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キリストは​王です。​そして、​神の​子である​私たちの​心を​統治したいと​切望しておられます。​けれども、​人間の​統治を​想像しては​なりません。​キリストは​支配する​ことも​強制する​ことも​お望みでは​ありません。​キリストが​来られたのは​「仕えられる​ためではなく​仕える​ため」​25であったからです。

​ キリストの​王国とは​平和・喜び・正義の​ことです。​王である​キリストは、​空しい​理屈ではなく、​私たちの​行いを​待っておられます。​「わたしに​向かって、​『主よ、​主よ』と​言う​者が​皆、​天の​国に​入るわけではない。​わたしの​天の​父の​御心を​行う​者だけが​入るのである」26と​仰せに​なられたからです。

​ キリストは​医者ですから、​キリストの​恩恵が​心の​奥まで​注ぎ込まれるに​お任せすれば、​私たちの​利己主義を​癒してくださいます。​イエスは、​最も​悪い病は​自分の​罪を​ごまかす偽善であり、​う​ぬぼれであると​教えてくださいました。​医者には​正直に​ありのまま​すべてを​説明しなければなりません。​そして、​「主よ、​御心ならば、​わたしを​清く​する​ことが​おできに​なります」​27と​申し上げなければなりません。​御身は、​私の​弱さも​症状も​ご存じです。​こんな​弱さにも​苦しんで​おります。​そして​ごく​素直に​傷口も、​そしてもし膿が​出ていたら、​膿も​お見せしましょう。​主よ、​御身は​たくさんの​人々の​心を​癒されました。​私が​御身を​お受けする​とき、​あるいは、​聖櫃の​御身を​眺める​とき、​御身が​医者である​神である​ことを​悟らせてください。

​ キリストは、​神のみが​所有なさる​知恵の​師です。​つまり、​神を​この​上もなく​愛し、​神に​おいて​すべての​人々を​愛する​ための​知恵の​師なのです。​キリストの​学校で、​私たちの​生命は​私たちの​ものでない​ことを​学びます。​キリストは​すべての​人間の​ために​ご自分の​生命を​捧げられました。​キリストに​従うの​なら、​人々の​苦しみを​顧みずに、​自己の​内に​留まる​利己主義は​許されない​ことを​理解しなければなりません。​私たちの​生命は​神の​ものです。​それゆえ、​人々への​寛大な​心遣いを​示し、​言葉と​模範で​キリスト教の​教えの​深さを​示し、​人々への​奉仕の​ために​挺身しなければならないのです。

​ 私たちがキリストの​知恵を​得る​望みを​増すように、​「渇いている​人は​だれでも、​わたしの​ところに​来て​飲みなさい」28と、​イエスは​繰り返し仰せに​なります。​そこで、​自分を​忘れてあなたと​すべての​人々の​ことを​考える​ことができるように​お教えくださいと、​私たちは​主に​申し上げます。​こうして​神は、​恩恵に​よって​導いてくださる​ことでしょう。​幼い頃、​先生の​手を​借りながら​幼く​拙い字を​書いたのを​憶えているでしょう。​あの​時のように​イエスは​私たちを​助けてくださるのです。​そして、​神の​もう​一つの​贈り物である​私たちの​信仰を​表す幸せが​味わえる​のみならず、​キリスト教的な​振舞いと​いう​しっかりと​した​文字を​書き記すことも​できるようになり、​人々は​それを​見て​神の​働きの​素晴らしさを​読みとる​ことでしょう。

​ キリストは​唯一の​友です。​「あなたが​たを​友と​呼ぶ」​29と​主は​おっしゃっています。​友と​呼び、​ご自分から​近寄り、​私たちを​愛してくださったのです。​しかし、​愛情を​押しつけるのではなく​捧げ、​その愛の​最も​確かな​印を​お示しに​なりました。​「友の​ために​自分の​命を​捨てる​こと、​これ以上に​大きな​愛は​ない」30。​ キリストは​ラザロの​友人でした。​ラザロの​死を​悼み、​ラザロを​復活させたのです。​私たちが​冷淡に​なり意欲を​失った​とき、​あるいは​内的生活の​末期症状とも​いえる​私たちの​硬直状態を​ご覧に​なれば、​キリストは​お泣きに​なり、​その涙に​よって​私たちは​蘇る​ことでしょう。​「あなたに​言う。​起きて、​床を​とって​歩きなさい」31。​死同然の​硬直状態から​抜け出しなさい、と​言ってくださるのです。

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