マリアを通ってイエスへ

1957年5月4日


五月を​迎えて​世界を​眺め、​神の​民1に​目を​注ぐと、​マリア信心に​ついて​考えざるを​得ません。​マリア信心には​古くから​伝わる​習慣と​新しく​できた​習慣が​ありますが、​いずれに​しても、​人々が​聖母への​愛を​込めて​実行してきた​習慣です。

​ 神の​家族2に​相応しい​生活を​させる​ために、​人々の​心に​超自然の​勧めを​与え続ける​生き​生きとした​マリア信心を​見ると、​心は​喜びに​満たされます。

​ 大勢の​キリスト信者が​様々な​方法で​聖マリアヘの​愛を​表す様子を​眺める​とき、​きっと​皆さん方も、​自分は​教会の​一員で​あり​人々の​兄弟である​ことを​いっそう​強く​感じる​ことでしょう。​ちょうど、​故郷を​離れて過ごす、​今は​大きくなった​子ども​たちが、​祝日を​利用して​母のもとに​戻る​ときの​家族の​集いに​似た​雰囲気が​あるからです。​幼い頃は​兄弟喧嘩を​し、​意地悪い態度を​とることも​あったのですが、​その​日には、​一つに​結ばれた​家族の​愛を​ひとしお強く​感じるのです。

​ マリアは​常に​教会を​導き、​教会が​しっかりと​一致しているよう助けてくださいます。​従って、​マリア信心を​持っているなら​当然、​神秘体の​他の​成員や​教会の​可視的頭である​教皇に​一致しているはずでしょう。​そこで​私は、​「すべて、​ペトロと​共に、​マリアを​通して​イエスヘ」と​折に​触れて​繰り返します。​教会の​一員である​自らを​知り、​信仰に​おける​兄弟たちとの​結び​つきを​自覚すれば、​私たちと​人類全体を​結びつける​兄弟愛の​本当の​意味が​よく​理解できます。​なぜなら​教会は、​全人類・諸国民3の​ために​キリストが​お遣わしに​なった​ものだからです。

​ 以上​述べた​ことは​私たち全員の​経験であると​思います。​マリアに​対する​心からの​信心が​超自然の​効果を​与えるのを​確認しなかった​人は​いないでしょうから。​どなたでも​このような​経験に​ついて​話すことがたくさん​おありでしょう。​私も​一九三三年、​マリア像を​安置する、​カスティーリャ地方の​ソンソーレスと​いう​所へ​巡礼に​行った​ことを​思い出します。

​ その​ときは、​よく​見られるような​仰々しく​多人数の​団体ではなく、​たった​三人で​巡礼に​行きました。​公に​行われる​信心の​行為は、​愛と​尊厳を​受けるに​値する​ものですが、​私と​しては、​一人か、​あるいは​少人数で、​公の​場合と​同じ​愛と​熱心を​聖母マリアに​捧げる​巡礼の​方を​好みます。

​ ソンソーレスに​巡礼した​とき、​初めて、​なぜソンソーレスの​マリアと​称するかが​わかりました。​さほど​大切とは​言えませんが、​その​名には​マリアに​対する、​人々の​子どもと​しての​愛情が​よく​表れているのです。​その地で​大切に​されていた​マリア像は、​キリスト信者と​回教徒との​戦いの​間、​しばらく​隠されていました。​言い​伝えに​よると、​何年か​経って、​羊飼いた​ちが​この​ご像を​見つけ、​「なんと​美しい​目だろう。​ソン ソーレス(まるで​太陽の​ようだ)」と​叫んだと​いうのです。

キリストの​母・信者の​母

 一九三三年以来​何度も​何度も、​マリアに​献げられた​巡礼地を​訪問しましたが、​その​度に、​数多くの​信者が​イエスの​母に​抱く​愛情を​確認する​ことができました。​そして、​聖母に​対して​示す​その​愛情は、​マリアの​私たちへの​愛に​応える​心であり、​マリアに​対する​子と​しての​感謝の​しるしだと​考えます。​み言葉は​人となられ、​人間の​惨めさと​罪を​背負ってくださいましたが、​聖母マリアは​この、​神の​最大の​愛の​顕れである​託身​(受肉)に、​強く​結び​ついているのです。​神から​受けた​使命に​忠実な​マリアは、​御子イエスの​兄弟と​なるように​召されている​すべての​人々への​奉仕に、​今も​昔も​常に​働き続けているのです。​神の​母は、​今や​実際に、​私たち信者の​母でもあります。

​ 聖母は​信者の​母である、​主が​このように​定めてくださったのです。​そして​聖霊は、​この​事実が​代々に​伝えられる​よう​お望みに​なりました。​「イエスの​十字架の​そばには、​その母と​母の​姉妹、​クロパの​妻マリアと​マグダラの​マリアとが​立っていた。​イエスは、​母と​その​そばに​いる​愛する​弟子とを​見て、​母に、​『婦人よ、​御覧なさい。​あなたの子です』と​言われた。​それから​弟子に​言われた。​『見なさい。​あなたの母です』。​その​ときから、​この​弟子は​イエスの​母を​自分の​家に​引き取った」4。

​ イエスの​愛する​弟子は​聖マリアを​引きとり、​共に​生活を​始めました。​霊的著者は、​聖書の​この​言葉に​よって​すべての​信者が​聖マリアを​自己の​生活に​迎え入れる​よう​招かれている、と​解釈してきました。​考えように​よって、​このような​説明は​余分とも​言えるでしょう。​確かに​聖母は、​私たちが​聖母に​より​すがり呼び求め、​信頼の​心を​込めて​近づき​「母である​ことを​お示しください」5と​願う​よう​お望みなのです。

​ ところが、​実際には​願う​必要さえないとも​言えます。​願う​前に​私たちの​必要を​充たしてくださる​母であるからです。​私たちの​必要を​ご存じで、​助けに​馳せつけ、​いつも​私たち子どもの​ことを​考える​のみではなく、​行いを​もって​愛を​示してくださいます。​各々​自己の​生活を​振り返り、​いかに​多く​神の​慈しみを​受けているかを​考えると、​ほんとうに​聖母の​子である​自分を​知る​機会が​数多く​見つかる​ことでしょう。

聖書が​聖母に​ついて​述べる​ところを​みると、​イエスの​後を​一歩​一歩た​どる​御母の​姿が​手にとるように​見えてきます。​聖母マリアは、​御子の​救いのみ​業に​協力し、​キリストと​共に​喜び、​共に​悲しみ、​御子の​愛する​人々を​愛し、​近くに​いる​人々皆に​母親らしい​心遣いを​示したのです。

​ カナの​婚宴の​場面を​考えてみましょう。​近くの​村々から​人々が​集まり、​賑やかに​祝う​田舎の​結婚式、​その​途中で​マリアは​ぶどう​酒が​足りないのに​気づきます6。​聖母だけが​すぐに​不足に​気づいたのです。​この​婚宴に​ついても​言えるように、​キリストの​生涯は​どの​場面を​とり上げても​親しみ深い​情景ばかりですが、​それは、​キリストに​おいて​神の​偉大さが​日常の​平凡な​生活の​中に​溶け込んでいるからでしょう。​小さな​ことにも​心が​行き​届き、​不足を​補い、​人々が​楽しく​過ごせる​よう細やかな​心遣いを​する。​これは​女性特有、​主婦特有の​徳です。​マリアも​同じように​このような​心遣いを​示す方でした。

​ カナの​婚宴に​ついて​述べるのは​ヨハネのみ、​母親らしい​マリアの​心遣いを​書き留めたのは、​ただ​一人の​福音史家だけでした。​聖ヨハネは、​わが​主の​公生活の​初めに​聖母マリアが​いた​ことを​知らせたいのです。​マリアが​おいでになったと​いう​事実の​重要性を、​聖ヨハネが​よく​理解していたと​考えられます。​イエスは、​誰に​母を​委ねるべきかを​ご存じでした。​それは​聖母を​自分の​母のように​愛する​ことを​知っていた​弟子、​聖マリアを​理解した​唯一人の​弟子ヨハネだったのです。

​ ここで、​昇天の​後で、​聖霊降臨を​待ち望んでいた​ときの​ことを​考えてみましょう。​キリストの​復活の​勝利に​よって​固い​信仰を​持つに​至った​弟子たちは、​聖霊降臨の​約束を​待ちこがれ、​みんなと​一緒に​いたいと​思っていました。​福音書を​みると、​彼らは​イエスの​母、​マリアと​共に​7いたのです。​弟子たちの​祈りが​聖マリアの​祈りに​続きます。​皆が​心を​一つに​して​続ける​家族的な​祈りに​専念していたのです。

​ このような​ことを​伝えるのは、​イエスの​幼年時代に​ついて​最も​詳しく​述べる​福音史家、​聖ルカです。​マリアが​御子の​託身​(受肉)に​あたり、​大切な​役割を​果たしたように、​キリストの​体である​教会の​始めにも、​マリアが​重要な​役目を​果たした​ことを​知らせようとしたのです。

​ 教会の​誕生以来、​人々に​示された​愛・​受肉した​〈みことば 〉に​顕れた​神の​愛を​求める​信者は​誰でも、​聖母に​出会い、​マリアの​母と​しての​心遣いを​数多く​経験してきました。​聖母は、​全キリスト信者の​母と​称されるに​真に​相応しい方です。​聖アウグスチヌスは​次のように​言っています。​「信者が​教会に​生まれる​よう、​聖母は​愛徳を​もって​キリストに​協力したが、​教会の​成員の​頭である​キリストは、​肉体的には​マリアを​母と​している」8。

​ ずっと​昔の​マリア信心が、​聖母への​深い​信頼を​込めた​祈りであったことも、​なる​ほどと​頷けます。​「天主の​聖母の​御保護に​より​すがり奉る。​いと​尊く​祝せられた​給う​童貞、​必要なる​時に​呼ばれるを​軽んじ給わず、​かえって​すべての​危きより、​常に​われらを​救い​給え。​アーメン」9。​この​祈りは、​もう​何世紀も​前に​作られ、​今な​お、​大勢の​人々に​唱えられています。

マリアとの​交わり

 ​私たちの​母でも​ある​神の​母に​近づく​望みが、​自然に​心の​中に​湧いてきます。​聖母は​死に​打ち勝ち、​霊魂と​肉体ともに、​神である​御父と神である​御子、​神である​聖霊の​傍らに​おいでになります。​従って、​生きている​人々に​対すると​同じように、​聖母に​近づく​ことができるのです。

​ 〈神の​母の​秘義〉、​到底知り尽く​すことのできない​ほど​豊かな​内容を​持っていますが、​事細かに​研究を​しなくても、​信者の​生活に​おける​マリアの​役割を​理解する​ことは​でき、​聖母に​心惹かれ、​母を​愛する​子と​して​聖母の​優しい​付き添いを​望むものだと​思います。

​ カトリックの​信仰は、​マリアが​神の​特別の​寵愛を​受けている​ことを​認めてきました。​今や​私たちは​神の​友と​称され、​恩恵の​働きを​受け、​罪に​よる​死から​蘇り、​力を​得た​結果、​惨めな​塵に​すぎない​私たちに​固有な​弱さを​乗り越えて、​キリストの​面影さえ映しだすことができるようになったのです。​私たちは​神の​救いを​約束された​遭難者であると​言うより、​すでに​救われた​者と​言えます。​暗闇の​苦しさを​嘆いて​光を​切望する​盲目ではなく、​神に​愛されている​ことを​知る​子ども、​これが​私たちの​姿なのです。

​ マリアが​教えるのは、​このような​親愛の​情、​信頼、​安心感であります。​だから​こそ、​マリアの​名を​耳に​するだけで、​心が​一杯に​なるのです。​甘美なみ名の​聖母に​どのように​接するべきかを​知ろうと​思えば、​産みの​母と​私たちの​間柄に​思いを​馳せれば​よいでしょう。​心は​一つきりですから、​親を​愛し、​兄弟や​家族、​友人を​愛する​心で​神を​愛さなければなりませんし、​その​同じ心で​聖母とも​接しなければならないのです。

​ 普通、​子ども​たちは​母親に​対してどのような​態度を​とるのでしょうか。​いろいろ​ある​ことでしょう。​しかし​いずれの​場合も、​愛と​信頼に​溢れた​態度である​ことだけは​確かです。​愛が​あれば、​毎日の​生活の​中で​その愛を​表す方​法を​見つけていく​ものです。​冷やかな​ものでは​決してなく、​子が​母に​対して​持つべき​心遣い、​万一、​忘れるような​ことが​あれば、​母が​淋しく​思うような​日々の​小さな​心遣い、​例えば、​外出や​帰宅の​際の​挨拶、​小さな​贈り物、​心の​こもった​二言三言や、​家庭の​なかで​生まれた​温かい​習慣などを​挙げる​ことができます。

​ 天の​御母の​場合も​同じ​ことで、​子と​して​聖母に​接する​ための​信心が​あり、​それに​よって​聖母に​対する​私たちの​心を​表すことができるのです。​たとえば​多くの​信者は、​古くからの​習慣である​スカプラリオを​身に​着けています。​また、​キリスト信者の​家庭なら​どこに​でも​あり、​数多くの​街々を​飾る​マリア像、​その​マリア像に、​口には​出さなくても​心の​中で​挨拶を​送る​習慣、​あるいは​また、​同じ​ことを​何度繰り返しても​飽いてしまわない​恋人たちのように、​同じ​祈りを​何度も​唱え、​主の​生涯の​主要な​場面を​思い起こすあの​素晴らしい​ロザリオの​祈り、​さらには、​今こうして​集う​土曜日も​適切と​言えますが、​週の​うち一日を​聖母に​捧げ、​心の​こもった​贈り物を​したり、​特に​聖マリアの​母性に​ついて​黙想したりする​習慣など、​すべて​聖母に​対する​私たちの​愛の​表れなのです。

​ 今​ここで、​一つ​ひとつ挙げるまでもなく、​この​ほかにも​たくさんの​マリア信心が​あります。​ところで​超自然の​生命に​成長するとは、​必ずしも​信心の​業を​増していく​ことでは​ありませんから、​すべての​信心を​実行しなければならないと​いうわけでは​ありません。​しかし​同時に、​信心の​業を​何一つ​実行せず、​聖母に​愛を​示さない​人が、​篤い​信仰を​有するとは​決して​言えないと​申し上げなければなりません。

​ マリア信心など​古いと​考えるなら、​マリア信心が​持つ深い​キリスト的意味を​忘れてしまい、​そのような​信心が​どこから​生まれてきたかが​わかっていない​証拠だと​言えます。​母に​対する​信心は、​父である​神の​救いのみ​旨を​信じる​信仰、​真の​人間と​なり女から​生まれた​子である​神の​愛、​恩恵を​与えて​人を​聖化する​聖霊への​信頼から​生まれたからです。​マリアを​お与えに​なったのは​神ですから、​聖母に​背を​向ける​ことなどできません。​私たちは、​子である​ものの​愛と​喜びを​もって、​聖母に​寄りすがらなければならないのです。

神の​愛に​おいて​子どもになる

​ この​標題に​ついて​注意深く​考えてみましょう。​マリアの​秘義〈神秘〉を​黙想すると、​神に​近づくには​子どものようになる​必要の​ある​ことがはっきりします。​従って、​神の​愛に​おいて​子どもになると​いう​ことを​よく​考えれば、​非常に​大切な​ことを​理解するのに​役立つと​思われるのです。​主は​弟子たちに​仰せに​なりました。​「はっきり​言っておく。​心を​入れ替えて​子供のようにならなければ、​決して​天の​国に​入る​ことは​できない」10。

​ 子どものようになるとは、​傲慢と​自己満足を​捨て、​自分の​力だけでは​何も​できないと​認める​ことです。​どう​すれば​歩むことができるのか、​どう​すれば​最後まで​堅忍する​ことができるのかを​知る​ためには、​父である​神の​力と​恩恵が​必要だからです。​幼い​子どものようになるとは、​幼子のように​すべてを​委ね、​幼子のように​信じ、​幼子のように​お願い​する​ことなのです。

​ このような​ことは​すべて、​マリアに​接する​ことに​よって​学びとることができます。​聖母への​信心は、​女々しい​柔弱な​ものでは​ありません。​かえって、​自らを​超え、​主に​希望を​託すために、​深くて​完全な​信仰を​持つに​つれて、​心に​満ちる​慰めであり、​喜びであるからです。​詩編は​次のように​唱っています。​「主は​羊飼い、​わたしには​何も​欠ける​ことがない。​主は​わたしを​青草の​原に​休ませ、​憩いの​水の​ほとりに​伴い、​魂を​生き返らせてくださる。​主は​御名に​ふさわしく​わたしを​正しい​道に​導かれる。​死の​陰の​谷を​行く​ときも​わたしは​災いを​恐れない。​あなたが​わたしと​共に​いてくださる」11。

​ マリアは​母ですから、​聖母への​信心が​あれば、​子どものようになるには​何を​すべきか、​尺度なしに​愛するには​どう​すべきか、​自分の​ことしか​考えない​利己主義から​生まれる​複雑な​心を​捨て、​素直で​単純な​心を​持つには​いかに​すべきか、​私たちの​希望が​破壊される​ことは​決してないと​知り、​朗らかな​心を​保つには​何を​しなければならないかを​教わる​ことができます。​聖母への​信頼に​満ちた​愛こそ、​熱烈に​神を​愛する​道の​始まりなのです。​もう​何年も​前に、​聖なる​ロザリオの​解説の​まえが​きと​して、​今​述べたような​ことを​書きましたが、​それ以来、​私の​申し上げたことに​偽りの​ない​ことを​幾度と​なく​確認する​ことができました。​今ここで、​色々と​理由を​述べ立てて説明する​つもりは​ありませんが、​ご自分で​試していただきたいと​思います。​聖母と​親しく​交わり、​心を​打ち明けて​喜びと​悲しみを​語り、​イエスを​知りイエスに​付き従う​ことのできるよう聖母の​助けを​求めてくださいと​申し上げたいのです。

マリアを​探し求めるなら​イエスに​出会うに​違い​ありません。​そして、​権能と​威厳を​示そうと​せず、​かえって​自分を​無に​して、​僕の​身分に​なり12、​ご自分を​卑しい​ものとされた​神の​心を​少しは​理解できる​ことでしょう。​私たちを​救う​ために​不可欠の​ことだけで​満足せず、​神は​必要以上の​ことを​してくださったのです。​それゆえ​人間的な​言い方を​すれば、​神は​〈度を​過ごされた​〉と​言っても​よいでしょう。​主の​このような​業を​理解しようと​思えば、​主の​愛を​計り得る​尺度など​存在しない​こと、​つまり、​神は、​〈狂気の​沙汰〉としか​言いようの​ない​ほど​深い愛を​注ぎ、​その​ために​人間の​肉体を​とり、​罪を​担ってくださった​ことを​考える​ほかは​ないのです。

​ 神が​これほど​私たちを​愛してくださっている​ことを​知りながら、​それでもなお、​私たちが神の​愛に​夢中に​なれないのは​なぜでしょうか。​私たちの​生活を​すっかり​変えてしま​うまで、​信仰の​真理が​心に​染み透らなければならないのです。​私たちに​愛を​お示しに​なるのは、​全能なる​御方、​天地万物の​創造主、​神ご自身なのです。

​ 主は、​皆さんや​私に​関係の​ある​些細な​ことにまで​関心を​持っておられます。​そして​一人​ひとりを​名指し13で​呼んでくださるのです。​信仰のも​たら​すこのような​確信の​おかげで、​私たちは​周囲を​眺め、​すべては​以前と​変わらないままであるのに、​すべてが​異なって​見える、​そして​その​理由は、​すべてが​神の​愛の​顕れであるからだと​悟ります。

​ こうして​私たちの​生活は、​たゆま​ぬ祈りの​生活、​決して​終わる​ことの​ない​明るさと​平和、​絶え間の​ない​感謝の​生活に​変わるのです。​マリアは​歌いました。​「わたしの​魂は​主を​あがめ、​わたしの​霊は​救い主である​神を​喜びたたえます。​身分の​低い、​この​主の​は​しためにも​目を​留めてくださったからです。​今から​後、​いつの​世の​人も​わたしを​幸いな者と​言うでしょう、​力ある​方が、​わたしに​偉大な​ことを​なさいましたから」14と。

​ 私たちも​マリアに​倣い、​彼女の​祈りを​唱える​ことができます。​聖母と​同じく​私たちも、​神の​偉大さを​称え、​生きとし生ける​もの​すべてが、​私たちの​有する​幸せに​あずかって​欲しいと​願うのです。

聖母に​よって​兄弟愛を​強める

​ マリアに​対しては​子どもとして​接しながら、​自分の​問題や​個人的な​ことばかりを​考えるような​ことは​できないはずです。​聖母と​親しく​交わっているのに、​利己的な​事柄のみに​携わるわけには​いかないのです。​マリアは​私たちを​イエスのもとへと​導いてくださいますが、​その​イエスは​「多くの​兄弟の​中で​長子」​15であります。​従って、​イエスを​知るとは、​他人の​ために​身を​挺して​働かなければ​私たちの​一生も​無意味に​等しい​ことを​悟る​ことです。​キリスト信者なら、​教会全体の​ことを​考え、​すべての​人々の​救いの​ために​生活しなければなりませんから、​個人的な​問題だけに​手間​取っている​わけには​いかないはずです。

​ このように​考えると、​内的生活向上のように、​およそ​個人的・​私的と​思われる​事柄で​さえ、​実は​個人的な​範囲に​留まらない​問題である​ことが​わかります。​なぜなら、​聖性への​努力と​使徒職とは​ひとつであるからなのです。​聖書の​教えを​自ら実行する​誠実な​努力が​なければ、​善い業を​行うことも、​キリストを​人々に​知らせる​ことも​できません。​従って、​教会全体の​善を​考え、​自己の​内的生活と​キリスト教的徳を​深める​ために​努力しなければならないのです。

​ このような​精神に​満ちた​祈りであれば、​一見した​ところ​個人的な​テーマや​決心に​始まると​しても、​最後には​いつも、​人々への​奉仕に​ついて​考える​ことに​なるでしょう。​また​マリアに​導かれて​歩むなら、​私たちが​すべての​人々の​兄弟である​ことも​実感と​して​受け取る​ことができます。​私たちは​みんな​神の​子であり、​聖母は​その神の​娘、​花嫁、​母であるからです。

​ 人々の​問題は​私たちの​問題でもあります。​キリスト教的兄弟愛が​心の​底に​しっかりと​根を​下ろし、​誰に​対しても​無関心を​装っては​なりません。​イエスを​育て、​教育し、​イエスの​地上の​生活に​付き添い、​今は​天国で​イエスと​共に​過ごすマリア ― イエスの​母は、​傍らを​お通りに​なる​イエスを​認め、​兄弟である​人々の​必要に​関心を​寄せる​ことができるよう助けてくださる​ことでしょう。

最初に​お話した​巡礼の​ときの​ことですが、​ソンソーレスの​聖母マリアの​巡礼に​向かう​途中、​麦畑の​傍を​通りました。​太陽に​照らされ、​風に​揺れる​麦、​それを​見ていると、​主が​弟子たちに​仰せに​なった​聖書の​言葉が​記憶に​よみが​えってきました。​「あなたがたは、​『刈り​入れまで​まだ​四か月も​ある』と​言っているではないか。​わたしは​言っておく。​目を​上げて​畑を​見るが​よい。​色づいて​刈り​入れを​待っている」16。​主は​ご自分の​心に​燃える​熱意と​火が​私たちの​心の​中で​燃えるように​お望みに​なっているのだ、​と​気が​ついたのです。​そして、​その​とき​気づいた​事柄を​後で​思い出す縁にしようと​思い、​道から​少し​それて、​麦の​穂を​摘み取ったのでした。

​ しっかりと​目を​開け、​瞳を​こらして​周囲を​眺め、​私たちの​まわりに​いる​人々を​通してなさる​主の​呼びかけに​気づかなければなりません。​自己の​ちっぽけな​世界に​閉じこもり、​人々に​背を​向けて​生きる​ことなどできないのです。​イエスは​そうは​なさいませんでした。​福音書には、​主が​慈悲深く、​人々の​苦しみや​困窮を​敏感に​感じとられた​ことがしばしば​書かれています。​ナインの​やもめに​同情し17、​ラザロの​死を​嘆き18、​付き従う​群衆に​食物の​持ち合わせが​ないのを​気遣ったのです19。​光も​真理も​知らず世の​中を​さまよう​人々や​罪人を​特に​哀れに​思っておられたのです。​「イエスは​舟から​上がり、​大勢の​群衆を​見て、​飼い​主の​いない​羊のような​有様を​深く​憐れみ、​いろいろと​教え​始められた」20。

​ 本当に​聖母の​子どもに​なれば、​主の​このような​行いが​理解でき、​慈しみ深く​広い心を​持つことができる​ことでしょう。​そして、​兄弟である​人々の​苦しみや​惨めさ、​過ちや​孤独、​苦悩や​苦痛を​感じとることができます。​困っている​人々を​助け、​人々が​子と​して​神に​接し、​マリアの​母親らしい​心遣いを​知る​ことができるよう、​人々に​神を​知らせなければならないと​感じるのです。

使徒の​使徒

 地の​塩と​なり光と​なって、​世界を​光で​満たす21。​主は​弟子たる​者の​使命を​このように​表現されました。​神の​愛に​ついての​良き便りを​地の​果てまでも​告げ知らせる​ために、​キリスト信者は​すべて​何らかの​方法で​貢献する​ところが​なければなりません。​付け加えて、​孤立してはならない、と申し上げましょう。​人々を​励まし、​心に​平和と​喜びを​もたら​すこの​神的使命を​果た​すべく、​力を​合わせなければならないのです。​「あなたが​たが​進歩するに​つれて、​人々を​引きつけ、​主に​向かう​旅路の​仲間を​作りたいと​望みなさい」22と​大聖グレゴリオは​言っています。

​ しかし、​「人々が​眠っている​間に」23、​毒麦を​蒔きに​やってきた、​と​主が​たとえの​中で​話しておられる​ことを​忘れては​なりません。​私たち人間は、​この​世の​諸現実の​真の​意味を​極めようと​せず、​一時的に​過ぎない​経験に​心を​奪われ、​利己的で​浅薄な​夢に​浮身を​やつす危険に​さらされています。​人間の​尊厳を​奪い、​悲しみの​奴隷に​する​このような​悪夢に​負けてはならないのです。

​ なかでも​特に​悲しみを​与える​場合を​考えてみましょう。​それは、​もっと​自己を​捧げる​ことができるにも​拘わらず、​中途半端で​満足する​信者、​神の​子と​しての​召し出しを​受け、​召し出しが​要求する​事柄を​すべて​実行する​ために​すべてを​捧げるべきであるのに、​抵抗を​試みる​信者の​ことなのです。​信仰の​賜物は​隠しておく​ためではなく、​人々の​前に​輝かせる​2​4ために​受けた​ことを​考え、​また、​今​述べたような​態度を​とれば、​この​世での​幸福も​永遠の​幸福も​失う​危険に​さらされている​ことを​思うと、​深い悲しみに​襲われてしまいます。​キリスト教的生活とは、​神の​素晴らしい​贈り物であって、​この​世でも​満足と​心の​静けさを​約束してくれますが、​その​約束が​実現されるには、​神の​賜物を​認めて​大切に​し25、​計算づくではなく、​心惜しみなく​応える​努力が​要求されるのです。

​ 悪夢に​陥っている​人々を​目覚めさせなければなりません。​人の​一生は、​豊かな​実りを​もたら​すために​与えられた​神の​賜物であって、​遊びではない​ことを​人々に​思い起こさせなければならないのです。​また、​善い​意向と​善い​望みを​持っては​いるが、​どのように​すれば​真の​キリスト信者と​しての​生活を​送る​ことができるのかを​知らずに​いる​人々に、​道を​教えなければなりません。​キリストは​私たちを​急き立てておられるのです。​皆さんの​うちの​各々が​使徒に​なるだけでなく、​使徒たちの​使徒と​なって​人々を​駆り立て、​その​人々が​イエス・キリストを​告げ知らせるよう導く​べきなのです。

では、​どのように​して​人々に​キリストを​告げ知らせる​ことができるのか、と​問う​人も​いる​ことでしょう。​私は​次のように​答えたいのです。​ごく​自然に、​単純に、​社会の​中で、​自らの​職業に​従事し、​家族の​世話を​しながら、​人々の​気高い​熱意の​実現に​協力し、​人々の​正当な​自由を​尊重しつつ、と。

​ 日常生活は​聖化され、​神の​光に​満たされる​ことができる、​つまり、​日常の​平凡な​仕事も​キリスト教的完徳を​達成する​場である​ことを、​あらゆる​身分や​社会的条件、​職業の​人々に​理解させたい、​このような​強い​望みを​神が​私の​心に​芽生えさせてくださってから、​かれこれ三十年の​歳月が​経過しました。​ここで​もう​一度、​マリアの​生涯を​黙想しながら​今​述べた​教えに​ついて​考えてみたいと​思います。

​ マリアは​生涯の​大部分を、​何億と​いう​主婦が​従事する​家族の​世話や​子どもの​養育、​家事の​やりくりの​ために​費やした​ことを​忘れては​なりません。​多くの​人々が​平凡で、​さほど​大切でないと​決めて​かかっている​些細な​事柄、​たとえば、​日常の​仕事や​親しい​人々への​細やかな​心遣い、​親戚や​友人との​話し合いや​訪問などを、​マリアは​聖化したのです。​平凡こそ祝される​べきです。​神の​愛で​満たすことができるからです。

​ なぜなら、​マリアのような​生き方が​できる​ための​秘訣は​まさに​この​愛なのです。​その​愛に​動かされた​聖母は​自分を​完全に​忘れ、​神の​お望みに​なる​ところに​留まり、​神のみ​旨を​心込めて​果た​したのです。​そうであればこそ、​マリアの​些細な​仕草に​至るまで、​取るに​足らない​どころか、​非常に​大切な​意味を​もっているのです。​私たちの​母である​マリアは​模範であり、​道であります。​私たちも、​神の​お望みに​なる​環境の​中で、​マリアのようになる​努力を​しなければなりません。

​ このような​生活を​営むならば、​たとえ、​人間に​付き物の​欠点や​限界を​有したままであっても、​地味で​平凡では​あるが​首尾一貫した​生活の​模範を​人々に​示すことができるのです。​すると​人々は、​すべてに​おいて​何ら​変わる​ところの​ない​私たちを​見、​特別な​ことは​何もないけれども​模範と​するに​足る​私たちの​生き方に​気づき、​問い​かける​ことでしょう。​なぜいつも​喜びに​溢れているのですか、​利己主義と​安逸な​生活を​しないための​力を、​どこから​汲み取るのですか、​人々を​理解し、​清らかな​社会生活を​送り、​自己を​捧げて​奉仕する​精神は​誰に​教わったのですか、と。

​ その​ときこそ、​キリスト信者と​しての​生活が​もつ​神的な​秘訣を​人々に​明かし、​神に​ついて、​そして、​キリストに​ついて、​聖霊に​ついて、​マリアに​ついて​話す好機なのです。​恩恵に​よって​私たちの​心に​与えられた​神の​〈狂気〉とも​言える​愛に​ついて、​拙いながらも​私たちの​言葉で​伝える​努力を​する​ときなのです。

聖ヨハネは、​カナの​婚宴に​おける​聖母の​素晴らしい​言葉を​書き留めています。​マリアは、​「この​人が​何か​言いつけたら、​そのとおりに​してください」26と​召し​使いたちに​言ったのです。​これこそ​私たちの​義務です。​人々を​イエスのもと​へ​連れて​行き、​人々が​自ら​「主よ、​あなたは​どなたですか」​27、​わたしが​何を​するよう​お望みですかと​問い​かけるよう、​導かなければならないのです。

​ 同僚の​中の​一人と​して​生活する​普通の​キリスト信者、​その​信者の​使徒職は​素晴らしい​カテケージスであると​言えます。​誠実で​真摯な​友情と​交際を​通して、​神を​渇望するよう​目覚めさせ、​新しい​視野を​示すのです。​前にも​触れたように、​自然に、​地味に、​行いを​伴った​信仰の​模範と、​優しいが​神の​真理に​基づく​力強い​言葉に​よって​助けなければならないのです。

​ 勇敢でなければなりません。​使徒の​元后である​聖母マリアの​助けを​信じましょう。​マリアは​母と​しての​配慮を​続けながらも、​子である​私たちが​自らの​責任を​全う​するよう​要求し導いてくださいます。​聖母に​近づき、​聖母の​生涯を​黙想する​人々は、​十字架のもとに​導かれ、​神の​御子の​模範を​直視できるのです。​そして、​キリスト信者の​名に​恥じない​生き方を​する​決心を​立てる​とき、​聖母の​執り成しを​受けて、​キリストの​弟であり妹である​私たちが、​神の​長子・キリストと​和解する​ことができるのです。

​ マリアとの​出会いに​より、​多くの​人が​心を​改め、​神に​仕える​決心を​しました。​聖母は、​神を​求める​人々の​望みを​育て、​騒ぐ​心を​さらに​騒が​せて​新しい​道・​新たな​生き方​へと​導いたのです。​「この​人の​言いつけた​とおりに​してください」と​いう​言葉は、​このように​して、​愛すべき奉献と​信者と​しての​召し出しを​生みだし、​私たちの​生活を​照らす光を​与える​ことになったのです。

​ 神の​母であり​私たちの​母である​マリアヘの​信心と​愛に​ついて、​神の​前で​黙想を​続け、​私たちの​信仰が​活気を​帯びてきた​ところで、​そろそろ​終わりにしなければなりません。​いよいよ五月に​入ります。​神の​御母との​交わりを​深める​ことに​よって、​神の​愛に​成長する​ことのできる​この機会を​逃さないようにと主は​お望みです。​日々、​聖母の​子に​相応しく、​心の​こもった​優しい​心遣いを​示したい​ものです。​たとえ小さな​思い遣りであっても、​自らの​聖性と​使徒職、​つまり​キリストが​この​世に​お与えに​なった​救いの​業に​貢献しようと​いう​大きな​望みに​成長していく​ことでしょう。

​ 「聖マリア、​私たちの​希望、​主の​は​しため、​上智の​座、​私たちの​ために​お祈りください」。

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