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神を​身に​帯びて

​ 貞潔に​ついて​説く​とき、​純潔や​貞潔に​反する​ことを​中心に​話す人が​大勢いますが、​まことに​残念でなりません。​と​いうのは、​意図に​反した​結果を​もたらすことが​非常に​多いからです。​そのような​例を​いくつも​見てきました。​不潔な​事柄は、​松脂よりも​ねばねばしてくっつき易く、​劣等感や​恐れで​良心を​ゆが​め、​清らかな​霊魂などとうてい保ち得ないかのように​考えさせてしまいます。​私たちは​不潔な​ことに​ついては​話しません。​聖なる​純潔は、​積極的・​肯定的な​面から​澄んだ目で​見、​慎み深く、​的を​射た​明白な​言葉で​扱うべきです。

​ 貞潔に​ついて​話すとは、​愛に​ついて​話すことに​ほかなりません。​それで​たった​今、​主の​至聖なる​人性に​目を​留めれば​大いに​役に​立つと​言ったのです。​とことんまで​遜って​人と​なり、​罪を​除く​すべての​有限性と​弱さを​もった​人間の​肉体を​とったにも​かかわらず、​何の​屈辱も​お感じに​ならなかった神。​まことに​言葉に​尽くせぬほどの​驚きですが、​神は​私たちを​極みまで​愛してくださいました。​神は​自らを​低めましたが、​それに​よって​自らの​価値を​低めたわけでは​ありません。​反対に、​私たちを​高め、​体と​霊魂とも​ども​神化してくださったのです。​この​神の​愛に​対し、​清らかに​澄みきった​心、​秩序だった​愛に​燃え立つ心で​お仕えする​こと、​これが​貞潔の​徳です。

​ 全世界に​向かって、​行いと​言葉を​もって​叫ばねばなりません。​人間を​もっとも​下級な​本能に​よって​支配される​哀れな​動物であるかのように​考える​ほど、​良心を​麻痺させてはならないのです。​ある​キリスト教著作家は​次のように​説明しています。​「人間の​心は​小さくない​ことを​知りなさい。​たくさんの​ことを​受け入れる​ことができるのです。​心の​大きさは、​物理的な​面ではなく、​無数の​真理を​知る​ことのできる​思考の​能力で​測りなさい。​心の​中こそ、​主の​道を​整え、​まっすぐな​小道を​拓き、​神の​言葉と​知恵を​受け入れる​ところです。​清廉な​行いと​非の​打ちどころの​ない​仕事ぶりで​主の​道を​整え、​その​小道を​平らに​しなさい。​神の​言葉が、​つまずく​ことなく​あなたたちの​中を​通り、​神の​秘義と​来臨に​ついての​知識を​与えてくださるだろう」14。

​ 聖書には、​聖化と​いう​大事業、​目立たないが​素晴らしい​聖霊の​わざは、​心と​体に​おいて​実現する​ものであると​示されてあります。​「あなたがたは、​自分の​体が​キリストの​体の​一部だとは​知らないのか。​キリストの​体の​一部を​娼婦の​体の​一部と​しても​よいのか。​(…)​あなたが​たの体は、​神から​いただいた​聖霊が​宿ってくださる​神殿であり、​あなたがたはもは​や​自分​自身の​ものではないのです。​あなたがたは、​代価を​払って​買い​取られたのです。​だから、​自分の​体で​神の​栄光を​現しなさい」15と​使徒は​叫んでいます。

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