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次いで、​聖書の​書簡と​福音書に​耳を​傾けます。​書簡と​福音書朗読は、​私たちが​理性で​悟り観想し、​意志が​強められ、​教えを​実行に​移すようにと​人間の​言葉で​語りかけてくださる​聖霊の​光です。​私たちは​唯一の​信仰、​クレド(使徒信条)を​告白する​一つの​民、​「御父と​御子と​聖霊との​一致に​おいて​集められた​民」​22だからです。

​ 続いて、​奉献に​入り、​人々の​パンとぶどう​酒を​捧げます。​供え物は​さほど​値打ちの​ある​ものでは​ありませんが、​祈りと​一緒に​捧げます。​「神よ、​悔い​改める​わたしたちを、​今日、​みこころにかなういけに​えと​して​受け入れてください」、​ 再び​自分の​惨めさを​思い出し、​主に​捧げられる​ものが​すべて​清く​あって​欲しいと​いう​願いが​心に​溢れ、​「私の​手を​洗い、​(…)​主の​家の​美麗さを​愛する」と​唱えます。

​ 指を​清める​少し​前に、​その​聖なる​み名に​捧げられる​いけにえを​祝福してくださいと​聖霊に​お願い​したばかりですが、​清めが​終わると、​もう​一度、​聖三位一体に​向かいます。​「聖なる​三位一体よ、​われらの​主イエス・キリストの​受難、​復活、​昇天の​記念と​して、​また、​終生おとめである​聖マリアと​諸聖人の​光栄の​ために、​われらの​捧げ奉る​ものを​受け入れてください」。

​ 司祭は​「兄弟たちよ、​祈れ」を​唱えて、​この​捧げものを​すべての​人の​救いに​役立ててくださるように​願います。​なんと​なれば、​この​捧げ物は​私の​ものであり、​あなた方の​ものであり、​聖なる​全教会の​ものだからです。​ごミサに​あずかっている​人が​わずかであっても、​そこに​一人の​信者しかいなくても、​あるいは​司祭一人であっても、​「兄弟たちよ、​祈れ」と​唱えます。​どの​ごミサであっても、​普遍的な​犠牲、​すべての​民族と​言葉と​民と​国の​贖い​23の​ための​犠牲であるからです。

​ すべての​キリスト者は、​聖徒の​交わりに​よって​捧げられる​ごミサ​すべての​恩恵を​いただきます。​例え​何万人の​前で​捧げられた​ごミサであっても、​また、​たった​一人の​侍者、​多分気を​散らしながら​司祭を​助ける​子どもと共に​捧げた​ごミサであっても、​その​効果は​なんら​変わらないのです。​いずれの​場合にも、​天と​地は​ひとつに​なって、​主の​天使と​共に​歌うのです。​サンクトゥス、​サンクトゥス、​サンクトゥス、​「聖なるかな、​聖なるかな、​聖なるかな…」。

​ 私は​天使と​共に​神を​賛美し、​称揚します。​天使と​共に​と申しましたが、​ごミサを​捧げる​ときは​天使に​取り巻かれているのですから、​別に​難しい​ことでは​ありません。​天使は​聖三位一体を​礼拝しているのです。​そして、​聖母も​何らかの​形で​ごミサに​介入されます。​マリアは​聖三位一体と​全く​一致している​のみならず、​キリストの​御母、​キリストの​御体と​御血の​母、​完全な​神・完全な​人間である​イエス・キリストの​母だからです。​イエス・キリストは、​男性の​介入なしに​聖霊の​力に​よって、​聖母マリアの​ご胎内に​宿られ、​母マリアの​血を​お受けに​なりました。​そして​その​御血こそ、​救いの​犠牲、​つまり、​カルワリオと​ごミサで​捧げられる​御血であるからなのです。

聖書への参照
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