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マリアを​探し求めるなら​イエスに​出会うに​違い​ありません。​そして、​権能と​威厳を​示そうと​せず、​かえって​自分を​無に​して、​僕の​身分に​なり12、​ご自分を​卑しい​ものとされた​神の​心を​少しは​理解できる​ことでしょう。​私たちを​救う​ために​不可欠の​ことだけで​満足せず、​神は​必要以上の​ことを​してくださったのです。​それゆえ​人間的な​言い方を​すれば、​神は​〈度を​過ごされた​〉と​言っても​よいでしょう。​主の​このような​業を​理解しようと​思えば、​主の​愛を​計り得る​尺度など​存在しない​こと、​つまり、​神は、​〈狂気の​沙汰〉としか​言いようの​ない​ほど​深い愛を​注ぎ、​その​ために​人間の​肉体を​とり、​罪を​担ってくださった​ことを​考える​ほかは​ないのです。

​ 神が​これほど​私たちを​愛してくださっている​ことを​知りながら、​それでもなお、​私たちが神の​愛に​夢中に​なれないのは​なぜでしょうか。​私たちの​生活を​すっかり​変えてしま​うまで、​信仰の​真理が​心に​染み透らなければならないのです。​私たちに​愛を​お示しに​なるのは、​全能なる​御方、​天地万物の​創造主、​神ご自身なのです。

​ 主は、​皆さんや​私に​関係の​ある​些細な​ことにまで​関心を​持っておられます。​そして​一人​ひとりを​名指し13で​呼んでくださるのです。​信仰のも​たら​すこのような​確信の​おかげで、​私たちは​周囲を​眺め、​すべては​以前と​変わらないままであるのに、​すべてが​異なって​見える、​そして​その​理由は、​すべてが​神の​愛の​顕れであるからだと​悟ります。

​ こうして​私たちの​生活は、​たゆま​ぬ祈りの​生活、​決して​終わる​ことの​ない​明るさと​平和、​絶え間の​ない​感謝の​生活に​変わるのです。​マリアは​歌いました。​「わたしの​魂は​主を​あがめ、​わたしの​霊は​救い主である​神を​喜びたたえます。​身分の​低い、​この​主の​は​しためにも​目を​留めてくださったからです。​今から​後、​いつの​世の​人も​わたしを​幸いな者と​言うでしょう、​力ある​方が、​わたしに​偉大な​ことを​なさいましたから」14と。

​ 私たちも​マリアに​倣い、​彼女の​祈りを​唱える​ことができます。​聖母と​同じく​私たちも、​神の​偉大さを​称え、​生きとし生ける​もの​すべてが、​私たちの​有する​幸せに​あずかって​欲しいと​願うのです。

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