主の公現

1956年1月6日 主の公現の祝日


少し​前に、​博士たちが神の​御子を​礼拝する​場面を​表した​大理石の​浮彫細工に​見とれた​ことがあります。​その​彫刻の​まわりには​王冠・十字架をのせた​地球・剣・王笏などの​象徴を​それぞれ​手に​した​四位の​天使が​刻まれていました。​今日祝おうと​している​出来事を、​よく​知られている​しるしを​用いて、​このように​浮彫で​表現して​あったのです。​言い​伝えに​よれば、​王であったと​言われている​賢人たちは、​エルサレムで​「ユダヤ人の​王と​してお生まれに​なった方は、​どこに​おられますか」1と​尋ね、​御子の​前に​来て​ひざまずいたのでした。

​ 私も​今、​この​問いに​急き立てられて、​全く​家畜だけの​場所に​すぎない​「飼い​葉桶の​中に​寝ている」​2イエスに​想いを​巡らせています。​主よ、​御身の​王冠や剣、​王笏など、​王の​尊厳を​表す道具は​どこに​あるのですか。​それらは​御身の​ものであるのに​持つことを​お望みに​なりません。​御身は​布に​包まれたままで​お治めに​なるからです。​身を​守る​ものを​何も​持たない​素手の​王です。​幼子なのです。​「自分を​無に​して、​僕の​身分に​なり」3と​いう​使徒の​言葉を​思い出さないわけには​いきません。

​ 私たちの​主は、​御父のみ​旨を​人々に​示すために、​人間の​体を​おとりに​なりました。​そして、​ゆりかごの​中に​いる​ときから​教えを​説かれるのです。​救霊のみ​業に​参与させる​ために、​イエス・キリストは​私たちを​求め、​聖化への​召し出しを​与えてくださるのです。​イエスの​最初の​教えを​考えてみましょう。​隣人に​対して​勝利を​得るのではなく、​己に​打ち​勝つ努力を​続けて、​主と​共に​人々を​救わなければならないと​教えておられます。​人々を​神の​許へ​導いていくには、​キリストのように​己を​空しくし、​人々の​僕に​なるべきだと​言っておられるのです。

​ 王は​どこに​おられますか。​イエスは​何にもまして​心を、​あなたの心を​治めたいと​望んで​おられるのではないでしょうか。​その​ために​子どもになられたのです。​幼子を​愛さない​人が​いるでしょうか。​王は​どこに​おられますか。​聖霊が​私たちの​心に​形づくろうと​する​キリストは​どこに​おられるのでしょうか。​神から​遠ざかるもとになる​傲慢な​心にも、​私たちを​孤立させるもとになる​愛徳の​不足した​ところにも、​キリストは​おいでになりません。​そのような​ところには、​孤独な​人間が​いる​のみで、​キリストは​おいでにならないのです。

​ ご公現の​祝日、​外見上は​王の​尊厳を​何も​持っておられない王・幼子イエスの​足もとで、​次のように​申し上げましょう。​主よ、​私から​傲慢を​取り除いてください。​自己を​主張して​他人に​自分を​押しつける​私の​自愛心を​踏みに​じってください。​私の​人格の​基礎を​御身との​一致に​おくことができますように。

信仰の​道

 キリストとの​一致と​いう​目標は​簡単には​達成できません。​けれども、もし、​主が​お教えくださったように、​主が​私たちの​食物と​して​残してくださった​ご聖体の​秘跡を​生活の​糧とし、​聖書を​ひもとく​毎日を​過ごすならば、​さほど​難しい​ことでは​ありません。​私の​郷里の​古い​民謡に​あるように、​キリスト信者の​道とは、​歩み続ける​ことなのです。​神は​私たちを​間違いなく​確かに​お呼びに​なりました。​博士たちのように​私たちも、​霊魂の​空に、​星と​光と​行先を​見つけたのです。

​ ​「わたしたちは​東方で​その方の​星を​見たので、​拝みに​来たのです」4。​これは​まさしく​私たちの​経験です。​心の​中に​新しい​光が​少しずつ​輝き​はじめるのに​気づきました。​新しい​光とは​完全な​キリスト信者に​なりたいと​いう​望み、​敢えて​言うならば、​神を​真剣に​受けと​めたいと​いう​切望です。​もし皆さん方が​それぞれ、​超自然的召命に​応えるに​至った​経緯を​お話しに​なれば、​人々は、​確かに​それは​神からの​ものであったと​判断する​ことでしょう。​父である​神、​子である​神、​聖霊なる神、​そして​天から​降る​すべての​祝福の​仲介者である​聖母マリアに、​この​賜物に​対する​感謝を​捧げましょう。​この​賜物は、​信仰の​恵み同様、​主が​人間に​お与えに​なる​ものの​うちで​最も​大きな​賜物です。​それは​また、​専門職や​社会的任務に​従事していても​聖化は​可能であるばかりでなく、​必要であるとの​確信を​伴った​熱意、​完全な​愛徳に​達したいと​いう​非常にはっきりした​熱意の​ことなのです。

​ なんと​丁寧に​主が​お招きくださるかを​考えてみましょう。​人間の​言葉を​使って​まるで​恋人のように​囁いておられます。​「あなたは​わたしの​もの。​わたしは​あなたの名を​呼ぶ」5と。​美であり、​偉大な​御方、​知識である​神は、​私たちが神の​ものであり、​神の​無限の​愛の​対象に​選ばれた​ことを​知らせてくださっています。​神の​摂理に​よって​私たちの​手の​中に​置かれた​素晴らしい​賜物を​失わないためには、​しっかりと​した​信仰生活が​必要です。​砂漠も​嵐も​オアシスでの​安らぎも、​永遠の​ベトレヘムに​向かう​努力、​つまり​神との​最終的な​一致に​向かう​努力の​妨げには​ならないと​いう​深い​確信、​博士たちのような​信仰が​必要なのです。

信仰の​道とは​犠牲の​道です。​キリスト信者と​しての​召命は、​私たちを​置かれた​場から​引き離すものでは​ありませんが、​神を​お愛しするに​あたって​障害に​なる​ものは​全部​捨ててしまうよう​要求します。​明かりが​灯されるのは​最初だけです。​その​明かりが​星に​なり後に​太陽に​なって​ほしいと​望むのであれば、​明かりの​後に​ついて​行かなければなりません。​聖ヨハネ・クリゾストムは、​「博士たちがペルシアに​いた​ときには、​星だけしか​見えなかった。​しかし​祖国を​捨てた​とき、​正義の​太陽を​見た。​もし自分の​祖国に​留まったままであったと​すれば、​その星を​見つづける​ことは​なかったと​断言できる。​従って​私たちも​急ごうではないか。​すべてが​私たちを​妨害したとしても​幼子イエスの​家に​馳せつけよう」6と​言っています。

​し出しに​堅忍する

​ ​「『ユダヤ人の​王と​してお生まれに​なった方は、​どこに​おられますか。​わたしたちは​東方で​その方の​星を​見たので、​拝みに​来たのです』。​これを​聞いて、​ヘロデ王は​不安を​抱いた。​エルサレムの​人々も​皆、​同様であった」7。​この​情景は​今日でも​繰り返されています。​自分の​信仰に​即した​生き方を​しようと​いう、​人間的にも​真剣で、​非常に​キリスト教的な​決心を​前に​して、​また、​神の​偉大さを​前に​して、​それを​拒否したり、​憤ったり、​困惑したりする​人は​いる​ものです。​現世的で​限られた​視野に​入る​もの​以外にも​別の​現実が​ある​ことを​思いさえしない​人々であると​言えるでしょう。​そのような​人たちは、​主の​呼びかけを​聞いた​人々の​行動に​見られる​心の​寛さを​見て、​冷やかに笑ったり、​呆れたりします。​あるいは​また、​良心の​全く​自由な​決定を​妨げる​ために、​場合に​よっては、​病的とも​思われる​ほどの​努力を​するのです。

​ 神と​人々への​奉仕の​ため全生涯を​捧げようと​決心した​人に​反対する、​大衆運動とでも​呼び得る​ものに​しばしば​出合った​ことがあります。​本人の​許可なしに、​ある​人を​選んだり​選ばなかったりする​ことは​神には​できないとか、​愛なる​お方に​応じたり、​拒否したりする​ほど​完全な​自由は​人間には​ないのだと​頭から​信じ込んでいる​人たちなのです。​このように​考える​人から​見れば、​超自然的生活などは​二義的な​ものになってしまいます。​僅かの​利益や​人間的な​利己主義が​満たされた​後ならば、​注目する​価値が​あるだろうと​彼らは​考えるのです。​仮に​そうだと​すれば、​一体​キリスト教には​何が​残るでしょうか。​愛が​こもっていると​同時に​厳しい​イエスの​言葉は、​聞く​ためだけに​あるのでしょうか。​それとも​聞いて​実行に​移すための​ものでしょうか。​「あなたが​たの天の​父が​完全で​あられるように、​あなたが​たも​完全な​者と​なりなさい」8と​主は​言っておられます。

​ 主は​すべての​人々に​向かって、​ご自分との​出会いを​求めるように、​聖人に​なるようにと​語りかけておられます。​賢人であり、​権力も​あった​博士たちだけを​お呼びに​なったのでは​ありません。​その前に、​ベトレヘムの​羊飼いたちに、​星ではなく、​天使を​お遣わしに​なったのです9。​とは​言え、​貧しい​人も​富んだ​人も、​賢人も​あまり​賢人でない​人も、​神の​言葉を​受け入れる​ための​心づもりを​しなければなりません。

​ ヘロデの​場合を​考えてみましょう。​彼は​地上の​権力者であったので、​博士たちの​協力を​利用する​ことができました。​「王は​民の​祭司長たちや​律法学者たちを​皆集めて、​メシアは​どこに​生まれる​ことになっているのかと​問いただした」10。​ 権力や​知識は​ありましたが、​神を​知るには​役立ちませんでした。​心は​石のように​固くなり、​権力や​知識は、​神を​抹殺すると​いう​空しい​望みや、​一握りの​罪なき嬰児の​生命を​軽視するなどの​悪を​働く​道具に​なりさがったのです。

​ 聖書を​もう​少し​続けましょう。​「彼らは​言った。​『ユダヤの​ベツレヘムです。​預言者が​こう​書いています。​“ユダの​地、​ベツレヘムよ、​お前は​ユダの​指導者たちの​中で​決していちばん​小さい​ものではない。​お前から​指導者が​現れ、​わたしの​民イスラエルの​牧者と​なるからである​”』」11。​世界を​救おうと​する​お方は​一寒村で​お生まれに​なると​いう、​神の​御憐れみの​心から​出る​小さな​事実を​見逃す​ことは​できません。​聖書の​中で​執拗な​ほど​繰り返されているように、​神は​人を​えこひいきなさらないのです12。​信仰に​完全に​即した​生活を​送るように​ある​人を​お招きに​なる​とき、​財産が​あるかないか、​高貴な​家柄か​どうか、​あるいは​学識が​深いか​どうか、​などを​問題には​されません。​召命は​それら​すべてに​優る​ものだからです。​「東方で​見た​星が​先立って​進み、​ついに​幼子の​いる​場所の​上に​止まった」13。

​ まず、​神が​呼びかけてくださいます。​神は​私たちが神に​向か​おうと​する​前から​愛してくださり、​主に​応える​ことができる​ための​愛を​私たちに​お与えに​なるのです。​神は​父の​心を​もって​迎えに​来てくださいます14。​主は​正義の​お方でありますが、​それより​むしろ、​憐れみ深い方です。​私たちを​待っておられるのではなく、​父親らしい​愛を​はっきりと​示して​神の​方から​先に​迎えに​来てくださるのです。

よき牧者、​よき指導者

 ​私たちを​神の​愛の​道に​導き入れる​ために、​まず神が​呼びかけてくださり、​星が​先に​立って​道を​照らしてくれるのに、​時に​それが​隠れて​見えなくなったからと​いって、​疑う​ことは​道理にかないません。​博士たちの​旅の​間に​起こったように、​星が​消えてしまう​ことは​私たちの​内的生活にも​起こりうる​ことですが、​大抵の​場合、​その​原因は​私たちに​あります。​私たちの​召命に​示された​神の​光は​もう​わかっています。​召命が​決定的な​ものだと​いう​ことも​確信しています。​けれども​多分、​歩く​ときに​たてる​惨めさの​ほこりが、​くすんだ​雲を​つくって、​差し込む光を​さえぎる​ことがあるのです。

​ こんな​時、​何を​すべきでしょうか。​あの​聖なる​博士たちの​模範に​倣って、​尋ねに​行く​ことです。​ヘロデは​不当な​行動を​する​ために​知識を​利用しましたが、​博士たちは​善を​行う​ために​用いたのです。​キリスト信者は、​ヘロデや​この​世の​知識人に​尋ねる​必要が​ありません。​キリストが​教会に​確かな​教えと​秘跡の​恩恵を​くださいました。​そして​道を​教え、​導き、​その​道を​絶えず​記憶に​蘇らせてくれる​人々が​いるように​計らってくださったのです。​私たちは、​教会に​保たれている​神のみ​言葉、​秘跡を​通して​与えられる​キリストの​恩恵、​および​私たちと​共に​いて​正しく​生き、​自らの​生涯を​もって​神への​忠誠の​道を​築く​ことが​できた​人たちの​模範や​証言など​無限の​知識の​宝を​用いる​ことができます。

​ 一つ​忠告させてください。​万一明る​い光を​見失う​ことが​あれば、​いつも​善き牧者の​ところへ​行きなさい。​ところで、​善き牧者とは​誰の​ことでしょうか。​善き牧者とは、​教会の​教えに​忠誠な​人、​「門から​入る」​牧者の​ことです。​「狼が​来るのを​見ると、​羊を​捨てて​逃げ、​羊が​狼に​奪われ散らされる」に​任せる​雇い​人の​ことでは​ありません15。​神のみ​言葉は​決して​空しくない​ことがわかるでしょう。​囲い​場の​牧者や​羊の​群れに​ついて、​あのように​愛情を​込めて​お話しに​なる​ことから​察せられるように、​キリストが​強く​主張しておられる​ことは、​私たちの​霊魂に​よい​指導者が​必要であると​いう​ことなのです。

​ ​「もし悪い​牧者が​いなかったと​すれば」と、​聖アウグスチヌスは​善き牧者に​ついて​話しています。​「主は​これほど​詳しく​お話しには​ならなかっただろう。​雇い​人とは​誰の​ことか。​狼を​見て​逃げる​者の​ことである。​キリストの​光栄ではなく​自らの​光栄を​求める​者、​罪人を​遠慮なく​非難する​勇気の​ない​者の​ことである。​狼は​羊の​首に​飛びかかり、​悪魔は​信者に​姦通を​犯させる。​それでもあなたは​黙して​非難しない。​あなたは​雇い​人だ。​狼が​来るのを​見て​逃げだしたからだ。​あなたは​言うかも​知れない。​『違う。​私は​ここに​いる。​逃げてはいない』と。​私は​答えよう。​そうではない。​あなたは​逃げた、​黙していたから。​しかも、​あなたは​恐れて黙していたのだ」​16。

​ 〈キリストの​花嫁〉の​聖性は、​ぼうだいな​数の​善き牧者に​よっていつも​証されてきましたし、​今日も​その例にもれません。​キリスト教の​信仰は​私たちに​素直に​なるようにと​教えますが、​あどけなく​無知であれとは​言いません。​沈黙を​守る​雇い​人や、​キリストの​ものではない​言葉を​伝える​雇い​人が​います。​それゆえ、もし小さな​ことでも、​はっきりと​しなかったり、​信仰が​しっかりしていないと​感じたりする​ことを​主が​お許しに​なる​ときには、​自分に​委ねられた​義務を​正しく​果たして​門から​入る​善き牧者、​人々に​奉仕しながら​言葉と​行いとを​もって​愛の​虜と​なる​ことを​望む​善き牧者、​罪人では​あっても、​いつも​キリストの​赦しと​憐れみに​信頼している​牧者の​ところに​行きましょう。

​ た​とえ、​あまり​重大だと​思われない​ことでも、​良心の​咎めを​感じる​場合や、​疑いの​ある​ときには、​ゆる​しの​秘跡に​近づきましょう。​面倒を​みてくれる​司祭、​確固たる​信仰と​神に​対して​上品で​細やかな​心を​保つよう​要求し、​キリスト教的な​本当の​強さを​身に​つけるように​導いてくれる​司祭の​ところに​行きなさい。​教会では、​告解を​聴く​許可を​受けている​司祭ならば誰に​でも、​全く​自由に​告解する​ことができます。​しかし、​誠実な​生活を​する​キリスト信者で​あれば、​自ら​進んで、​視線を​上げて、​主の​星を​もう​一度​高い​ところに​見つけるように​助けを​与える​善き牧者の​ところへ​行くはずです。

黄金と​乳香と​没薬と

​ 「その星を​見て​喜びに​あふれた」17。​ラテン語の​原典では​喜びと​いう​語を​感嘆して​繰り返しています。​星を​もう​一度​見つけた​とき、​博士たちは​喜びに​よろ​こんだのです。​どうして​そんなに​嬉しかったのでしょうか。​一度も​疑った​ことの​ない​人々でありましたから、​星は​決して​消え失せていない​ことを、​主が​証明な​さったのです。​肉眼では​見えなくなっていたのですが、​実は​いつも​心の​中に​その星を​保ち続けていたのです。​キリスト信者の​召命とは​このような​ものです。​信仰を​失わないならば、​「わたしは​世の​終わりまで」18​私たちと​共に​いると​言われた​イエス・キリストヘの​希望を​保ち続ける​ならば、​星は​再び現れます。​そして​召命の​事実を​再度確認するならば、​もっと​大きな​喜びが​湧き​上がり、​その​喜びに​よって​私たちの​信仰と​希望と​愛は​さらに​強められるのです。

​ ​「家に​入ってみると、​幼子は​母マリアと​共に​おられた。​彼らは​ひれ伏して​幼子を​拝」​19んだ。​私たちも​イエスの​前に、​人性の​後ろに​隠れておられる​神のみ​前に​ひざまずきましょう。​神からの​呼びかけに​背を​向けたくは​ない、​神から​決して​離れる​まい、​忠誠を​妨げる​ものは​全部​私たちの​道から​取り​除きたい、​神の​勧めに​心から​素直で​ありたいと​繰り返し申し上げましょう。​あなたは​心の​中で​ ― ​私も​同様に​心の​中で​声無き叫びを​あげながら​祈りますから​ ― 次のように​幼子に​申し上げているのです。​「忠実な​良い​僕だ。​(…)​主人と​一緒に​喜んでくれ」​20と、​私たちにも​言っていただきたいので、​たとえに​出てくる​あの​僕のように​善良で​几帳面な​者に​なりたいと​願っております、と。

​ 「宝の​箱を​開けて、​黄金、​乳香、​没薬を​贈り物と​して​献げた」21。​福音書の​この​一節を​よく​理解できるように​ゆっくり​考えましょう。​無で​あり何の​価値も​ない​私たちが神に​捧げ物を​するなどとは、​あり得る​ことなのでしょうか。​聖書には、​「良い​贈り物、​完全な​賜物は​みな、​上から、​光の​源である​御父から​来るのです」​22と​あります。​人間には、​主の​賜物が​もつ​深い​意味や​美しさを​そっくり​そのまま​見つける​ことも​探り​あてることも​できません。​「もしあなたが、​神の​賜物を​知っており​(…)」​23と、​イエスは​サマリアの​女に​お応えに​なっています。​イエス・キリストは、​すべてを​御父に​期待するように、​何は​さて​おき神の​国と​その​義を​求めるように、​そう​すれば、​他の​ことも​すべて​加えて​与えられる、​また、​天の​父は​私たちが必要と​している​ものを​よく​知っておられる​24、と​教えてくださいました。

​ 救いの​摂理に​おいて、​御父は​一人​ひとりに​愛情を​込めて​配慮なさいます。​「人は​それぞれ神から​賜物を​いただいているのですから、​人に​よって​生き方が​違います」25。​従って、​主が​必要と​しておられる​ことを​何か​お捧げしようと​望むのは​無益な​ことです。​支払う​すべも​ない​負債者26の​立場に​あるわけですから、​私たちの​贈り物は​神には​喜ばれない​旧約の​律法の​それに​似た​ものに​なるでしょう。​「あなたは、​いけに​えや​献げ物を​望まず、​むしろ、​わたしの​ために​体を​備えてくださいました」27。

​ しかし​主は、​与えると​いう​ことは​愛し合っている​者同士に​とって​当然な​行為である​ことを​よく​ご存じですから、​主自ら、​私たちから​何を​お望みであるかを​示してくださいます。​富や、​陸や​海や​空の​産物や​動物を​必要とは​されません。​それらは​全部​主の​ものですから。​もっと​大切な​心の​底に​ある​ものを​お望みです。​私たちは​自ら​進んで​それを​お捧げしなければなりません。​「わが​子よ、​あなたの心を​わたしに​委ねよ」​28。​主は​分かち合いなど​お望みに​なりません。​すべてを​お望みなのです。​私たちが​持っている​ものを​探しておられるのでは​ありません。​私たち自身を​求めて​おられるのです。​私たち自身を​神に​捧げれば、​その​時こそ他の​贈り物を​も​お捧げする​ことができるのです。

​ 黄金を​お捧げしましょう。​ここで​言う​黄金とは、​金銭や​物質から​離脱した​精神の​ことです。​金銭も​物質も​神に​作られた​ものですから、​本来良い物である​ことを​忘れては​なりません。​それらに​心を​奪われる​ことなく、​人類が​有益な​使い方を​するよう、​主が​用意してくださった​ものです。

​ この​世の​ものは​決して​悪く​ありません。​人が​それを​偶像視し、​その前に​ひれ伏すとき​有害な​ものとなりますが、​善の​ための​手段となし、​キリスト教の​課題である​正義と​愛を​実行する​ために​用いる​ならば、​高貴な​ものとなるのです。​宝探しに​行く​人のように、​経済的な​富を​追い​求める​ことは​感心できません。​私たちの​宝は​すぐ傍の​飼い​葉桶に​横たわっておられる​キリストです。​キリストに​私たちの​愛を​すべて​集中させなければなりません。​「あなたの富の​ある​ところに、​あなたの心も​ある」29と​言われるからです。

乳香を​お捧げしましょう。​乳香とは、​「キリストに​よって​神に​献げられる​良い​香り」30を​発散する​気高い​生活を​送る​望み、​主の​許にまで​昇っていく​望みの​ことです。​私たちの​言葉や​行いを​〈良い​香り〉で​充満させるとは、​理解や​友情を​〈蒔く​〉ことなのです。​孤独を​感じたり、​とり残されたりする​人が​一人も​いないように、​私たちは​人々の​傍に​いなければなりません。​愛徳は​愛情であり、​人間的な​温かさでも​あるはずです。

​ イエス・キリストは​このように​教えておられます。​人類は​何世紀も​以前から​救い主の​到来を​待っていました。​預言者たちは​色々な​方法で​救い主の​到来を​告げてきました。​罪の​ためあるいは​無知の​ために、​人々は​神の​啓示の​大部分を​知らずに​いましたが、​地の​果てに​至るまで、​神の​お望みや​救われたいと​いう​切望は​保たれていました。

​ 時が​満ちました。​人類救済の​使命を​遂行する​ために、​プラトンや​ソクラテスのような​天才的哲学者が​現れたのでも、​アレキサンダー大王のような​強力な​征服者が​地上に​居を​定めたのでもありません。​一人の​幼子が​馬屋で​生まれたのです。​それは​世の​救い主でありました。​しかし​口を​開く​前に​行いを​もって​愛を​示されました。​魔法を​かけに​来られたのでは​ありません。​もたらしてくださる​救いは、​人の​心を​通じて​伝わるべきだと​知っておられたからです。​主が​最初に​お見せに​なったのは、笑い声と​泣き声であり、​人と​なられた​神の​無邪気な​寝姿でした。​そのような​姿を​見て、​私たちが主を​いとおしく​思い、​腕に​抱き寄せる​ことができる​ためだったのです。

​ 再び、​キリスト教とは​何であるかが​確認できました。​もし、​キリスト信者で​ありながら​行いを​もって​愛を​示さないならば、​キリスト信者と​しては​失格も​同然であり、​人間と​しても​挫折したことに​なるでしょう。​人々を、​自分が​昇進する​ための​踏み台や​数字のように​見做しては​なりません。​都合に​よって、​誉めたり貶したり、​へつらったり​軽蔑したりしてはならないのです。​人々の​こと、​そして​第一に、​あなたの​傍に​いる​人が​誰であるかを​考えてください。​皆、​神の​子なのです。​神の​子と​いう​素晴らしい​肩​書きが​表す尊厳を​額面通り受けるに​値する​人々なのです。

​ 神の​子たちに​対して、​私たちは​神の​子らしく​振る​舞わなければなりません。​私たちの​態度は​犠牲を​伴った愛であるべきで、​それは​毎日、​人目に​触れない​献身の​業や​黙々とした​犠牲や​理解などの​数限りない​小さな​行いに​表れければなりません。​これこそ​〈キリストの​良い​香り〉なのです。​初代教会の​兄弟たちと​共に​住んでいた​人々を、​「彼らは​なんと​愛し合っている​ことか」​31と​叫ばせたのは​このような​愛徳だったのです。

​ 達成できそうもない​理想に​ついて​語っているのでは​ありません。​キリスト信者とは、​およそ​ライオンなどいるはずの​ない​自分の​家の​廊下で、​ライオン狩りを​したと​言われている​男、​タルタリンでは​ありません。​私は、​具体的に​毎日の​生活、​すなわち、​仕事や​家族関係、​友人との​関係などを​聖化する​必要に​ついて​お話ししたいのです。​日常生活の​場で​キリスト信者でないと​すれば、​一体​どこで​信者である​ことができるのでしょうか。​香から​たち昇る​よい​香りは、​たくさんの​香の​粒が​静かに​熾火に​燃されて​生じます。​〈キリストの​良い​香り〉が​人々の​間に​目立つのも、​時たま​燃え​上がる​炎に​よるのではなく、​正義・​気高さ・​忠誠・理解・​寛大さ・​喜びなど、​埋れ火の​働きを​する​諸徳の​結果に​よる​ものなのです。

博士たちと​一緒に​没薬も​お捧げしましょう。​ここで​没薬とは、​キリスト信者の​生活には​欠かす​ことのできない​犠牲の​ことです。​没薬は​主の​ご受難を​思い起こさせます。​兵士たちは​十字架上の​主に​没薬を​混ぜたぶどう​酒を​飲ませようとしました​32。​御体を​埋葬する​ために​没薬を​塗りました​33。​ところで、​犠牲や​節欲の​必要を​考えているとは​言え、​今日祝う​この​喜ばしい​祝日に、​悲しみの​調子を​添える​ためだとは​考えないでください。

​ 犠牲とは​悲観的な​ものでも、とげと​げしい​心でもありません。​犠牲には​愛徳が​伴わなければ​何の​役にも​立ちません。​それゆえ、​この​世の​事物に​対しては​泰然自若と​した​態度を​とりながら、​周囲の​人々には​犠牲を​払わせないような​犠牲を​探さなければなりません。​惨めな​人や​冷血漢は​キリスト信者には​なれないでしょう。​行いを​もって​愛し、​その愛を​苦しみの​試金石に​置いて​証すことができる​人こそ、​キリスト信者と​言えるのです。

​ しかし、​その​犠牲は、​極めて​稀に​しかない​桁外れの​自己放棄の​業に​あるのではなく、​大抵の​場合、​小さな​勝利から​成る​ものです。​そして、​小さな​勝利とは、​厄介な​人に​微笑みかけるとか、​余計な​富に​対する​欲望を​拒むとか、​人の​話に​耳を​傾ける​努力を​惜しまず、​神が​私たちに​委ねられた​時間を​よく​活用する​ことなのです。​その他、​毎日、​探さなくとも​やってくる​思いがけない​出来事・困難・​不愉快など、​一見​無意味に​見える​出来事の​中にもまだたくさんの​小さな​勝利を​得る​機会が​あるのです。

東洋の​星・聖マリア

 ​「家に​入ってみると、​幼子は​母マリアと​共に​おられた」。​福音書の​この​一節を​もう​一度​読んで​今日の​話を​終わりたいと​思います。​聖母は​御子から​離れたりなさいません。​博士たちを​迎えたのは、​玉座に​座する​王ではなく、​母の​腕に​抱かれた​一人の​幼子でした。​私たちの​母でも​ある​神の​御母に、​完全な​愛に​至る​道を​用意してくださいと​願いましょう。​いとも​甘美なる​聖母の​御心、​安全な​道を​備え給え。​聖母の​甘美なる​御心は​キリストに​出会う​ための​最も​確かな​道を​知っておられます。

​ 博士たちには​星が​ありましたが、​私たちには、​海の​星・​東洋の​星なる​聖母マリアが​ついていてくださいます。​聖母に​申し上げましょう。​「海の​星・暁の​星なる​聖マリア、​御身の​子らを​お助けください」。​人々を​愛する​心に​限界を​設けるべきでは​ありません。​キリストヘの​愛から​除外されている​人は​いないのです。​博士たちは​異邦人の​初穂でありました。​しかし​救いのみ​業が​成し遂げられてから、​同国人も​異邦人もなくなりました。​「もはや、​ユダヤ人も​ギリシア人もなく、​奴隷も​自由な​身分の​者もなく、​男も​女も​ありません。​あなたがたは​皆、​キリスト・イエスに​おいて​一つ​だからです」34。

​ キリスト信者が​排他的であったり、​人を​差別したりする​ことは​できません。​「東や​西から​大勢の​人が​来」35るは​ずだからです。​キリストのみ​心には​誰もが​入れます。​もう​一度、​飼い​葉桶の​中の​主に​視線を​向けましょう。​主の​腕は​子どもの腕ですが、​全人​類を​引き寄せる​ために​36、​十字架上で​広げられる​腕と​全く​同じ​腕なのです。

​ 最後に、​私たちの​父であり師である​義人ヨセフに​ついて​考えてみましょう。​ヨセフは、​ご公現の​場面でも、​他の​時と​同じように​人目に​つきません。​人と​なった​神の​御子の​世話を​委ねられ、​愛を​込めて​御子を​保護する​聖ヨセフが​祈りに​ふけっているのを、​私は​心に​思い巡らせています。​聖なる​太祖ヨセフは​自分の​ことを​考えず、​徹底した​細やかさを​もって​黙々と、​しかも​効果的な​奉仕に​自らを​捧げたのです。

​ 今日は​祈りの​生活と​使徒職への​熱意に​ついて​お話ししました。​聖ヨセフより​優れた​師が​他に​あるでしょうか。​もし助言を​お望みならば、​何年も​前から​飽きる​ことなく​繰り返して​来たように、​「ヨセフのもとに​行」37きなさいと​申し上げましょう。​イエスに​近づく​ためのは​っきりと​した​道や​人間的・​超​自然的方​法は、​聖ヨセフが​教えてくださるでしょう。​そう​すれば、​私たちの​間に​お生まれに​なった​幼子を、​聖ヨセフが​なさったように​「腕に​抱き、​接吻し、​服を​着せ、​お世話する」​38ことが​すぐに​できるでしょう。​博士たちは​礼拝の​しるしと​して、​黄金・乳香・没薬を​イエスに​捧げましたが、​聖ヨセフは、​愛に​燃える​若々しい​心を​惜しげもなく​お捧げに​なったのです。

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