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愛と​貞潔

以前にもしばしば​お話ししましたが、​私の​場合、​主との​親交を​温める​ために、​愛を​テーマに​した​ポピュラー・ソングが​役に​立ちます。​こんな​ことを​知られても​恥ずかしいとは​思いません。​皆さんの​うちの​幾人かと​私を​お選びに​なった​主は、​すべてを​捧げるようにと​望んで​おられます。​私たちは​愛の​歌を​超自然の​レベルに​高めなければなりません。​旧約の​雅歌は、​聖霊が​そのようになさった​ものであり、​あらゆる​時代の​偉大な​神秘家たちも​同様に​してきました。

​ 聖テレジアの​次の​詩句を​読み直してみましょう。​「私の​憩いを​お望みなら、​愛の​ために​憩います。​私の​働きを​お命じに​なるのなら、​働きつつ死に​ましょう。​おっしゃってください。​いつ、​どこで、​どのように​すれば​よいのでしょうか。​お教えください。​甘美な愛よ、​私が​どうする​ことを​お望みかを」21。​十字架の​聖ヨハネの​歌は​どうでしょう。​「一人、​愛に​悩む羊飼い。​喜びも​満足も​忘れて、​思いは​あの​女牧者のもとに。​胸は​愛に​焦がれて」22。​私は​人間同士の​愛を、​それが​清い愛である​限り、​言葉で​表現できない​ほど​尊び、​そして、​敬いたいと​思っています。​両親の​貴く​清い愛を​尊ばない​人は​いないでしょう。​私たちが神と​交わる​ことができるのも、​実は、​大部分、​親の​おかげなのです。​私は​両親の​愛を​双手で​祝福します。​どうして​「双手で」なのかと​尋ねられれば、​「手は​二本しかないので」と​答えましょう。

​ 夫婦の​愛は​賛美されますように。​ところで、​主は​夫婦愛に​勝る​愛を​私に​お求めに​なりました。​カトリック神学が​認めるように、​天の​王国を​愛するが​ために​イエスだけを​愛し、​イエスを​愛するが​ゆえに​すべての​人々の​ために​自らを​捧げると​いう​愛は、​確かに​「この​神秘は​偉大です」​(偉大な​秘跡)​23と​言われている​結婚、​つまり​夫婦愛よりも、​より​一層貴い愛なのです。

​ 人は​自分の​置かれた​場所で、​独身者であろうと​既婚者であろうと、​あるいは​寡婦であろうと​司祭であろうと、​神から​賜った​召し出しに​応じて​真剣に​貞潔を​守る​努力を​しなければなりません。​貞潔とは​万人が​実行すべき徳であって、​戦いと​細やかさ、​優雅さと​力強さが​なければ​実行できない​徳です。​言い​換えれば、​これほどの​細やかさを​理解できるのは、​十字架上の​イエスヘの​愛に​溢れ、​主の​お傍に​いる​ときのみなのです。​誘惑が​待ち伏せして​攻撃を​しかけてきても、​心配するには​及びません。​感じる​ことと​同意する​こととは​異なります。​その​誘惑も、​神の​お助けが​あれば​容易に​退ける​ことができます。​絶対に​許してはならない​こと、​それは、​誘惑と​話し始める​ことです。

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