33

信仰の​道とは​犠牲の​道です。​キリスト信者と​しての​召命は、​私たちを​置かれた​場から​引き離すものでは​ありませんが、​神を​お愛しするに​あたって​障害に​なる​ものは​全部​捨ててしまうよう​要求します。​明かりが​灯されるのは​最初だけです。​その​明かりが​星に​なり後に​太陽に​なって​ほしいと​望むのであれば、​明かりの​後に​ついて​行かなければなりません。​聖ヨハネ・クリゾストムは、​「博士たちがペルシアに​いた​ときには、​星だけしか​見えなかった。​しかし​祖国を​捨てた​とき、​正義の​太陽を​見た。​もし自分の​祖国に​留まったままであったと​すれば、​その星を​見つづける​ことは​なかったと​断言できる。​従って​私たちも​急ごうではないか。​すべてが​私たちを​妨害したとしても​幼子イエスの​家に​馳せつけよう」6と​言っています。

​し出しに​堅忍する

​ ​「『ユダヤ人の​王と​してお生まれに​なった方は、​どこに​おられますか。​わたしたちは​東方で​その方の​星を​見たので、​拝みに​来たのです』。​これを​聞いて、​ヘロデ王は​不安を​抱いた。​エルサレムの​人々も​皆、​同様であった」7。​この​情景は​今日でも​繰り返されています。​自分の​信仰に​即した​生き方を​しようと​いう、​人間的にも​真剣で、​非常に​キリスト教的な​決心を​前に​して、​また、​神の​偉大さを​前に​して、​それを​拒否したり、​憤ったり、​困惑したりする​人は​いる​ものです。​現世的で​限られた​視野に​入る​もの​以外にも​別の​現実が​ある​ことを​思いさえしない​人々であると​言えるでしょう。​そのような​人たちは、​主の​呼びかけを​聞いた​人々の​行動に​見られる​心の​寛さを​見て、​冷やかに笑ったり、​呆れたりします。​あるいは​また、​良心の​全く​自由な​決定を​妨げる​ために、​場合に​よっては、​病的とも​思われる​ほどの​努力を​するのです。

​ 神と​人々への​奉仕の​ため全生涯を​捧げようと​決心した​人に​反対する、​大衆運動とでも​呼び得る​ものに​しばしば​出合った​ことがあります。​本人の​許可なしに、​ある​人を​選んだり​選ばなかったりする​ことは​神には​できないとか、​愛なる​お方に​応じたり、​拒否したりする​ほど​完全な​自由は​人間には​ないのだと​頭から​信じ込んでいる​人たちなのです。​このように​考える​人から​見れば、​超自然的生活などは​二義的な​ものになってしまいます。​僅かの​利益や​人間的な​利己主義が​満たされた​後ならば、​注目する​価値が​あるだろうと​彼らは​考えるのです。​仮に​そうだと​すれば、​一体​キリスト教には​何が​残るでしょうか。​愛が​こもっていると​同時に​厳しい​イエスの​言葉は、​聞く​ためだけに​あるのでしょうか。​それとも​聞いて​実行に​移すための​ものでしょうか。​「あなたが​たの天の​父が​完全で​あられるように、​あなたが​たも​完全な​者と​なりなさい」8と​主は​言っておられます。

​ 主は​すべての​人々に​向かって、​ご自分との​出会いを​求めるように、​聖人に​なるようにと​語りかけておられます。​賢人であり、​権力も​あった​博士たちだけを​お呼びに​なったのでは​ありません。​その前に、​ベトレヘムの​羊飼いたちに、​星ではなく、​天使を​お遣わしに​なったのです9。​とは​言え、​貧しい​人も​富んだ​人も、​賢人も​あまり​賢人でない​人も、​神の​言葉を​受け入れる​ための​心づもりを​しなければなりません。

​ ヘロデの​場合を​考えてみましょう。​彼は​地上の​権力者であったので、​博士たちの​協力を​利用する​ことができました。​「王は​民の​祭司長たちや​律法学者たちを​皆集めて、​メシアは​どこに​生まれる​ことになっているのかと​問いただした」10。​ 権力や​知識は​ありましたが、​神を​知るには​役立ちませんでした。​心は​石のように​固くなり、​権力や​知識は、​神を​抹殺すると​いう​空しい​望みや、​一握りの​罪なき嬰児の​生命を​軽視するなどの​悪を​働く​道具に​なりさがったのです。

​ 聖書を​もう​少し​続けましょう。​「彼らは​言った。​『ユダヤの​ベツレヘムです。​預言者が​こう​書いています。​“ユダの​地、​ベツレヘムよ、​お前は​ユダの​指導者たちの​中で​決していちばん​小さい​ものではない。​お前から​指導者が​現れ、​わたしの​民イスラエルの​牧者と​なるからである​”』」11。​世界を​救おうと​する​お方は​一寒村で​お生まれに​なると​いう、​神の​御憐れみの​心から​出る​小さな​事実を​見逃す​ことは​できません。​聖書の​中で​執拗な​ほど​繰り返されているように、​神は​人を​えこひいきなさらないのです12。​信仰に​完全に​即した​生活を​送るように​ある​人を​お招きに​なる​とき、​財産が​あるかないか、​高貴な​家柄か​どうか、​あるいは​学識が​深いか​どうか、​などを​問題には​されません。​召命は​それら​すべてに​優る​ものだからです。​「東方で​見た​星が​先立って​進み、​ついに​幼子の​いる​場所の​上に​止まった」13。

​ まず、​神が​呼びかけてくださいます。​神は​私たちが神に​向か​おうと​する​前から​愛してくださり、​主に​応える​ことができる​ための​愛を​私たちに​お与えに​なるのです。​神は​父の​心を​もって​迎えに​来てくださいます14。​主は​正義の​お方でありますが、​それより​むしろ、​憐れみ深い方です。​私たちを​待っておられるのではなく、​父親らしい​愛を​はっきりと​示して​神の​方から​先に​迎えに​来てくださるのです。

この点を別の言語で