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パンと​刈り​入れ ― 全人​類との​交わり

 最初に​お話ししたように、​イエスは​種蒔き人です。​キリスト信者を​使って​主は​種を​蒔き続けておられます。​キリストは、​傷ついた​手で​麦を​握り​締め、​麦を​御血に​ひたして​浄めた後、​畑の​畝、​つまり​世界中に​お蒔きに​なりますが、​麦粒を​一粒ずつ蒔いていかれます。​キリスト信者が​めいめい​自らが​置かれた​場で、​主の​ご死去と​ご復活の​豊かな​実りを​証明する​ために。

​ キリストの​手の​中に​いるのですから、​私たちは​救い主の​血に​ひたされ、​宙に​蒔かれるに​任せ、​神が​お望みに​なるままの​生活を​受け入れる​べきです。​実を​結ぶ​ためには、​種が​土に​埋められて死ななければならず、​その後で、​茎が、​そして​穂が​出る​ことを​17、​実を​結ぶのは​芽を​吹き、​穂が​出た後である​ことを​納得しなければなりません。​姿を​現した​穂から、​神が​キリストの​体に​変える​パンが​作られるのです。​このように​して​私たちは、​種蒔き人であった​キリストに​再び一致する​ことができます。​「パンは​一つだから、​わたしたちは​大勢でも​一つの​体です。​皆が​一つの​パンを​分けて​食べるからです」18。

​ まず種を​蒔かなければ、​実は​結びません。​従って、​神の​言葉を​ふんだんに​〈撒き散らし〉、​人々に​キリストを​知らせて、​人々が​さらに​キリストを​知ろうと​望むよう​努める​必要が​あるのです。​キリストの​体、​生命の​パンである​聖体の​祝日こそ、​人々が​真理や​正義、​一致と​平和を​渇望する​状態を​黙想する​ために​よい​機会です。​平和を​渇望する​人には、​聖パウロと​共に、​「キリストは​わたしたちの​平和であります」​19と​繰り返し、​真理を​望む人には、​イエスこそ、​「道であり、​真理であり、​命である」20ことを​思い出させるのです。​一致を​望む人が​いれば、​「(すべての​人が)​完全に​一つに​なるように」21と​望むキリストの​前に​連れて​行き、​正義を​渇望する​人が​あれば、​人々の​一致の​根源、​つまり​私たちは​皆、​神の​子であり互いに​兄弟であると​いう​事実を​自覚させてやらなければならないのです。

​ 平和、​真理、​一致、​正義と​言いますが、​人間の​共存を​妨げる​障害を​乗り越える​ことは、​時に​なんと​難しく​思われる​ことでしょう。​しかし​キリスト信者は、​〈兄弟愛と​いう​大きな​奇跡〉を​行うよう召されています。​神の​助けに​よって、​人々が​キリスト教的に​接し合い、​「互いに​重荷を​担い」​22、​完徳の​結びで​あり掟の​要約である​23愛の​掟を​実行するよう努力する​ために​仕事を​与えられているのです。

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