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キリスト信者は、​洗礼に​よって​キリストに​接ぎ木され、​堅信に​よって​キリストの​ために​戦う​力が​与えられます。​また、​キリストの​司祭・預言者・王と​しての​使命に​参与する​ことに​よって​社会で​働くように​召され、​一致と​愛の​秘跡である​聖体に​よって​キリストと​ひとつに​なった​ことを​知っています。​従って、​キリストのように、​周囲の​人々​一人​ひとりを、また​人類全体を、​愛の​眼差しで​眺め、​人々の​ためを​考えながら​生きなければならないのです。

​ 信仰に​よって、​キリストを​神と​して​認め、​救い​主と​して​考え、​キリストと​同じように​行動すれば、​キリストに​一致する​ことができます。​復活された​お方は、​ご自分の​傷口を​示して​使徒聖トマの​疑いを​はらし、​叫ばれました。​「わたしを​見たから​信じたのか。​見ないのに​信じる​人は、​幸いである」15。​この​言葉に​ついて、​大聖グレゴリオは​次のように​述べています。​「ここでは、​特に​私たちの​ことを​指しているのだ。​その御体を​見たこともない​お方を​私たちは​霊的に​所有しているからである。​私たちの​ことを​指しては​いるが、​ただし、​私たちの​行いと​信仰が​一致している​場合に​限っての​ことである。​信じている​ことを​実際に​行いと​して​表さないと​すれば、​本当に​信じているとは​言えない。​口先でしか​信仰を​表さない​人々の​ことを​聖パウロは​次のように​言っている。​『神を​知っていると​言うが、​その​行いに​よって​神を​否定している』」16。

​ 神で​あり人である​キリストと、​その​救い​主と​しての​使命を​別々に​考える​ことは​できません。​み言葉は​人と​なり、​この​世に​来られましたが、​それは​「すべての​人を​救う」1​7ためでした。​個人的な​惨めさや​限界が​あったとしても、​私たちは​すべての​人々に​奉仕するように​召された​もう​一人の​キリスト、​キリスト自身なのです。

​ 新しい​愛の​掟は、​いつに​なっても​何度でも​繰り返し響き渡らなければなりません。​ヨハネが​書き送っています。​「愛する​者たち、​わたしが​あなたが​たに​書いているのは、​新しい​掟ではなく、​あなたが​たが​初めから​受けていた​古い掟です。​この​古い​掟とは、​あなたが​たが​既に​聞いた​ことの​ある​言葉です。​しかし、​わたしは​新しい​掟と​して​書いています。​その​ことは、​イエスに​とっても​あなたが​たに​とっても​真実です。​闇が​去って、​既に​まことの​光が​輝いているからです。​『光の​中に​いる』と​言いながら、​兄弟を​憎む者は、​今も​な​お闇の​中に​います。​兄弟を​愛する​人は、​いつも​光の​中に​おり、​その​人には​つまずきが​ありません」​18。

​ 全人​類に、​平和と​福音と​生命を​もたら​すために​主は​来られました。​金持ちの​ためだけではなく、​貧しい​人々の​ためだけでもありません。​賢い​人々の​ためだけではなく、​素朴な​人々の​ためだけでもありません。​兄弟である​全人​類の​ために​来られたのです。​私たちは​皆、​同じ父である​神の​子ですから​兄弟なのです。​従って、​神の​子と​いう​人種だけしか​存在しないのです。​肌の​色も​同じく、​神の​子の​肌色しか​ありません。​言葉も​一つだけで、​それは​心に​無言の​うちに​語りかけ、​神に​ついて​教え、​互いに​愛し合うようにさせる​言葉の​ことです。

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