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聖書が​聖母に​ついて​述べる​ところを​みると、​イエスの​後を​一歩​一歩た​どる​御母の​姿が​手にとるように​見えてきます。​聖母マリアは、​御子の​救いのみ​業に​協力し、​キリストと​共に​喜び、​共に​悲しみ、​御子の​愛する​人々を​愛し、​近くに​いる​人々皆に​母親らしい​心遣いを​示したのです。

​ カナの​婚宴の​場面を​考えてみましょう。​近くの​村々から​人々が​集まり、​賑やかに​祝う​田舎の​結婚式、​その​途中で​マリアは​ぶどう​酒が​足りないのに​気づきます6。​聖母だけが​すぐに​不足に​気づいたのです。​この​婚宴に​ついても​言えるように、​キリストの​生涯は​どの​場面を​とり上げても​親しみ深い​情景ばかりですが、​それは、​キリストに​おいて​神の​偉大さが​日常の​平凡な​生活の​中に​溶け込んでいるからでしょう。​小さな​ことにも​心が​行き​届き、​不足を​補い、​人々が​楽しく​過ごせる​よう細やかな​心遣いを​する。​これは​女性特有、​主婦特有の​徳です。​マリアも​同じように​このような​心遣いを​示す方でした。

​ カナの​婚宴に​ついて​述べるのは​ヨハネのみ、​母親らしい​マリアの​心遣いを​書き留めたのは、​ただ​一人の​福音史家だけでした。​聖ヨハネは、​わが​主の​公生活の​初めに​聖母マリアが​いた​ことを​知らせたいのです。​マリアが​おいでになったと​いう​事実の​重要性を、​聖ヨハネが​よく​理解していたと​考えられます。​イエスは、​誰に​母を​委ねるべきかを​ご存じでした。​それは​聖母を​自分の​母のように​愛する​ことを​知っていた​弟子、​聖マリアを​理解した​唯一人の​弟子ヨハネだったのです。

​ ここで、​昇天の​後で、​聖霊降臨を​待ち望んでいた​ときの​ことを​考えてみましょう。​キリストの​復活の​勝利に​よって​固い​信仰を​持つに​至った​弟子たちは、​聖霊降臨の​約束を​待ちこがれ、​みんなと​一緒に​いたいと​思っていました。​福音書を​みると、​彼らは​イエスの​母、​マリアと​共に​7いたのです。​弟子たちの​祈りが​聖マリアの​祈りに​続きます。​皆が​心を​一つに​して​続ける​家族的な​祈りに​専念していたのです。

​ このような​ことを​伝えるのは、​イエスの​幼年時代に​ついて​最も​詳しく​述べる​福音史家、​聖ルカです。​マリアが​御子の​託身​(受肉)に​あたり、​大切な​役割を​果たしたように、​キリストの​体である​教会の​始めにも、​マリアが​重要な​役目を​果たした​ことを​知らせようとしたのです。

​ 教会の​誕生以来、​人々に​示された​愛・​受肉した​〈みことば 〉に​顕れた​神の​愛を​求める​信者は​誰でも、​聖母に​出会い、​マリアの​母と​しての​心遣いを​数多く​経験してきました。​聖母は、​全キリスト信者の​母と​称されるに​真に​相応しい方です。​聖アウグスチヌスは​次のように​言っています。​「信者が​教会に​生まれる​よう、​聖母は​愛徳を​もって​キリストに​協力したが、​教会の​成員の​頭である​キリストは、​肉体的には​マリアを​母と​している」8。

​ ずっと​昔の​マリア信心が、​聖母への​深い​信頼を​込めた​祈りであったことも、​なる​ほどと​頷けます。​「天主の​聖母の​御保護に​より​すがり奉る。​いと​尊く​祝せられた​給う​童貞、​必要なる​時に​呼ばれるを​軽んじ給わず、​かえって​すべての​危きより、​常に​われらを​救い​給え。​アーメン」9。​この​祈りは、​もう​何世紀も​前に​作られ、​今な​お、​大勢の​人々に​唱えられています。

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