聖体の祝日に(キリストの体)

1964年5月28日 聖体の祝日


​今日は​聖体の​祝日です。​そこで、​秘跡の​外観の​もとに​隠れる​ことを​お望みに​なる​ほどの、​主の​深い​愛に​ついて​共に​黙想したいと​思います。​群衆を​前に​した主の​教えが​実際に​耳に​響いて​来るようです。​「種を​蒔く​人が​種蒔きに​出て​行った。​蒔いている​間に、​ある​種は​道端に​落ち、​鳥が​来て​食べてしまった。​ほかの​種は、​石だらけで​土の​少ない​所に​落ち、​そこは​土が​浅いのですぐ芽を​出した。​しかし、​日が​昇ると​焼けて、​根が​ないために​枯れてしまった。​ほかの​種は​茨の​間に​落ち、​茨が​伸びて​それを​ふさいでしまった。​ところが、​ほかの​種は、​良い​土地に​落ち、​実を​結んで、​ある​ものは​百倍、​ある​ものは​六十倍、​ある​ものは​三十倍にもなった」1。

​ この​有様は​今も​続いています。​神である​種蒔き人は​今も​種を​蒔いておられます。​救いの​業は​まだ​続行されており、​主は​その​ために​私たちを​お使いに​なりたいのです。​つまり、​キリスト信者が​地上の​あらゆる​ところで​主の​愛の​ために​道を​切り拓く​よう、​お望みです。​言葉と​模範で、​地の​果てまで​神の​教えを​広めるように​招いておられるのです。​私たちは​教会や​社会の​一員と​しての​義務を​忠実に​果た​しつつ、​各自もう​一人の​キリストと​なって、​自らの​職業や​義務を​聖化しなければなりません。

​ 神の​手から​出た​この​愛すべき世界、​私たちを​取り巻く​世界を​見るならば、​あのたとえ話の​場面が​実際に​実現しているのに​気づきます。​イエス・キリストの​言葉は​実り豊かで、​多くの​人に​自己を​捧げ、​忠誠を​尽く​そうと​いう​望みを​起こさせるのです。​神に​仕える​人々の​生涯や​その​振舞いは​歴史を​変えました。​そして​さらに、​神に​ついて​知らない​多くの​人々も、​気づかないうちに、​キリスト教に​由来する​理想を​求めて​生活しているのです。

​ 一部の​種は​不毛の​地や​茨や​あざみの​中に​落ちたことも​事実です。​信仰の​光に​対して​自らを​閉ざす​人々が​います。​平和や​和解、​兄弟愛などの​理想は​歓迎され、​大声で​叫ばれていますが、​その​理想と​行いとは​裏腹である​ことも​多いのです。​ある​人々は​暴力に​訴え、​また​ある​人々は​心を​無感覚に​する​無関心と​いう​残酷な​武器を​用いて、​神の​声が​広まらないうちに​抑え込も​うと​空しい​努力を​繰り返しています。

永遠の​生命の​パン

 このような​ことを​考えた後で、​キリスト信者と​しての​使命を​再認識すると​共に、​「あなたがたは​キリストの​体であり、​また、​一人​一人は​その​部分です」2と​言われるように、​キリストの​肢体と​なった​私たちの​中に​おられる​イエスを、聖体の​うちに​見つめたい​ものです。​神が​聖櫃の​中に​留まる​決心を​されたのは、​私たちに​食物を​与え、​強め、​神に​近い​ものとし、​私たちの​努力や業を​効果ある​ものとする​ためでした。​イエスは、​同時に​種蒔き人であり、​種、​そして​種蒔きの​結実、​つまり​永遠の​生命の​パンでもあります。

​ 絶えず​繰り返される​聖体の​奇跡に​おいて、​イエスの​生活​その​ものが​再現されていると​言えます。​完全な​神・完全な​人である​天と​地の​主は、​最も​ありふれた​食物と​なって​自らを​与え、​二千年も​前から​私たちの​愛を​待っておられるのです。​二千年と​言えば​長い​時間のようですが、​実は​そうでは​ありません。​愛が​あれば​月日は​瞬く​間に​過ぎ去ってしまうからです。

​ アルフォンソ賢王が​ガリシア語で​書いた​見事な​賛歌の​一節が​頭に​浮かん​できます。​ある​素朴な​修道士が、​たとえ一瞬でも​よいから​天国を​垣間みたいと​聖マリアに​願った​伝説の​ことです。​聖母は​その​願いを​お聞き​入れに​なり、​善良な​修道士は​天国に​上げられました。​ところが、​彼が​修道院に​戻ってみると、​顔見知りの​人は​誰もいなかったのです。​彼には​一瞬に​思われた​祈りが、​実に​三世紀も​続いていたからです。​三世紀と​言っても​愛する​心に​とっては​束の​間に​すぎません。​聖体に​おいて​二千年も​待っておられる​主の​ことも、​このように​考えると​納得できそうに​思えます。​私たちを​愛し、​探し求める​主、​わが​ままで​利己主義で、​心変わりしやすいけれども、​無限の​愛を​見出して​主に​完全に​捧げ尽く​すことのできる​私たちを、​ありのまま​愛する​主が​待っていてくださるのです。

​ イエス・キリストが​地上に​来られ、​そして​聖体に​おいて​人々の​間に​留まられたのは、​愛の​ため、​そして​愛する​ことを​教える​ためでした。​「世に​いる​弟子たちを​愛して、​この​上なく​愛し抜かれた」3と​いう​一節を​もって、​聖ヨハネは​過越祭の​前日に​起こった​出来事の​冒頭を​飾っています。​そして、​その晩の​様子を​聖パウロは​次のように​描写しています。​「主イエスは、​(…)、​パンを​取り、​感謝の​祈りを​ささげて​それを​裂き、​『これは、​あなたが​たの​ための​わたしの​体である。​わたしの​記念と​して​このように​行いなさい』と​言われました。​また、​食事の​後で、​杯も​同じように​して、​『この​杯は、​わたしの​血に​よって​立てられる​新しい​契約である。​飲む度に、​わたしの​記念と​して​このように​行いなさい』と​言われました」4。

新しい​生活

 新約が​成立する​簡素で​あり厳かな​瞬間です。​イエスは、​古い掟を​廃止され、​自らが​私たちの​祈りと​生活の​中味と​なるであろう​ことを​お示しに​なりました。

​ 今日の​典礼の​中に​みなぎる​喜びを​味わってください。​「響き渡る​高らかな​称賛を​歌え。​喜びと​尊さに​満ちた​ものであれ」5。​新しい​時の​訪れを​歌う​キリスト信者の​喜びを​歌っているのです。​「古い​過越が​終わりを​告げ、​新しい​過越が​定められた。​古い式は​終わって、​新しい​式に​席を​譲った。​こうして​実体が​影を​追い出し、​光が​闇を​消し去った」6。

​ 愛の​奇跡です。​「子らの​まことの​パンである」7永遠の​父の​長子・イエスは、​食物と​して​自らを​お与えに​なりました。​この​世に​あって​力を​お与えに​なる​イエス・キリストご自身が、​天では​「主の​食卓に​われらを​座らせ、​天の​聖人たちの​仲間、​世継に​する」​8ために​私たちを​待っておられます。​キリストは​不滅の​生命ですから、​「キリストから​栄養を​摂る​者は、​この​世では​死んでも、​永遠に​生きる」​9からです。

​ 決定的な​マンナである​聖体で​強められた​キリスト者に​とって、​永遠の​幸福は​すでに​始まっています。​古い​ものは​過ぎ去りました。​古びた​ものなど、​必要では​ありません。​「心も、​言葉も、​行いも」10、​私たちに​とって​全く​新しい​ものでありますように。

​ これが​〈新しい​よい​知らせ〉です。​〈新しい​〉と​いうのは、​かつては​想像も​できなかった​ほど​深遠な​愛を​告げる​知らせであるから、​また、​〈よい​知らせ〉と​いうのは、​すべての​善の​中で​最高の​善である​神と​親密に​一致する​ことほど​良い​ことは​他に​ないからです。​そして​〈新しい​よい​知らせ〉と​いうのは、​何らかの​形で、としか​言いようの​ない​方​法で、​今から​永遠の​生命に​あずかる​ことを​可能に​してくれるからです。

言葉と​パンに​おける​イエスとの​交わり

 イエスは​祭壇の​いとも​聖なる​秘跡に​隠れておられます。​私たちが​敢えて​主と​交わり、​主と​一つに​なる​ために、​イエスは​私たちの​糧と​なってくださったのです。​「わたしに​つながっていない​人が​いれば、​枝のように​外に​投げ捨てられて​枯れる」11と​言われましたが、​キリスト信者には​何も​できないと​決めつけられたのでも、​困難に​困難を​重ねて​キリストを​探し求めるよう​要求されたのでもありません。​私た​ちがいつでも​主に​近づく​ことができるようにと、​人々の​間に​留まってくださったのです。

​ ミサ聖祭の​犠牲の​ために​祭壇の​前に​集う​とき、​聖体顕示台に​安置された​聖体を​眺めて​黙想する​とき、​あるいは​聖櫃の​中に​隠れておられる​主を​礼拝する​とき、​再び信仰を​燃え立たせ、​人々の​傍に​おられる​主の​新たな​現存に​ついて​考え、​神の​優しさと​愛の​深さに​心打たれる​ことでしょう。

​ ​「彼らは、​使徒の​教え、​相互の​交わり、​パンを​裂く​こと、​祈る​ことに​熱心であった」12。​初代信者の​生活に​ついて、​聖書には​このように​記されてあります。​信者たちは、​使徒たちの​信仰と​完全な​一致を​保ち、​聖体に​あずかり、​心を​ひとつに​して​祈っていました。​信仰と​パンと​言葉に​おける​集いだったのです。

​ 聖体は​人々の​霊魂に​おける​イエスの​現存と​世界を​支える​力の​保証であり、​世の​終わりに、​父である​神、​子である​神、​聖霊なる​神、​つまり​唯一の​神の​至聖なる​三位一体の​玉座、​天の​住家に​永遠に​住まわせようと​いう、​救いの​約束の​確かな​保証でもあります。​キリストご自身と、​パンとぶどう​酒の​外観の​下に​実際に​現存なさる​イエスを​信じるなら、​私たちの​全信仰を​表明する​ことに​なるのです。

言葉と​パン、​祈りと​聖体に​おいでになる​イエスと​絶え​ざる​交わりを​もたないで、​キリスト信者らしく​生きる​ことができるとは​思えません。​しかし、​何世紀にも​わたって​代々の​信者が​聖体への​信心を​具体化してきた​理由は​よく​わかるのです。​ある​ときは​公に​信仰を​宣言する​大衆的な​行事を​もって、​また​ある​ときは、​教会内の​神聖で​平和な​雰囲気の​うちに、​あるいは​心の​奥底で​沈黙の​うちに​人々は​代々聖体への​信心を​表してきたのです。

​ 何を​差し置いても、​一日の​中心である​ミサ聖祭を​大切にしなければなりません。​よい​準備を​して​ミサ聖祭に​あずかる​ならば、​一日中、​主が​働かれたように​働き、​主が​愛されたように​愛する​ために、​主の​傍から​離れまいと​する​意気に​満たされて、​当然のように​主の​ことを​思い続けるのです。​そう​すれば、​主の​もう​一つの​心遣いに​感謝するようになる​ことでしょう。​主は、​ミサの​犠牲が​捧げられる​ときのみ​祭壇に​留まってくださるだけでなく、​聖櫃の​中に​安置される​聖なる​ホスチアの​もとに​いつも​現存する​ことになさったのです。

​ 私に​とって、​聖櫃は​常に​キリストが​おられる​落ち着いた​静かな​ベタニアであります。​主の​友である​マルタと​マリア、​ラザロが​単純率直に​主に​語りかけたのと​同じように、​聖櫃の​前で​私たちの​心配事や​苦しみ、​希望や​喜びに​ついて​主に​お話しする​ことができるのです。​ですから、​どこかの​街角に、​遠くから​でも​教会の​塔を​見つけると​とても​嬉しくなります。​そこには​もう​一つの​聖櫃が​あるから、​また、​秘跡に​おられる​主と​一緒に​いたいと​いう​気持ちにかられて、​聖櫃に​思いを​馳せる​機会と​なるからです。

聖体の​豊かさ

 主が​聖体の​秘跡を​制定されたのは​最後の​晩餐の​ときでした。​聖ヨハネ・クリゾストムは、​「夜であったことに​より、​時が​満ちた​ことを​明らかに​したのである」13と​言っています。​世界は​夜の​闇に​包まれていました。​古い​儀式や、​神の​無限の​慈悲である​古いしるしは​過ぎ去り、​新たな​過越、​真の​夜明けが​訪れたからです。​聖体の​秘跡は​夜の​間に​制定され、​復活の​朝を​前もって​準備しました。

​ 私たちの​生活も​黎明を​迎える​準備を​しなければなりません。​はかない​ものや​危険な​ものは​すべて、​また、​失望、​不信、​悲嘆、​卑怯など役に​立たない​ものは​すべて​捨て​去らなければならないのです。​聖体は​神の​子ども​たちに​神的な​新しさを​与えたのです。​従って、​気持ちや​振舞いを​一新し、​「心を​新たに​して」14、​この​恩恵に​応えなければなりません。​私たちには、​活力の​新たな​原理である​強力な根、​主に​接ぎ木された​根が​与えられました。​今日の、​そして​永遠に​続く​〈パン〉を​持っている​私たちが​古いパン種に​戻る​ことはもはやできない​相談なのです。

今日の​祝日には、​世界中至る​ところで​信者が​聖体行列に​加わります。​主は​ホスチアに​隠れて、​かつての​地上での​生活の​ときのように、​通りや​広場を​通り抜け、​主に​会いたいと​望む​人々を​待ち受け、​主を​探し求めない​人々には​偶然会ったような​ふりを​されます。​このように​イエスは、​〈ご自分の​人々の​間〉に、​お現れに​なるのです。​主の​この​呼びかけに​対して​どう​応えれば​よいのでしょうか。

​ 愛の​外的表現は、​心から​生まれなければならず、​また、​信者らしい​振舞いと​なって​継続しなければなりません。​主の​御体を​拝領して​新たに​されたのであれば、​その​事実を​行いに​表さなければならないのです。​私たちは​心から​平和と​献身と​奉仕を​望まなければならず、​私たちの​言葉は、​人を​慰め、​助ける​言葉でなければなりませんが、​特に​神の​光を​人に​伝える​ことができるよう、​真実に​して​明白かつ適切であるべきです。​そして​振舞いは、​主の​業や​生活を​想起させる​もの、​つまり、​「キリストの​良い​香り」15を​振り撒く、​首尾一貫した、​的確で​効果的な​ものでなければならないのです。

​ 聖体​行列に​よって、​キリストは​津々​浦々に​来てくださいます。​せっかく​キリストが​来られるのですから、​その​日限りの​行事で​終えてしまったり、​聞いては​忘れ去る​騒音であったりしては​残念な​ことです。​イエスが​お通りに​なる​とき、​日常の​些細な​事柄にも​主を​見つける​べきことを​思い​起こしましょう。​この​木曜日の​荘厳な​行列とともに、​黙々とした、​慎ましい​日常生活と​いう​行列が​なければなりません。​信者は​人々と​変わらない​毎日を​送りますが、​神的使命と​信仰を​受ける​幸運に​恵まれて、​再び地上に​主の​指針を​告げ知らせなければならないのです。​私た​ちが​過失や​惨めさや​罪から​解放される​ことは​ないでしょう。​しかし神は​人々と​共に​おいでになります。​わたしたちは​主が​絶えず​人々の​傍らを​お通りに​なることができるよう主の​道具の​働きを​しなければなりません。

​ 聖体を​愛する​心を​くださるように、​また、​主との​個人的な​交わりが​喜びや​落ち着き、​正義への​渇きとなって​表れる​よう、​主に​お願い​したい​ものです。​そして​人々が​もっと​容易に​キリストを​認めうるよう​援助し、​人々の​活動の​頂点に​キリストを​据えるべく​力を​尽くしたいと​思うのです。​そう​すれば、​「わたしは​地上から​上げられる​とき、​すべての​人を​自分の​もと​へ​引き寄せよう」16と​いう​キリストの​約束が​実現するのです。

パンと​刈り​入れ ― 全人​類との​交わり

 最初に​お話ししたように、​イエスは​種蒔き人です。​キリスト信者を​使って​主は​種を​蒔き続けておられます。​キリストは、​傷ついた​手で​麦を​握り​締め、​麦を​御血に​ひたして​浄めた後、​畑の​畝、​つまり​世界中に​お蒔きに​なりますが、​麦粒を​一粒ずつ蒔いていかれます。​キリスト信者が​めいめい​自らが​置かれた​場で、​主の​ご死去と​ご復活の​豊かな​実りを​証明する​ために。

​ キリストの​手の​中に​いるのですから、​私たちは​救い主の​血に​ひたされ、​宙に​蒔かれるに​任せ、​神が​お望みに​なるままの​生活を​受け入れる​べきです。​実を​結ぶ​ためには、​種が​土に​埋められて死ななければならず、​その後で、​茎が、​そして​穂が​出る​ことを​17、​実を​結ぶのは​芽を​吹き、​穂が​出た後である​ことを​納得しなければなりません。​姿を​現した​穂から、​神が​キリストの​体に​変える​パンが​作られるのです。​このように​して​私たちは、​種蒔き人であった​キリストに​再び一致する​ことができます。​「パンは​一つだから、​わたしたちは​大勢でも​一つの​体です。​皆が​一つの​パンを​分けて​食べるからです」18。

​ まず種を​蒔かなければ、​実は​結びません。​従って、​神の​言葉を​ふんだんに​〈撒き散らし〉、​人々に​キリストを​知らせて、​人々が​さらに​キリストを​知ろうと​望むよう​努める​必要が​あるのです。​キリストの​体、​生命の​パンである​聖体の​祝日こそ、​人々が​真理や​正義、​一致と​平和を​渇望する​状態を​黙想する​ために​よい​機会です。​平和を​渇望する​人には、​聖パウロと​共に、​「キリストは​わたしたちの​平和であります」​19と​繰り返し、​真理を​望む人には、​イエスこそ、​「道であり、​真理であり、​命である」20ことを​思い出させるのです。​一致を​望む人が​いれば、​「(すべての​人が)​完全に​一つに​なるように」21と​望むキリストの​前に​連れて​行き、​正義を​渇望する​人が​あれば、​人々の​一致の​根源、​つまり​私たちは​皆、​神の​子であり互いに​兄弟であると​いう​事実を​自覚させてやらなければならないのです。

​ 平和、​真理、​一致、​正義と​言いますが、​人間の​共存を​妨げる​障害を​乗り越える​ことは、​時に​なんと​難しく​思われる​ことでしょう。​しかし​キリスト信者は、​〈兄弟愛と​いう​大きな​奇跡〉を​行うよう召されています。​神の​助けに​よって、​人々が​キリスト教的に​接し合い、​「互いに​重荷を​担い」​22、​完徳の​結びで​あり掟の​要約である​23愛の​掟を​実行するよう努力する​ために​仕事を​与えられているのです。

な​すべきことが​多く​残されている​ことは​否めません。​ある​時、​もう​色づいた​穂が​風に​流されて​動くのを​見ておられた​時の​ことでしょう。​イエスは​弟子たちに​言われました。​「収穫は​多いが、​働き手が​少ない。​だから、​収穫の​ために​働き手を​送ってくださるように、​収穫の​主に​願いなさい」24。​あの​時と​同じく​今日でも、​「一日の​労苦と​暑さ」​25に​耐えて​働く、​雇われ人は​相変らず​不足しています。​もし、​すでに​雇われている​私たちが​忠実でないならば、​ヨエルの​預言通りに​なる​恐れが​あります。​「畑は​略奪され、​地は​嘆く。​穀物は​略奪され、​ぶどうの​実は​枯れ尽くし、​オリーブの​木は​衰えてしまった。​農夫は​恥じ、​ぶどう​作りは​泣き叫ぶ。​小麦と​大麦、​畑の​実りは​失われた」26。

​ 間断なく​寛大に​仕事を​受け入れる​心づもりが​なければ、​つまり、​土地を​耕し、​種を​蒔き、​畑の​手入れを​し、​刈り​入れと​脱穀まで、​時には​長期に​わたる​辛い​仕事を​続ける​用意が​なければ、​収穫は​期待できないのです。​天の​国は​歴史に​おいて、​時間の​中で​建設されます。​そして​神は​この​天国の​建設を​私たち全員に​託されました。​誰も​免除されていないのです。​聖体に​おられる​キリストを、​今日、​礼拝し、​眺める​とき、​まだ​休息の​ときは​来ていない​こと、​労働時間が​まだ​続いている​ことを​考えたい​ものです。

​ 箴言には、​「自分の​土地を​耕す人は​パンに​飽き足りる」27と​記してありますが、​この​一節を​霊的に、​私たちに​当てはめれば​どうなるでしょうか。​神の​畑を​耕さず、​身を​挺して​キリストを​伝えて​神の​使命を​忠実に​果たさない​人は、​聖体の​パンの​何たるかを​理解できない​ことでしょう。​苦労せずに​手に​入れた​ものを、​誰も​あまり​大切に​しないからです。​聖体を​大切にし、​そして​愛するには、​イエスの​お通りに​なった​道を​歩まなければなりません。​つまり、​麦粒と​なって​自らに​死んだ後、​活力に​溢れて​復活して、​豊かに​実り、​百倍の​実を​結ぶのです28。

​ このような​道は​〈愛の​道〉と​呼ぶことができます。​〈愛する​〉とは、​広い心を​もち、​まわりの​人々の​心配事を​他人事と​考えず、​また、​隣人を​赦し理解できる​こと、​言い​換えれば、​イエス・キリストと​共に​すべての​人の​ために​自らを​犠牲に​する​ことなのです。​キリストと​同じ心で​愛するなら、​実際に​仕える​ことができるはずであり、​愛を​もって​真理を​守る​ことができるでしょう。​キリストと​同じ心で​愛するには、​私たちの​心の​中に​あって​キリストの​存在を​妨げる​もの、​すなわち、​安易な​生活への​執着、​利己主義への​誘惑、​自己顕示の​傾向などを​すべて​取り​除き、​毅然とした​態度を​維持しなければなりません。​私たちの​中に​キリストの​生命を​再現した​とき​はじめて、​人々にも​キリストの​生命を​伝える​ことができるからです。​麦の​粒のように​死を​経験して​のみ、​この​世の​直中で​働き、​世界を​内部から​変え、​実り​豊かに​する​ことができるのです。

キリスト教的楽観

 時には、​このような​ことは​すべて​美しく​立派であるが、​実現不可能な​夢に​等しいと​考える​誘惑に​襲われるかも​知れません。​しかし、​信仰と​希望を​新たに​する​ことに​ついて​考えたばかりです。​私たちの​夢は​神の​素晴らしい​働きに​よって​こと​ごとく​実現されると​いう​絶対的な​確信を​持ち、​毅然と​して​踏みと​どまりましょう。​ただし、​その​ためには、​希望と​いう​キリスト教的徳を​しっかりと​身に​着けなければなりません。

​ 主が​毎日​司祭の​手の​中に​降りて​来られると​いう​驚くべき奇跡、​目前で​実現する​奇跡に​慣れてしまっては​大変です。​イエスは​私たちが​目覚めているよう​望んで​おられます。​主の​力の​偉大さに​気づく​ために、​また、​「わたしに​ついて​来なさい。​人間を​とる​漁師にしよう」29。​すなわち、​あなた方が​効果的に​働き、​人々を​神の​方​へ​引き寄せる​ことができるようにと​いう​主の​約束を​再び聞く​ためなのです。​ですから、​主の​言葉に​信頼しなければなりません。​舟に​乗って​櫂を​操り、​帆を​あげて、​キリストが​遺産と​して​残された​世界と​いう​海に​漕ぎ出すのです。​「沖に​漕ぎ出して​網を​降ろし、​漁を​しなさい」30。

​ キリストが​心の​中に​灯された​使徒的熱意を、​偽りの​謙遜に​よって​冷ましたり、​失ったりしては​なりません。​私たちが​無力で​哀れな​存在である​ことは​事実ですが、​主が​私たちの​過ちを​ご存じの​上で​お呼びに​なったことも​事実なのです。​人間の​限界や​弱さ、​不完全、​罪への​傾きなどが、​神の​慈悲深い目に​留まらない​ことは​あり得ません。​けれども、​主は​戦いを​要求し、​欠点を​認めるよう​求めて​おられます、​おじけづく​ためではなく、​痛悔して​自己改善の​望みを​強める​ために。

​ さらに、​道具に​すぎない​自分を​常に​自覚しているべきです。​「ある​人が​『わたしは​パウロに​つく』と​言い、​他の​人が​『わたしは​アポロに』などと​言っていると​すれば、​あなたがたは、​ただの​人に​すぎないでは​ありませんか。​アポロとは​何者か。​また、​パウロとは​何者か。​この​二人は、​あなたが​たを​信仰に​導く​ために​それぞれ主が​お与えに​なった​分に​応じて​仕えた者です。​わたしは​植え、​アポロは​水を​注いだ。​しかし、​成長させてくださったのは​神です」31。​私たちが​伝えるべき​教えや​使信には、​固有の​豊かさ、​無限の​豊かさが​備わっていますが、​それを​付与したのは​私たちではなく、​キリストであります。​救いの​業を​続け、​世の​贖いを​実現しておられるのは​神ご自身なのです。

失望感に​押し流される​ことも、​あまりにも​人間的な​打算に​拘泥する​こともなく、​確たる​信仰を​持ちたい​ものです。​障害を​乗り越える​ためには、​まず​働き​始めなければなりません。​そして、​ひたすら​仕事に​専念するのです。​そう​すれば、​仕事に​専念しようと​いう​努力が​新しい​道を​拓いてくれますから。​どんな​困難にも​役立つ〈万能薬〉、​それは​聖性と​神への​献身であると​言えましょう。

​ 聖人とは、​天の​御父が​お定めに​なった​通りに​生きる​人の​ことです。​聖人に​なるなど、​難しい​ことだと​言えるかも​知れません。​確かに​高い​理想には​違い​ありませんから。​しかし、​同時に​容易だとも​言えるのです。​手の​届く​所に​あるのです。​病気に​罹った​とき、​薬が​手に​入らない​ことが​時々ありますが、​超自然的な​ことに​おいては、​こんな​ことは​ありません。​薬は​いつも​手近に​あります、​つまり、​聖体に​現存する​キリスト、​それのみならず制定な​さった​他の​秘跡に​よっても​恩恵を​与えてくださるのです。

​ 言葉と​行いを​もって​繰り返しましょう。​「主よ、​あなたに​信頼いたします。​私には​あなたのいつもの​心遣いと​日々の​助けだけで​十分です」。​大きな​奇跡を​神に​求める​必要は​ありません。​けれども、​信仰を​強め、​知性を​照らし、​意志を​強めてくださる​よう​お願い​すべきです。​イエスは​いつも​私たちの​傍に​いて、​神に​相応しい​助けを​与えてくださるからです。

​ 私は​司祭と​しての​生活を​始めた​ときから、​誤った​〈神化〉に​ついていつも​注意を​促して​来ました。​ありのままの​姿、​泥で​できている​自分を​見ても​心を​乱しては​なりません。​心配する​必要は​ないのです。​あなたも​私も​神の​子であり ― これが​正しい​〈神化〉です ― 永遠の​昔から​神の​召し出しに​よって​選ばれているのです。​「天地創造の​前に、​神は​わたしたちを​愛して、​御自分の​前で​聖なる者、​汚れの​ない​者にしようと、​キリストに​おいて​お選びに​なりました」32。​ですから、​私たちは​神の​もの、​哀れで​惨めな​存在では​あっても、​神の​道具と​なった身ですから、​自らの​弱さを​忘れない​限り効果的な​働きが​できるのです。​誘惑は​私た​ちがどれほど​弱いかを​教えるだけである​ことを​忘れずに​おきましょう。

​ 自らの​弱さを​嫌と​いう​ほど​味わったとしても、​その​ときこそ神の​手に​すべてを​委ねる​ときです。​伝説に​よると、​ある​とき、​アレキサンダー大王は​施しを​願う​物乞いに​会いましたが、​大王は​立ち止まって​その​男を​五つの​都市の​領主に​するように​命じたのです。​男は​驚き、うろたえて​叫びました。​「そんなに​大層な​ことは、​願っておりません」と。​すると​大王は、​「お前に​相応しい​ことを​お前は​願った。​それで、​私は​私に​相応しい​施し方を​したのだ」と​答えたのです。

​ 力の​限界を​痛感する​時には​な​おさらの​こと、​父である​神、​子である​神、​聖霊なる​神に​眼差しを​向け、​神の​生命に​あずかっている​ことを​自覚しなければなりません。​主が​傍に​いてくださるのですから、​後ろを​顧みる​33理由など​あり得ないのです。​忠義・忠節を​尽くし、​頑張って​義務を​果たしましょう。​他人の​過ちを​理解し、​自らの​過失を​乗り越える​ための​愛と​励ましを​イエスに​求めましょう。​そう​すれば、​失望落胆は​すべて、​あなたと​私の​失望も​全人​類の​落胆も、​キリストのみ​国を​支える​柱と​なる​ことでしょう。

​ 自らの​病を​認めると​同時に、​神の​力に​対する​信仰を​告白したい​ものです。​楽観と​喜び、​さらに、​神に​役立つ道具であると​いう​確信、​これらが​キリスト信者の​生活の​隅々まで​行きわたらなければなりません。​聖なる​教会の​一部であると​感じ、​ペトロの​堅固な​岩は​聖霊の​働きに​支えられている​ことを​自覚するなら、​瞬間毎に​少しずつ種を​蒔くとも​いえる、​日々の​小さな​義務を​果たす決心が​つくでしょう。​そして、​穀倉は​収穫物で​一杯に​なるのです。

そろそろこの​祈りの​ひと​ときを​終えなければなりません。​神が​無限に​善い方である​ことを​再確認し、​神の​優しさを​心で​味わいつつ、​聖変化の​言葉に​よって​キリストが​御体と​御血、​ご霊魂、​神性を​伴って​ホスチアに​実際に​現存なさる​ことを​考えてください。​尊敬と​信心を​込めて​礼拝し、​主の​前で​心から​奉献を​更新して​欲しいのです。​躊躇せずに、​お愛ししていますと​申し上げましょう。​優しく​慈悲深い​心遣いを​毎日​示してくださる​主に​感謝し、​信頼して​聖体に​近づく​望みを​強めましょう。​この​愛の​秘義ほど​驚嘆すべき​ものは​ないと​思われます。​自ら​進んで​神から​遠ざからない​限り、​神は​私を​お見捨てにならないばかりか、​私の​哀れな​心を​玉座と​してくださるのです。

​ キリストの​現存に​よって​強められ、​主の​御体で​養われる​限り、​地上を​旅する​間も​忠実で​あり続け、​天国に​入って​イエスと​その​母のもとで、​勝利者と​名乗る​ことができるでしょう。​「死よ、​おまえの​勝利は​どこに​あるのか。​死よ、​おまえのと​げは​どこに​あるのか。​わたしたちの​主イエス・キリストに​よって​わたしたちに​勝利を​賜る​神に、​感謝しよう」34。

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