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聖母に​よって​兄弟愛を​強める

​ マリアに​対しては​子どもとして​接しながら、​自分の​問題や​個人的な​ことばかりを​考えるような​ことは​できないはずです。​聖母と​親しく​交わっているのに、​利己的な​事柄のみに​携わるわけには​いかないのです。​マリアは​私たちを​イエスのもとへと​導いてくださいますが、​その​イエスは​「多くの​兄弟の​中で​長子」​15であります。​従って、​イエスを​知るとは、​他人の​ために​身を​挺して​働かなければ​私たちの​一生も​無意味に​等しい​ことを​悟る​ことです。​キリスト信者なら、​教会全体の​ことを​考え、​すべての​人々の​救いの​ために​生活しなければなりませんから、​個人的な​問題だけに​手間​取っている​わけには​いかないはずです。

​ このように​考えると、​内的生活向上のように、​およそ​個人的・​私的と​思われる​事柄で​さえ、​実は​個人的な​範囲に​留まらない​問題である​ことが​わかります。​なぜなら、​聖性への​努力と​使徒職とは​ひとつであるからなのです。​聖書の​教えを​自ら実行する​誠実な​努力が​なければ、​善い業を​行うことも、​キリストを​人々に​知らせる​ことも​できません。​従って、​教会全体の​善を​考え、​自己の​内的生活と​キリスト教的徳を​深める​ために​努力しなければならないのです。

​ このような​精神に​満ちた​祈りであれば、​一見した​ところ​個人的な​テーマや​決心に​始まると​しても、​最後には​いつも、​人々への​奉仕に​ついて​考える​ことに​なるでしょう。​また​マリアに​導かれて​歩むなら、​私たちが​すべての​人々の​兄弟である​ことも​実感と​して​受け取る​ことができます。​私たちは​みんな​神の​子であり、​聖母は​その神の​娘、​花嫁、​母であるからです。

​ 人々の​問題は​私たちの​問題でもあります。​キリスト教的兄弟愛が​心の​底に​しっかりと​根を​下ろし、​誰に​対しても​無関心を​装っては​なりません。​イエスを​育て、​教育し、​イエスの​地上の​生活に​付き添い、​今は​天国で​イエスと​共に​過ごすマリア ― イエスの​母は、​傍らを​お通りに​なる​イエスを​認め、​兄弟である​人々の​必要に​関心を​寄せる​ことができるよう助けてくださる​ことでしょう。

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