを​求めて​来られる​キリストに​気づかなければなりません。​誰の​生活であっても、​決して​孤立した​ものではなく、​周囲の​人々の​生活と​密接に​結びついています。​どんな​人もばらばらに​分かれた​一行の​詩ではなく、​皆が​〈神の​詩〉の​一部を​構成しています。​私たちの​自由意志に​基づいた​協力を​得て、​神は​それを​書き上げて​行かれるのです。

キリストの​熱意に​無関係な​ものは​何も​ありません。​神学的に​説明するならば、​ひとたび、​神のみ​言葉・​キリストが​人々の​中に​降り、​飢えと​渇きを​おぼえ、​自ら​労働し、​友情や​従順を​学び、​苦しみと​死を​経験されて以来、​厳密に​言って、​善良な​こと、​気高い​こと、​あるいは​善でも​悪でもない​ことで​さえ、​神とは​全く​無関係であるとは​断言できなくなりました。​「神は、​御心のままに、​満ちあ​ふれる​ものを​余す​ところなく​御子の​内に​宿らせ、​その​十字架の​血に​よって​平和を​打ち立て、​地に​ある​ものであれ、​天に​ある​ものであれ、​万物を​ただ御子に​よって、​御自分と​和解させられ」​31たからなのです。

​ 私たちは、​社会も​仕事も​人生の​出来事を​も愛さなければなりません。​この​世は​良い​ものですから。​しかし、​アダムの​罪は​創られた​ものの​神的調和を​乱してしまいました。​そこで、​父である​神は​平和を​取り戻すために​独り子を​お遣わしに​なりました。​神の​養子に​なった​私たちを、​被造界の​無秩序から​解放し、​すべてを​神と​和睦させる​ためだったのです。

​ 一所​懸命に​生き、​キリストの​精神を​実現する​ことができるよう唯一の​召し出しに​よって、​私たちは​さまざまな​状況に​置かれますが、​この​各瞬間の​状況は​一度​限りで、​二度と​経験する​ことのできない​ものです。​同僚の​間で、​どこと​言って​変わった​ところが​ないながらも、​信仰に​一致した​毎日を​送るならば、​私たちは​〈人々の​うちに​おられる​キリスト〉に​なる​ことでしょう。

神が​お与えに​なる​使命の​尊厳を​考えると、​人は​う​ぬぼれや​傲慢の​心を​持つかもしれません。​しかし​そのような​心は、​キリスト信者と​しての​召し出しを​誤解している​証拠であって、​私たちが​泥から​できており、​塵の​如く​哀れな​存在に​すぎない​ことを​忘れてしまっているのです。​悪は、​私たちの​周囲に​ある​のみならず、​私たち自身の​中に​存在し、​心を​むしばみ、​卑劣な​振舞い​や​利己主義に​向かわせるのです。​神の​恩恵のみが​堅固な​岩と​呼べる​ものであって、​私たちは​砂、​しかも​流され​易い砂に​すぎない​ことを、​知らなければなりません。

​ 人類の​歴史や​世界の​現状を​見ると、​二十世紀経った​今でも​キリスト者と​言える​人は​あまりに​少なく、​キリスト者と​いう​呼び名で​自己を​飾りながら、​しばしば、​その​使命に​不忠実な​人々の​多いことが​わかり、​心を​痛めずには​いられません。​何年か前、​悪意は​ないが、​信仰もない​ある​人が​世界地図を​指して、​私に​次のように​言った​ことがあります。​「キリストの​失敗を​ご覧なさい。​何世紀にも​わたって​人々の​心に​その​教えを​吹き込もうと​努めて​来ましたが、​結果は​どうですか。​キリスト教徒は​いないのです」と。

​ 今日でも​このように​考える​人は​います。​しかし​キリストは​失敗な​さったのでは​ありません。​キリストの​言葉と​生活は​今も​絶えず世を​豊かに​しています。​キリストのみ​業、​御父が​キリストに​託された​使命は​実現されつつあります。​その力は​歴史を​貫き、​真実の​生命を​もたらしました。​「すべてが​御子に​服従する​とき、​御子自身も、​すべてを​御自分に​服従させてくださった方に​服従されます。​神が​すべてに​おいて​すべてとなられる​ためです」32。

​ 神は​私たちを、​この​世で​実現しつつある​救いのみ​業の​協力者にしようとお望みに​なり、​〈危険を​承知の​上で​私たちの​自由に​賭けよう〉と​お決めに​なりました。​ベトレヘムで​お生まれに​なったばかりの​イエスの​姿を​黙想する​とき、​私は​心打たれる​思いが​します。​神は、​可愛くていたいけない​幼子の​姿を​とり、​人間の​手に​ご自身を​委ね、​人間の​次元まで​降り、​近づいてくださったのです。

​ イエス・キリストは​「神の​身分で​ありながら、​神と​等しい者である​ことに​固執しようとは​思わず、​かえって​自分を​無に」33されたのです。​神は、​人間の​自由、​不完全さ、​その​惨めささえも​引き受けてくださいました。​神的な​宝が​伝え​広められるように​お望みに​なりますが、​その​宝が​壊れやすい​器に​入れられている​ことや、​神の​力が​人間の​弱さと​混ざり合っている​ことを​承知の​上だったのです。

罪を​経験しても、​それに​よって、​使命を​疑うべきでは​ありません。​罪を​犯すと​キリストを​認識するのは​確かに​難しくなります。​ですから、​自己の​惨めさを​正面から​見つめ、​浄化に​努めなければなりません。​神は​現世での​悪に​対する​完全な​勝利を​私たちに​約束されず、​ただ​戦う​ことだけを​望んで​おられます。​「わたしの​恵みは​あなたに​十分である」34。​高ぶらないように​与えられた​棘を​退けてくださいと​祈った​聖パウロに​対する​神の​お答えは​こうだったのです。

​ 神の​力は​私たちの​弱さの​中に​現れ、​地上を​旅する​間は​決して​完全な​勝利は​得られないと​知っていても​自己の​欠点と​戦うようにと、​私たちを​励ましておられます。​キリスト信者の​生活は​始める​ことであり、​毎日は​やり直しの​連続なのです。

​ キリストの​十字架と​その​ご死去に​あずかる​ならば、​キリストは​私たちの​中で​蘇られます。​キリストの​十字架と​奉献と​犠牲を​愛さなければなりません。​キリスト信者の​楽観主義とは​甘ったる​い​ものではなく、​また、​万事​うまく​運ぶだろうと​いう​人間的な​安心でもありません。​それは、​自由の​自覚と​恩恵への​信仰に​根拠を​おく​楽観主義、​神の​召し出しに​応えるべく​努力するように​私たちを​促し、​駆り立てる​楽観主義なのです。

​ 私たちの​惨めさにも​拘わらずと​いうのではなく、ある​意味で​その​惨めさを​通して、​つまり肉体と​土から​成っている​人間と​しての​私たちの​生活を​通して​キリストが​明らかに​されます。​絶え​ざる​奉仕に​自己を​急き立てながら、​人々の​ため惜しまず​自己を​捧げる​努力、​わが​ままを​抑える​努力、​清い心でありたいと​望む愛を​実行する​努力、​より​よくなろうと​する​努力に​おいて​キリストが​証明されるのです。

最後に、​私たち信者が​〈キリスト自身〉と​なって​人々の​中に​キリストを​現存させるならば、​愛徳を​実行するだけでなく、​神の​愛を​伝え​広め、​その愛を​通して​キリストの​人間的な​愛情を​も伝えると​いう​事実に​ついて​考えてみたいと​思います。

​ 自らの​生涯は​神の​愛を​表すためであると​イエスは​考えておられましたが、​それは、​弟子の​一人に​「フィリポ、​こんなに​長い間​一緒に​いるのに、​わたしが​分かっていないのか。​わたしを​見た者は、​父を​見たのだ」​35と​いう​お答えに​もうかが​われます。​この​教えに​従って、​使徒聖ヨハネは​キリスト信者に、​すでに​神の​愛を​知ったからには​行いを​もって​その​愛を​示すべきであると​勧めています。​「愛する​者たち、​互いに​愛し合いましょう。​愛は​神から​出る​もので、​愛する​者は​皆、​神から​生まれ、​神を​知っているからです。​愛する​ことの​ない​者は​神を​知りません。​神は​愛だからです。​神は、​独り子を​世に​お遣わしに​なりました。​その方に​よって、​わたしたちが​生きるようになる​ためです。​ここに、​神の​愛が​わたしたちの​内に​示されました。​わたしたちが神を​愛したのではなく、​神が​わたしたちを​愛して、​わたしたちの​罪を​償ういけに​えと​して、​御子を​お遣わしに​なりました。​ここに​愛が​あります。​愛する​者たち、​神が​このように​わたしたちを​愛されたのですから、​わたしたちも​互いに​愛し合うべきです」36。

​私たちの​信仰は、​神を​信じ、​神と​絶えず​対話を​保つよう、​生き​生きと​していなければなりません。​キリスト信者の​生活は、​四六時中、​神の​現存を​保つ​絶え​ざる​祈りの​生活であるべきです。​キリスト信者は​決して​孤独では​ありません。​天に​おられ、​私たちと​共に​おられる​神との​絶え間ない​交わりの​中に​生きているからです。

​ 使徒聖パウロは、​「絶えず​祈りなさい」37と​命じています。​この​使徒の​戒めを​思い​起こして、​アレクサンドリアの​クレメンスは、​次のように​述べています。​「他の​人々のように​特定の​日だけではなく、​一生の​間、​絶えず​あらゆる​方​法を​用いて、​み言葉を​救い​主と​して​王と​して​認め、​さらに​み言葉を​通して​御父を​賛美し、​礼拝するよう​命じられている」38。

​ 一日の​仕事の​間、​わが​ままな​傾きに​克つ瞬間、​友情の​喜びを​感じる​とき、​このような​時には、​キリスト信者は​いつも​神と​出会う​ことでしょう。​キリストを​通して​聖霊に​おいて、​キリスト信者は​父である​神との​親しい​交わりに​近づき、​神の​王国を​求めて​道を​歩み続けるのです。​その​王国は​この​世の​ものでは​ありませんが、​この​世に​始まり、​この​世で​準備されるのです。

​ 言葉と​パンに​おいて、​聖体と​祈りに​おいて、​キリストと​交わらなければなりません。​私たちの​傍に​本当に​生きている​友と​して、​キリストと​交わるのです。​それは​キリストが​復活な​さったからです。​ヘブライ人への​手紙にも​ある​通り、​キリストは​「永遠に​生きているので、​変わる​ことの​ない​祭司職を​持っておられるのです。​それで​また、​この方は​常に​生きていて、​人々の​ために​執り成しておられるので、​御自分を​通して​神に​近づく​人たちを、​完全に​救うことが​おできに​なります」39。

​ キリスト、​復活された​キリストは​同僚で​あり友です。​陰の​間に​しか​見えない友ですが、​その​実在に​よって​私たちの​全生活は​充実し、​来世に​至るまで​友であって​ほしいと​思う、​そのような​友なのです。​「“霊”と​花嫁とが​言う。​『来てください』。​これを​聞く​者も​言うが​よい、​『来てください』と。​渇いている​者は​来るが​よい。​命の​水が​欲しい​者は、​価なしに​飲むが​よい。​すべてを​証しする​方が、​言われる。​『然り、​わたしは​すぐに​来る』。​アーメン、​主イエスよ、​来てください」40。

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