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な​すべきことが​多く​残されている​ことは​否めません。​ある​時、​もう​色づいた​穂が​風に​流されて​動くのを​見ておられた​時の​ことでしょう。​イエスは​弟子たちに​言われました。​「収穫は​多いが、​働き手が​少ない。​だから、​収穫の​ために​働き手を​送ってくださるように、​収穫の​主に​願いなさい」24。​あの​時と​同じく​今日でも、​「一日の​労苦と​暑さ」​25に​耐えて​働く、​雇われ人は​相変らず​不足しています。​もし、​すでに​雇われている​私たちが​忠実でないならば、​ヨエルの​預言通りに​なる​恐れが​あります。​「畑は​略奪され、​地は​嘆く。​穀物は​略奪され、​ぶどうの​実は​枯れ尽くし、​オリーブの​木は​衰えてしまった。​農夫は​恥じ、​ぶどう​作りは​泣き叫ぶ。​小麦と​大麦、​畑の​実りは​失われた」26。

​ 間断なく​寛大に​仕事を​受け入れる​心づもりが​なければ、​つまり、​土地を​耕し、​種を​蒔き、​畑の​手入れを​し、​刈り​入れと​脱穀まで、​時には​長期に​わたる​辛い​仕事を​続ける​用意が​なければ、​収穫は​期待できないのです。​天の​国は​歴史に​おいて、​時間の​中で​建設されます。​そして​神は​この​天国の​建設を​私たち全員に​託されました。​誰も​免除されていないのです。​聖体に​おられる​キリストを、​今日、​礼拝し、​眺める​とき、​まだ​休息の​ときは​来ていない​こと、​労働時間が​まだ​続いている​ことを​考えたい​ものです。

​ 箴言には、​「自分の​土地を​耕す人は​パンに​飽き足りる」27と​記してありますが、​この​一節を​霊的に、​私たちに​当てはめれば​どうなるでしょうか。​神の​畑を​耕さず、​身を​挺して​キリストを​伝えて​神の​使命を​忠実に​果たさない​人は、​聖体の​パンの​何たるかを​理解できない​ことでしょう。​苦労せずに​手に​入れた​ものを、​誰も​あまり​大切に​しないからです。​聖体を​大切にし、​そして​愛するには、​イエスの​お通りに​なった​道を​歩まなければなりません。​つまり、​麦粒と​なって​自らに​死んだ後、​活力に​溢れて​復活して、​豊かに​実り、​百倍の​実を​結ぶのです28。

​ このような​道は​〈愛の​道〉と​呼ぶことができます。​〈愛する​〉とは、​広い心を​もち、​まわりの​人々の​心配事を​他人事と​考えず、​また、​隣人を​赦し理解できる​こと、​言い​換えれば、​イエス・キリストと​共に​すべての​人の​ために​自らを​犠牲に​する​ことなのです。​キリストと​同じ心で​愛するなら、​実際に​仕える​ことができるはずであり、​愛を​もって​真理を​守る​ことができるでしょう。​キリストと​同じ心で​愛するには、​私たちの​心の​中に​あって​キリストの​存在を​妨げる​もの、​すなわち、​安易な​生活への​執着、​利己主義への​誘惑、​自己顕示の​傾向などを​すべて​取り​除き、​毅然とした​態度を​維持しなければなりません。​私たちの​中に​キリストの​生命を​再現した​とき​はじめて、​人々にも​キリストの​生命を​伝える​ことができるからです。​麦の​粒のように​死を​経験して​のみ、​この​世の​直中で​働き、​世界を​内部から​変え、​実り​豊かに​する​ことができるのです。

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