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使徒の​使徒

 地の​塩と​なり光と​なって、​世界を​光で​満たす21。​主は​弟子たる​者の​使命を​このように​表現されました。​神の​愛に​ついての​良き便りを​地の​果てまでも​告げ知らせる​ために、​キリスト信者は​すべて​何らかの​方法で​貢献する​ところが​なければなりません。​付け加えて、​孤立してはならない、と申し上げましょう。​人々を​励まし、​心に​平和と​喜びを​もたら​すこの​神的使命を​果た​すべく、​力を​合わせなければならないのです。​「あなたが​たが​進歩するに​つれて、​人々を​引きつけ、​主に​向かう​旅路の​仲間を​作りたいと​望みなさい」22と​大聖グレゴリオは​言っています。

​ しかし、​「人々が​眠っている​間に」23、​毒麦を​蒔きに​やってきた、​と​主が​たとえの​中で​話しておられる​ことを​忘れては​なりません。​私たち人間は、​この​世の​諸現実の​真の​意味を​極めようと​せず、​一時的に​過ぎない​経験に​心を​奪われ、​利己的で​浅薄な​夢に​浮身を​やつす危険に​さらされています。​人間の​尊厳を​奪い、​悲しみの​奴隷に​する​このような​悪夢に​負けてはならないのです。

​ なかでも​特に​悲しみを​与える​場合を​考えてみましょう。​それは、​もっと​自己を​捧げる​ことができるにも​拘わらず、​中途半端で​満足する​信者、​神の​子と​しての​召し出しを​受け、​召し出しが​要求する​事柄を​すべて​実行する​ために​すべてを​捧げるべきであるのに、​抵抗を​試みる​信者の​ことなのです。​信仰の​賜物は​隠しておく​ためではなく、​人々の​前に​輝かせる​2​4ために​受けた​ことを​考え、​また、​今​述べたような​態度を​とれば、​この​世での​幸福も​永遠の​幸福も​失う​危険に​さらされている​ことを​思うと、​深い悲しみに​襲われてしまいます。​キリスト教的生活とは、​神の​素晴らしい​贈り物であって、​この​世でも​満足と​心の​静けさを​約束してくれますが、​その​約束が​実現されるには、​神の​賜物を​認めて​大切に​し25、​計算づくではなく、​心惜しみなく​応える​努力が​要求されるのです。

​ 悪夢に​陥っている​人々を​目覚めさせなければなりません。​人の​一生は、​豊かな​実りを​もたら​すために​与えられた​神の​賜物であって、​遊びではない​ことを​人々に​思い起こさせなければならないのです。​また、​善い​意向と​善い​望みを​持っては​いるが、​どのように​すれば​真の​キリスト信者と​しての​生活を​送る​ことができるのかを​知らずに​いる​人々に、​道を​教えなければなりません。​キリストは​私たちを​急き立てておられるのです。​皆さんの​うちの​各々が​使徒に​なるだけでなく、​使徒たちの​使徒と​なって​人々を​駆り立て、​その​人々が​イエス・キリストを​告げ知らせるよう導く​べきなのです。

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