神を見るであろう

1954年3月12日


イエス・キリストが​キリスト者すべての​模範である​ことは、​すでに​何度も​耳にし、​また​黙想されたので、​よく​お分かりと​思います。​また、​超自然的な​付き合い、​つまり、​すでに​皆さん方​自身の​一部と​なった​使徒職に​おいても、​模範は​キリストである​ことを、​多数の​人々に​教えて​こられた​ことでしょう。​さらに、​必要な​ときには、​兄弟的説諭と​いう​素晴らしい​手段を​使って​人々に​思い出させ、​自分の​行いを、​神の​母であり​私たちの​母である​聖マリアの​御子の​行いと​照らし合わせる​よう、​促して​こられた​ことと​思います。

​ イエスは​唯一の​模範です。​自ら​「わたしに​学びなさい」1とおっしゃいました。​今日は、​決して​唯一最高の​徳と​いうわけではないが、​信者の​生活に​おいて​腐敗を​避ける​塩の​働きを​し、​使徒の​試金石と​なる​徳・聖なる​純潔に​ついて​お話ししたいと​思います。

​ 確かに、​対神徳である​愛徳こそ、​最高の​徳です。​しかし、​貞潔は​神と​親しく​語り合う​ために​ぜひとも​必要な​手段で​あり条件なのです。​貞潔を​大切にし、​貞潔を​守る​ために​戦わないなら、​目が​見えなくなる。​「自然の​人は​神の​霊に​属する​事柄を​受け入れ(る)」​2ことができないので、​何も​見えなくなってしまいます。

​ 「心の​清い​人々は、​幸いである、​その​人たちは​神を​見る」3。​この​主の​教えに​励まされた​今、​清い目ですべてを​見たい​ものです。​教会は​この​言葉を​常に​貞潔への​招きと​して​受け取ってきました。​聖ヨハネ・クリゾストムは、​「一点の​汚れも​ない​清い心を​持つ者、​貞潔を​愛する​者は、​健全な​精神を​保つ。​神を​見る​ためこれほど​必要な​徳は​ない」4と​教えています。

キリストの​模範

主イエス・キリストは、​この​世での​生活中、​絶えず​無数の​悪口に​さらされました。​人々は​ありと​あらゆる​手段を​用いて​主に​害を​加えようとしたのです。​覚えていますか。​ある​時は、​主を​革命家に​仕立て、​ある​時は、​悪魔に​つかれている​5と​言う、​また​ある​時は、​主の​無限の​愛の​表明を​悪く​解釈し、​罪人の​友だと​非難する6。

​ 後に​なると、​償いと​節制の​模範である​主を、​金持の​家に​招かれてばかりいると​言って​罵ります7。​それだけでなく、​あたかも​労働者の​子である​ことは​悪い​ことであるかのように、​「大工の​子」8と​軽蔑の​念を​込めて​呼びました。​主は、​大食漢、​大酒飲み…と​呼ばれる​ことも​お許しに​なり、​何を​言われても​言わせておかれましたが、​ただ​一つだけ​例外が​ありました。​貞潔に​ついては​勝手な​ことを​言わせなかったのです。​この​点に​関してだけは、​人々の​口を​封じました。​なぜでしょうか。​一点の​曇りも​ない​貞潔と​清純と​光、​さらに、​全世​界を​焼き尽くし浄化する​ことのできる​愛の​模範を​私たちが​保つよう​お望みだったからです。

​ 私は​好んで​主の​行いを​黙想しながら、​聖なる​純潔に​ついて​話します。​この​徳に​ついて​主は​非常に​細かな​ところまで​模範を​示してくださいました。​聖ヨハネの​話に​耳を​傾けましょう。​イエスが、​「旅に​疲れて、​そのまま​井戸の​そばに​座っておられた」9ときの​ことです。

​ 心の​目を​開いて、​あの​場面を​しっかりと​眺めましょう。​「完全な​神、​完全な​人である」10イエスは、​旅と​使徒職で​お疲れでした。​きっと​皆さんにも​経験が​おありのように、​もう​これ以上、​何も​できないと​言える​ほど​疲れきっておられました。​疲れきった​主を​眺めると​それだけで​心打たれる​思いが​します。​そのうえ、​イエスは​たまらなく​空腹でした。​弟子たちは​食べ物を​探しに​隣の​町へ​行っています。​さらに、​主の​喉は​渇き切っていました。

​ しかも、​人々の​救いを​思う​渇きは、​体の​疲労にもまして​主を​さいなみました。​ですから、​罪深い​サマリア女が​現れると、​迷える​羊を​救おうと​する​司祭と​しての​キリストの​聖心が、​ただちに​反応し始め、​体の​疲労、​空腹、​喉の​渇きも​忘れてしまったのです。

​ 主が​大きな​愛に​動かされて​使徒職に​打ちこんで​おられた​とき、​町から​戻ってきた​使徒たちは、​「イエスが​女の​人と​話を​しておられるのに​驚いた」11。​女性と​接する​ときには​充分、​慎重な​態度を​とるよう​教えられていたからです。​聖なる​純潔と​いう​得も​言われぬ徳を​本当に​大切に​なさいました。​私たちがより​一層​強くなり、​より​多くの​実を​結び、​より​一層​効果的に​神の​ために​働き、​偉大な​ことを​すべて​実現する​ことができるようになるのは、​この​純潔の​徳の​おかげなのです。

「実に、​神のみ​心は、​あなたが​たが​聖なる​者と​なる​ことです。​すなわち、​みだらな​行いを​避け、​おの​おの​汚れの​ない​心と​尊敬の​念を​もって​妻と​生活するように​学ばねばならず、​神を​知らない​異邦人のように​情欲に​おぼれてはならない」12。​霊魂と​身体、​肉と​骨、​感覚と​能力とも​ども、​私たちは​神の​ものです。​信頼し切って​頼みなさい。​「イエス、​私たちの​心を​お守りください。​大きくて​強い心、​若々しく​優しく​繊細な​心で、​あなたと​すべての​人への​愛を​保つことができますように」。

​ 私たちの​体は​聖なる​もの、​聖パウロの​言葉を​借りれば、​「神の​神殿」です。​私は​使徒の​この​叫びを​聞く​とき、​主が​すべての​人に​向けてなさった​聖性への​普遍的な​呼びかけを​思い​起こします。​「天の​父が​完全で​あられるように、​あなたが​たも​完全な​者と​なりなさい」13。​例外なく​すべての​人に、​恩寵には​応えるべきであると、​主は​仰せに​なっています。​自分の​生活条件に​応じて​神の​子に​固有な​徳を​実行せよと、​一人​ひとりに​言っておられるのです。

​ ですから、​キリスト者は​完全に​貞潔を​守らねばならないと​私が​言う​とき、​完全な​禁欲を​実行しなければならない​独身者、​婚姻の​義務を​果た​しつつも​貞潔を​守るべき既婚者を​含め、​例外なしに​すべての​人々の​ことを​考えています。

​ 聖霊の​助けが​あれば、​貞潔は​わずらわしい​ものでも​恥ずかしい​重荷でもなくなります。​貞潔こそ​喜びに​満ちた​積極的な​徳なのです。​それは​愛であり克己で​あり勝利であって、​肉からの​ものでも​本能からの​ものでもない。​何よりも​貞潔を​守ると​いう​決意が​あってこそ​実行できる徳です。​本当に​貞潔である​ためには、​単なる​自制や​慎みではなく、​欲情を​理性に​服従させる​必要が​ある。​しかも、​高い​動機、​つまり、​神への​愛ゆえに​そうする​必要が​あるのです。

​ この​徳は​翼に​喩える​ことができます。​この​翼の​おかげで、​私たちは​世界中いたる​所へ、​泥まみれに​なるのを​恐れずに、​神の​掟と​教えを​伝えに​行く​ことができる。​翼自体かなりの​重荷には​違いないが、​雲さえ​届かない​高みにまで​飛翔する​雄々しい​鳥も、​翼なしに​飛ぶことは​できません。​この​ことを​しっかりと​心に​刻みつけておいてください。​貞潔はとうてい担い​切れない​重荷であると​思わせるような、​誘惑の​魔手に​捕まらないように​したい​ものです。​さあ、​頑張って、​太陽を、​神の​愛を、​目指して​飛び発ちましょう。

神を​身に​帯びて

​ 貞潔に​ついて​説く​とき、​純潔や​貞潔に​反する​ことを​中心に​話す人が​大勢いますが、​まことに​残念でなりません。​と​いうのは、​意図に​反した​結果を​もたらすことが​非常に​多いからです。​そのような​例を​いくつも​見てきました。​不潔な​事柄は、​松脂よりも​ねばねばしてくっつき易く、​劣等感や​恐れで​良心を​ゆが​め、​清らかな​霊魂などとうてい保ち得ないかのように​考えさせてしまいます。​私たちは​不潔な​ことに​ついては​話しません。​聖なる​純潔は、​積極的・​肯定的な​面から​澄んだ目で​見、​慎み深く、​的を​射た​明白な​言葉で​扱うべきです。

​ 貞潔に​ついて​話すとは、​愛に​ついて​話すことに​ほかなりません。​それで​たった​今、​主の​至聖なる​人性に​目を​留めれば​大いに​役に​立つと​言ったのです。​とことんまで​遜って​人と​なり、​罪を​除く​すべての​有限性と​弱さを​もった​人間の​肉体を​とったにも​かかわらず、​何の​屈辱も​お感じに​ならなかった神。​まことに​言葉に​尽くせぬほどの​驚きですが、​神は​私たちを​極みまで​愛してくださいました。​神は​自らを​低めましたが、​それに​よって​自らの​価値を​低めたわけでは​ありません。​反対に、​私たちを​高め、​体と​霊魂とも​ども​神化してくださったのです。​この​神の​愛に​対し、​清らかに​澄みきった​心、​秩序だった​愛に​燃え立つ心で​お仕えする​こと、​これが​貞潔の​徳です。

​ 全世界に​向かって、​行いと​言葉を​もって​叫ばねばなりません。​人間を​もっとも​下級な​本能に​よって​支配される​哀れな​動物であるかのように​考える​ほど、​良心を​麻痺させてはならないのです。​ある​キリスト教著作家は​次のように​説明しています。​「人間の​心は​小さくない​ことを​知りなさい。​たくさんの​ことを​受け入れる​ことができるのです。​心の​大きさは、​物理的な​面ではなく、​無数の​真理を​知る​ことのできる​思考の​能力で​測りなさい。​心の​中こそ、​主の​道を​整え、​まっすぐな​小道を​拓き、​神の​言葉と​知恵を​受け入れる​ところです。​清廉な​行いと​非の​打ちどころの​ない​仕事ぶりで​主の​道を​整え、​その​小道を​平らに​しなさい。​神の​言葉が、​つまずく​ことなく​あなたたちの​中を​通り、​神の​秘義と​来臨に​ついての​知識を​与えてくださるだろう」14。

​ 聖書には、​聖化と​いう​大事業、​目立たないが​素晴らしい​聖霊の​わざは、​心と​体に​おいて​実現する​ものであると​示されてあります。​「あなたがたは、​自分の​体が​キリストの​体の​一部だとは​知らないのか。​キリストの​体の​一部を​娼婦の​体の​一部と​しても​よいのか。​(…)​あなたが​たの体は、​神から​いただいた​聖霊が​宿ってくださる​神殿であり、​あなたがたはもは​や​自分​自身の​ものではないのです。​あなたがたは、​代価を​払って​買い​取られたのです。​だから、​自分の​体で​神の​栄光を​現しなさい」15と​使徒は​叫んでいます。

ある​人々は​貞潔に​ついて​聞くと​薄笑いを​浮かべる。​ひねくれた​考えしかもたない​人の、​喜びの​ない​しかめ面の笑いです。​大多数の​人間は​貞潔を​信じていない、と​彼らは​繰り返す。​何年も​前に​なりますが、​一緒に​マドリード郊外の​貧民街と​病院を​回っていた​青年たちに​よく​話して​聞かせた​ものです。​この​世には、​まず無生物の​世界が​存在する、​次に、​存在するだけでなく、​生命を​与えられたが​ゆえに​無生物の​世界よりは​遥かに​完全な​植物の​世界、​さらに、​たいていは​感覚と​運動能力を​備えた​存在からなる​動物の​世界が​あると。

​ それから、​あまり​学問的とは​言えませんが、​分かりやすい​表現を​使って、​次のような​説明を​加えました。​ところで​私たちは、​もう​一つ​別の​世界、​人間の​王国を​打ち立てなければならない。​理性を​もった​被造物である​人間は、​見事な​知性と​神の​知恵の​閃きを​備えているので、​自由に​ものを​考える​ことができるから。​そして、​この​素晴らしい​自由が​あればこそ、​私たちは​好きなように、​ある​ものを​受け入れ、​ある​ものを​捨てる​ことができるのだと。

​ 私は​司祭と​しての​山ほどの​経験に​照らして​話しました。​この​王国の​住人の​うち正常な​人に​とっては、​性の​問題は​四番目か五番目にくるはずである。​第一に​一人​ひとりの​霊的生活に​おける​抱負、​続いて​普通の​男女が​心を​寄せる​問題、​すなわち父母、​家族、​子供に​関する​こと、​それから​仕事に​ついて、​その後、​四番目か五番目あたりに、​性の​問題が​出てきます。

​ ですから​私は、​性に​関する​事柄を​会話や​興味の​中心に​据えている​人を​見ると、​彼らは​普通ではなく、​気の​毒な​人々、​おそらくは​病気だろうと​思います。​いつも​決まって笑いを​誘うことになりましたが、​病院などを​一緒に​巡った​あの​若者たちには、​そのような​哀れな​人を​見るに​つけ、​まるで​頭の​周りが​一メートルも​ある​子供を​見た​ときと​同じくらいかわい​そうに​思う、と​言った​ものです。​こういう​不幸な​人たちに​会うと、​祈る​気持ちだけでなく、​兄弟愛の​心から​同情せずには​いられません。​哀れな​病が​治るよう​願ってやまないからです。​常に​性の​問題を​中心に​おく​人た​ちが、​同じ​問題に​悩まない​男女に​比べて、​より​男性的、​より​女性的であるとは​決して​言えないのです。

貞潔で​ありうる

​ 人は​みな​欲情を​ひきずって​生きている。​年齢の​多少に​関係なく、​みな​同じ​困難に​直面していますから、​戦う​必要の​ない​人は​いません。​聖パウロの​言葉を​思い出してください。​「思い​上がる​ことの​ないようにと、​わたしの​身に​一つのと​げが​与えられました」16。​サタンの​使いが​私を​打つ、でなければ、​高慢に​なるからです。

​ 神の​助けが​なければ、​清い​生活を​送る​ことは​できません。​謙遜に​なって​助けを​願え、​と神は​仰せに​なります。​さあ、​今、​言葉を​口に​する​ことなく、​信頼を​もって​聖母に​お願いしましょう。​「お母さま、​私の​惨めな​心は​愚かにも​反抗します。​私を​守ってくださらないと…」。​ すると​すぐに、​聖母は​あなたの心を​汚れから​守り、​神が​お呼びに​なった​道を​走る​ことのできるよう助けてくださるでしょう。

​ 皆さん、​何にもまして​謙遜の​徳が​必要です。​どう​すれば​謙遜に​なることができるかに​ついて​学びましょう。​神の​愛を​保つため、​賢明に​ならなければならないのです。​注意深く​警戒しても、​恐れに​支配されては​なりません。​大勢の​古典書の​霊的著作家と​言われる​人たちは、​悪魔を​鎖に​つながれた​猛犬に​喩えています。​ひっきりなしに​吠えたてても、​こちらが​近寄らない​限り、​犬は​噛みつく​ことができない。​もし謙遜になろうと​努めるなら、​悪の​機会を​避ける​ことも​でき、​きっと​大胆に、​逃げる​道を​選ぶでしょう。​毎日、​天の​助けに​より​すがり、​愛する​人の​歩む道を​毅然と​して​進みます。

肉の​欲情に​よって​腐敗すると、​霊的な​歩みを​阻まれて善業も​行えず、​うち捨てられた​ボロ布のようになってしまう。​自力では​歩く​ことさえできない​人、​体が​麻痺して、​時には​頭を​動かすことすらできない​病人が​います。​霊的に​見て​これと​同じことが、​謙遜でない​人、​臆病にも​肉欲に​負けた​人に​起こるのです。​彼らには、​何も​見えず、​何も​聞こえず、​何も​理解できない。​全身​麻痺しており、​まるで​愚か者のようです。​主キリストと​神の​御母に、​謙遜を​お与えください、​ゆる​しの​秘跡と​いう​神の​素晴らしい​治療法を、​信心深く​用いる​決心が​できますようにと、​お願いしましょう。​心の​中に​腐敗の​芽が​育たないよう、​たとえどんな​些細な​ことであっても、​すぐに​話さなければなりません。​水は​流れていてこそ、​清いのです。​淀めば​悪臭を​放つゴミだらけの​水溜りと​なり、​飲めるはずの​水も、​虫入りの​スープと​化してしまいます。

​ 貞潔は​可能である。​そればかりか​喜びの​源であり、​時には​ちょっとした​戦いを​余儀なくされる​ことを、​私と​同じように、​皆さんは​よく​ご存じです。​もう​一度​聖パウロの​教えに​耳を​傾けましょう。​「『内なる​人』と​しては​神の​律法を​喜んでいますが、​わたしの​五体には​もう​一つの​法則が​あって​心の​法則と​戦い、​わたしを、五体の​内に​ある​罪の​法則の​とりこに​しているのが​分かります。​わたしは​なんと​惨めな​人間なのでしょう」17。​必要なら​パウロ以上の​叫び声を​あげなさい。​ただし、​大げさに​なり過ぎないように。​すると、​「わたしの​恵みは​あなたに​十分である」18と、​主は​お答えに​なるでしょう。

ピンチに​立たされた​ときの​スポーツマンの​目の​輝きと、​その後の​素晴らしい​勝利を​見て​心を​打たれた​経験が​何度も​あります。​スポーツ選手が​どのように​して​困難を​克服するかを​見ましたか。​それと​同じように、​私たちに​主なる​神は、​私たちの​戦いを​見守り、​喜んでくださいます。​神が​恩寵を​拒むことは​決してありませんから、​すべては​可能に​なり、​私たちは​常に​勝利を​得る​ことができるのです。​戦うべき事柄自体は​問題に​ならない、​神は​決して​私たちを​お見捨てになりませんから。

​ 貞潔とは、​戦う​態度であって、​何かを​放棄する​ことでは​ありません。​貞潔とは、​喜びに​溢れた​肯定、​つまり、​自由に、​喜んで、​神に​すべてを​捧げる​姿勢の​ことです。​罪と​罪の​機会を​避けるだけで​満足している​わけには​いきません。​心の​こもらない​打算的、​否定的な​態度を​とってはならないのです。​貞潔は​徳の​一つですから、​徳と​して​成長させ、​完成させるべきことは​言うまでも​ないでしょう。​各々が​身分に​応じて​節制を​保つだけでは​不充分です。​英雄的な​努力を​して、​貞潔の​徳を​実行しなければなりません。​こういう​生き方を​しようと​すれば、​神の​要求を​進んで​受け入れる​積極的な​態度が​必要に​なります。​「わが​子よ、​あなたの心を​わたしにゆだねよ。​喜んで​わたしの​道に​目を​向けよ」​19。​わが​子よ、​お前の​心を​差し出し、​平和な​私の​畑に​目を​やりなさい。

​ 今、​この​戦いに​どう​対処していますか。​最初の​瞬間に​戦っているなら、​すでに​勝ったも​同然です。​情欲の​最初の​火花を​感じた​瞬間、​あるいは​その前に、​危険から​遠ざかりなさい。​それから​すぐに、​その​ことを​霊的指導者に​打ち明けなさい。​できるだけ早いうちに​話す方が​いいでしょう。​思い​切って​心を​開けば、​敵に​打ち負かされる​ことは​決してありません。​一つ​ひとつの​行いが​積もり積もって​一つの​習慣と​なり、​傾きとなり、​やがていとも​簡単に​実行できるまでに​なります。​このような​わけで、​徳と​犠牲の​習慣を​身に​つける​ため、​また真の​愛を​拒絶しないためにも、とにかく​戦わねばならないのです。

​ 聖パウロの​テモテヘの​勧めを​黙想しましょう。​「いつも​潔白で​いなさい」20。​これは、​私たちが常に​警戒を​怠らず、​神から​賜った​宝を​守る​決意を​固めるように​と​勧める​言葉です。​「最初に​断ち切っておけば​よかった…」。​大勢の​人が​悲しみに​くれ、​恥を​忍んで​こう​叫ぶのを、​私は​今までに​何度も​耳に​してきました。

余す​ところなく​心を​捧げる

​ キリスト者と​しての​義務を​果たさなければ​幸せには​なれない​ことを、​忘れないでください。​万一、​信者の​義務を​放棄するような​ことが​あれば、​大変な​良心の​呵責を​味わい、​不幸に​なるばかりです。​そうなると、​わずかであるとは​いえ幸せを​与えるはずの、​まっとうで​平凡な​事柄までが、​胆汁のように​苦くて、​酢のように​酸っぱく、​砂を​噛むような​味を​与えるようになってしまいます。

​ 私たちは​皆、​一人​ひとり、​イエスに​お願いしなければなりません。​「主よ、​私は​頑張って​戦います。​あなたは​決して​敗北を​喫したりなさいません。​万一​私が​敗れる​ことがあると​すれば、​それは​私が​あなたから​離れてしまった​ためです。​手を​引いてお導きください。​私を​信用なさらないでください。​独りで​戦わせないでください」。

​ あなたは​こう​考えるかもしれない、​「神父さま、​私は​こんなに​幸せです。​イエスを​愛しています。​私は​土で​できた​ものですが、​神と​聖母の​助けを​受けて​聖人に​なりたいと​思っています」。​確かに​そうでしょう。​私は​ただ、​万一、​困難に​襲われた​ときの​ことを​思って​忠告しているのです。

​ 同時に、​キリスト者は​愛の​生活を​営むべきことを​繰り返さなければなりません。​私たちの​心は、​愛する​ために​あります。​純粋で​汚れない​高貴な​愛を​与えて​やらなければ、​心は​卑しい​ことを​求め、​惨めな​状態に​陥ってしまいます。​本当に​神を​愛し、​それゆえ​清い​生活を​送ると​いうのは、​享楽的な​心や​無感覚な​心を​もつ​ことでは​ありませんし、​冷淡で​硬い​心や​感​傷的な心で​生きる​ことでも​ありません。

​ 心が​ないとは​残念な​ことです。​優しく​人を​愛した​経験の​ない​人は​不幸だと​言えます。​キリスト者は​神の​愛に​酔っている​人々の​ことです。​私たちが​生気の​ない​物質のように、​潤いなく​堅苦しい​生き方を​する​ことなど、​主の​お望みでは​ありません。​神は​ご自分の​愛で​私たちを​包みたいと​思っておられるのです。​神の​ために​異性への​愛を​放棄するからと​いって、​清らかな​広い心で​愛する​こともできず、​疲れ切って​悲しくも​不幸な​<独り者>に​なるわけでは​ありません。

愛と​貞潔

以前にもしばしば​お話ししましたが、​私の​場合、​主との​親交を​温める​ために、​愛を​テーマに​した​ポピュラー・ソングが​役に​立ちます。​こんな​ことを​知られても​恥ずかしいとは​思いません。​皆さんの​うちの​幾人かと​私を​お選びに​なった​主は、​すべてを​捧げるようにと​望んで​おられます。​私たちは​愛の​歌を​超自然の​レベルに​高めなければなりません。​旧約の​雅歌は、​聖霊が​そのようになさった​ものであり、​あらゆる​時代の​偉大な​神秘家たちも​同様に​してきました。

​ 聖テレジアの​次の​詩句を​読み直してみましょう。​「私の​憩いを​お望みなら、​愛の​ために​憩います。​私の​働きを​お命じに​なるのなら、​働きつつ死に​ましょう。​おっしゃってください。​いつ、​どこで、​どのように​すれば​よいのでしょうか。​お教えください。​甘美な愛よ、​私が​どうする​ことを​お望みかを」21。​十字架の​聖ヨハネの​歌は​どうでしょう。​「一人、​愛に​悩む羊飼い。​喜びも​満足も​忘れて、​思いは​あの​女牧者のもとに。​胸は​愛に​焦がれて」22。​私は​人間同士の​愛を、​それが​清い愛である​限り、​言葉で​表現できない​ほど​尊び、​そして、​敬いたいと​思っています。​両親の​貴く​清い愛を​尊ばない​人は​いないでしょう。​私たちが神と​交わる​ことができるのも、​実は、​大部分、​親の​おかげなのです。​私は​両親の​愛を​双手で​祝福します。​どうして​「双手で」なのかと​尋ねられれば、​「手は​二本しかないので」と​答えましょう。

​ 夫婦の​愛は​賛美されますように。​ところで、​主は​夫婦愛に​勝る​愛を​私に​お求めに​なりました。​カトリック神学が​認めるように、​天の​王国を​愛するが​ために​イエスだけを​愛し、​イエスを​愛するが​ゆえに​すべての​人々の​ために​自らを​捧げると​いう​愛は、​確かに​「この​神秘は​偉大です」​(偉大な​秘跡)​23と​言われている​結婚、​つまり​夫婦愛よりも、​より​一層貴い愛なのです。

​ 人は​自分の​置かれた​場所で、​独身者であろうと​既婚者であろうと、​あるいは​寡婦であろうと​司祭であろうと、​神から​賜った​召し出しに​応じて​真剣に​貞潔を​守る​努力を​しなければなりません。​貞潔とは​万人が​実行すべき徳であって、​戦いと​細やかさ、​優雅さと​力強さが​なければ​実行できない​徳です。​言い​換えれば、​これほどの​細やかさを​理解できるのは、​十字架上の​イエスヘの​愛に​溢れ、​主の​お傍に​いる​ときのみなのです。​誘惑が​待ち伏せして​攻撃を​しかけてきても、​心配するには​及びません。​感じる​ことと​同意する​こととは​異なります。​その​誘惑も、​神の​お助けが​あれば​容易に​退ける​ことができます。​絶対に​許してはならない​こと、​それは、​誘惑と​話し始める​ことです。

勝つための​手段

貞潔を​守る​戦いで​勝利を​収めるには、​どのような​手段を​使えば​よいのでしょうか。​天使のようにではなく、​健康で​逞しい​<普通の​>男女と​して​戦います。​私は​心の​底から​天使を​敬い、​深い​信仰心で​この​神の​軍団と​心を​ひとつに​していますが、​人間を​天使と​比較するのは​好みません。​天使は​私たちとは​異なる本性を​もっていますから、​同じように​考えると​混乱を​引き起こしてしまうのです。

​ 世界中に​官能に​毒された​雰囲気が​広がり、​それが​曖昧な​教えと​結び​ついた​結果、​多くの​人々が​ありと​あらゆる​過ちを​正当化し、​あるいは​少なくとも、​あらゆる​種類の​ふしだらな​習慣に​対し無関心と​間違った​寛容を​示しています。

​ 私たちは​身体の​清さを​保つため、​できる​限り努力すべきですが、​恐れながらでは​ありません。​性とは​神の​創造の​力に​あずかる​能力であって、​結婚​生活の​ための、​神聖で​貴い能力であるからです。​性を​恐れる​ことなく​自らを​清く​保ちさえ​すれば、​聖なる​純潔とは、​誰もが​保ちうる​美しい​状態である​ことを、​身を​もって​証明する​ことができるはずです。

​ 第一に、​良心を​洗練させなければなりません。​必要な​知識を​深め、​良心を​しっかりと​教育したと​自信を​もって​言えるまで、​言い​換えれば、​神の​恩寵である​真に​繊細な​良心と​「小心」と​称される​良心とを​区別できるまで、​努力を​続けなければなりません。

​ 細やかな心で、​心を​込めて​貞潔を​守りましょう。​貞潔の​侍従とも​護衛とも​言える​節制と​慎みを​育む必要も​あります。​神を​仰ぎ見る​ために、​次のような​手段を​軽々しく​考えないように​気を​つけましょう。​五官と​心を​弛まず​警戒して​罪の​機会から​逃げる​勇気を​もつ、​つまり​勇気を​出して​臆病に​なる​努力を​続け、​秘跡、​特に​ゆる​しの​秘跡に​しばしば​あずかる。​霊的指導を​受けるに​当たって​百パーセント誠実を​保ち、​過ちの​あとでは​痛み、​痛悔、​償いの​心を​もつ。​何にもまして​聖母に​対する​子と​しての​信頼を​保ち、​清く​正しい​生活が​できるよう、​聖母の​執り成しを​願う。​これらの​ことを​大切に​してください。

万一、​不幸にも​罪を​犯したら、​すぐに​起き​上がらねばなりません。​手段を​講じて​戦う​限り、​必ず神の​恩寵を​受ける​ことができますから、​できるだけ早く​痛悔し、​謙虚・誠実な​心で​償いを​果たすのです。​そう​すれば、​一瞬の​敗北も​イエスの​偉大な​勝利に​変わる​ことでしょう。

​ 天守閣から​遠く​離れた​所で​戦うようにしましょう。​悪との​戦いの​前線に​あって、​勝つか​負けるかと​いうような​綱渡り的な​ことは​できません。​罪の​原因に​同意して​それを​受け入れる​ことなど、​もっての​ほかです。​どのように​些細な​ことであっても​愛に​反する​ことで​あれば、​断固と​して​避けなければなりません。​私たちが​実り​多い​使徒職への​熱意を​絶えず増していく​ための​基礎であり、​また​その​顕著な​実りと​なるのが​聖なる​純潔なのです。​さらに、​常に​神の​現存を​保つよう​努力し、​一日を​埋めるに​充分な​仕事を​もち、​毎日​身を​入れて​働く​ことです。​私たちは​高値で​買われた​ものであり、​聖霊の​聖所である​ことを​忘れないために。

​ ほかに​どのような​助言を​すべきでしょうか。​昔から、​真面目に​キリストに​従う​信者が​使ってきた方​法、​キリストの​励ましを​感じながら​初代の​信者が​使っていた​手段、​これらが​私たちの​手段です。​聖体に​現存する​主との​絶え間ない​付き合い、​子供のように​任せ切って​聖母に​馳せ寄る​こと、​謙遜、​節制、​感覚の​犠牲(望むべきではない​ことを​視てはいけないと​大聖グレゴリオは​言っています)24、​そして​償い、​など。

​ 以上​述べてきた​ことは​すべて、​キリスト教的生活と​いう​一語に​要約できると​言えます。​事実、​純潔、​すなわち愛と、​信仰の​本質である​愛徳とを​切り離して​考える​ことは​できません。​私たちを​造り、​贖ってくださった神、​たいていの​場合それとは​気づかないけれども、​常に​手を​とって​導いてくださる​神、​その​神への​愛を​絶えず​新たに​する​こと、​これこそ​貞潔の​徳の​実行なのです。​神は​決して​私たちを​お見捨てには​なりません。​「シオンは​言う。​主は​わたしを​見捨てられた、​わたしの​主は​わたしを​忘れられた、と。​女が​自分の​乳飲み子を​忘れるであろうか。​母親が​自分の​産んだ子を​憐れまないであろうか。​たとえ、​女たちが​忘れようとも、​わたしが​あなたを​忘れる​ことは​決してない」25。​このような​言葉を​聞けば​喜びに​満たされるのではないでしょうか。

地上に​おいて​私たちに​喜びを​与え、​天の​永遠の​幸福にまで​導いてくれる​ものが​三つあると​常々​説いてきました。​すなわち、​信仰と、​召し出しと、​貞潔。​この​三つに​対しては、​堅固で​繊細、​喜びに​溢れて​揺らぐ​ことの​ない​忠実を​保たなければなりません。​道の​脇に​ある​溝、​つまり、​官能や​高慢などに​足を​とられたままに​なって​起き直ろうとも​せず、​自ら​望んで​その​状態に​甘んじる​なら、​キリストの​愛に​背を​向ける​ことに​なり、​不幸に​なる​ほかは​ありません。

​ 重ねて​申しますが、​私たちは​全員​みじめな​存在です。​しかし、​この​惨めさに​よって​神から​遠ざかるのではなく、​あたかも​古代の​戦士が​甲冑に​身を​包んだように、​神の​愛に​身を​包みます。​「お呼びに​なりましたので、​わたしは​ここに​おります26―わたしを​頼りに​してください―」。​これが​私たちの​防禦です。​自分の​脆さを​知ったからと​いって​神から​離れる​わけには​いきません。​神は​私たちを​頼りに​しておられるのですから、​脆さに​打ち勝たねばならないのです。

どう​すれば、​このような​哀れな​状態を​克服できるのでしょうか。​本当に​大切な​ことなので​何度も​繰り返します。​謙遜と、​霊的指導者への​誠実さ、​ゆる​しの​秘跡に​よってである、と。​指導者のもとに​行き、​心を​開きなさい。​心を​閉じては​なりません。​口を​噤ませる​悪魔が​ひとたび​入り込むと、​少々の​ことでは​放り出せないからです。​しつこく​繰り返す​ことを​お許しください。​なにが​なんでも、​ぜひ、​皆さんの​心に​刻みつけて​もらう​必要が​あるので、​言わずには​おれません。​謙遜と​その​直接の​結果である​誠実さは、​他の​色々な​手段と​関係が​あり、​勝利に​至る​ための​基礎のような​ものです。​喋れなくさせる​悪魔は​心に​入る​やいなや​すべてを​腐らせてしまいます。​直ちに​追い​出せば、​すべては​順調に​運びます。​喜びを​取り戻し、​生活は​軌道に​乗る​ことでしょう。​常に​赤裸々なまでに​正直誠実で​ありたい​ものです。​ただし、​礼儀と​賢明さを​忘れないでください。

​ 心と​身体に​ついては、​高慢に​対する​ほどの​心配は​いりません。​しっかりと​頭に​入れておいてください。​謙遜が​大切です。​自分が​正しいと​思う​とき、​実は​全然​正しくないからです。​霊的指導を​受ける​ときは、​隅から​隅まで​心を​開きなさい。​心を​閉じてしまっては​だめです。​繰り返しますが、​いったん口を​噤ませる​悪魔を​迎え入れてしまうと、​追い出すのに​大変骨が​折れます。

​ かわい​そうな​悪魔憑きの​ことを​思い出してください。​弟子たちは​治すことができず、​主だけが、​祈りと​断食に​よってあの​人を​自由に​する​ことが​おできに​なりました。​あの​とき、​主は​三つの​奇跡を​なさったのです。​まず耳を​開かれました。​話す​ことを​妨げる​悪魔に​支配されると、​人は​耳を​貸さなくなるのです。​次に​口を​開いて​やり、​最後に​悪魔を​追い出されました。

知られたくない​ことを​最初に​話しなさい。​悪魔を​踏みつけるのです。​小さな​問題でも​何度も​考えている​うちに​雪だる​まのように​どんどん​大きくなり、​やがて​自分の​殻に​閉じこもってしまう。​どうして​そんな​ことを​するのですか。​心を​開きなさい。​正直誠実で​あれば、​あなたの​幸福を、つまり​信者と​しての​道を​忠実に​歩むことができると​保証します。​表裏のない​澄みきった​心、​これこそ​絶対に​欠かす​ことのできない​心構えです。​心を​思い切り開いて、​隅から​隅まで​神の​光と​暖かい​愛が​ゆきわたるようにしなければならないのです。

​ 百パーセント誠実である​ことを​止めるには、​必ずしも​悪い​意向が​必要であるとは​限りません。​時には​良心の​過ち​一つで​充分でしょう。​良心が​歪んでいるので、​誠実でない​態度や​沈黙が​正しいと​思い込んでいる​人が​いるのです。​この​種の​過ちは、​立派な​形成を​受け、​神に​関する​知識も​しっかりしていると​思われる​人にも​起こります。​よい​形成と​深い​知識が​あるが​ゆえに、​沈黙は​正しいと​判断するのでしょうが、​実は​欺かれているのです。​誠実さは​常に​必要で、​言い訳は、​たとえ当然であると​思える​ときにも、​認めるわけには​ゆきません。

​ そろそろこの​語らいの​ひと​ときを​終えなければなりません。​私たちは​主との​語り合いを​続けてきましたが、​ここで​貞潔と​いう​キリスト教的徳を​積極的に​生きる​ことのできる​恵みを​お願いしましよう。

​ 無原罪の​清さを​保つ聖マリアの​執り成しを​お願いしましょう。​美の​美である​聖母のもとに​駆け寄り、​謙遜になろう、​清い​生活を​送ろう、​誠実に​なり喜びに​溢れ、​物惜しみしない​生き方を​しようと、​日々​戦いながら心に​不安を​感じていた​人たちに、​昔、​私が​与えた​勧めを​繰り返したいと​思います。​「生涯の​あらゆる​罪がの​しかかってくるようだ。​しかし、​信頼を​失ってはならない。​むしろ反対に、​幼児のような​信仰と​依託の​心で、​聖母マリアを​お呼びしなさい。​聖母は​心に​安らぎを​与えてくださるだろう」27。

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