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キリストの​熱意に​無関係な​ものは​何も​ありません。​神学的に​説明するならば、​ひとたび、​神のみ​言葉・​キリストが​人々の​中に​降り、​飢えと​渇きを​おぼえ、​自ら​労働し、​友情や​従順を​学び、​苦しみと​死を​経験されて以来、​厳密に​言って、​善良な​こと、​気高い​こと、​あるいは​善でも​悪でもない​ことで​さえ、​神とは​全く​無関係であるとは​断言できなくなりました。​「神は、​御心のままに、​満ちあ​ふれる​ものを​余す​ところなく​御子の​内に​宿らせ、​その​十字架の​血に​よって​平和を​打ち立て、​地に​ある​ものであれ、​天に​ある​ものであれ、​万物を​ただ御子に​よって、​御自分と​和解させられ」​31たからなのです。

​ 私たちは、​社会も​仕事も​人生の​出来事を​も愛さなければなりません。​この​世は​良い​ものですから。​しかし、​アダムの​罪は​創られた​ものの​神的調和を​乱してしまいました。​そこで、​父である​神は​平和を​取り戻すために​独り子を​お遣わしに​なりました。​神の​養子に​なった​私たちを、​被造界の​無秩序から​解放し、​すべてを​神と​和睦させる​ためだったのです。

​ 一所​懸命に​生き、​キリストの​精神を​実現する​ことができるよう唯一の​召し出しに​よって、​私たちは​さまざまな​状況に​置かれますが、​この​各瞬間の​状況は​一度​限りで、​二度と​経験する​ことのできない​ものです。​同僚の​間で、​どこと​言って​変わった​ところが​ないながらも、​信仰に​一致した​毎日を​送るならば、​私たちは​〈人々の​うちに​おられる​キリスト〉に​なる​ことでしょう。

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