160

失望感に押し流されることも、あまりにも人間的な打算に拘泥することもなく、確たる信仰を持ちたいものです。障害を乗り越えるためには、まず働き始めなければなりません。そして、ひたすら仕事に専念するのです。そうすれば、仕事に専念しようという努力が新しい道を拓いてくれますから。どんな困難にも役立つ〈万能薬〉、それは聖性と神への献身であると言えましょう。

 聖人とは、天の御父がお定めになった通りに生きる人のことです。聖人になるなど、難しいことだと言えるかも知れません。確かに高い理想には違いありませんから。しかし、同時に容易だとも言えるのです。手の届く所にあるのです。病気に罹ったとき、薬が手に入らないことが時々ありますが、超自然的なことにおいては、こんなことはありません。薬はいつも手近にあります、つまり、聖体に現存するキリスト、それのみならず制定なさった他の秘跡によっても恩恵を与えてくださるのです。

 言葉と行いをもって繰り返しましょう。「主よ、あなたに信頼いたします。私にはあなたのいつもの心遣いと日々の助けだけで十分です」。大きな奇跡を神に求める必要はありません。けれども、信仰を強め、知性を照らし、意志を強めてくださるようお願いすべきです。イエスはいつも私たちの傍にいて、神に相応しい助けを与えてくださるからです。

 私は司祭としての生活を始めたときから、誤った〈神化〉についていつも注意を促して来ました。ありのままの姿、泥でできている自分を見ても心を乱してはなりません。心配する必要はないのです。あなたも私も神の子であり ― これが正しい〈神化〉です ― 永遠の昔から神の召し出しによって選ばれているのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」32。ですから、私たちは神のもの、哀れで惨めな存在ではあっても、神の道具となった身ですから、自らの弱さを忘れない限り効果的な働きができるのです。誘惑は私たちがどれほど弱いかを教えるだけであることを忘れずにおきましょう。

 自らの弱さを嫌というほど味わったとしても、そのときこそ神の手にすべてを委ねるときです。伝説によると、あるとき、アレキサンダー大王は施しを願う物乞いに会いましたが、大王は立ち止まってその男を五つの都市の領主にするように命じたのです。男は驚き、うろたえて叫びました。「そんなに大層なことは、願っておりません」と。すると大王は、「お前に相応しいことをお前は願った。それで、私は私に相応しい施し方をしたのだ」と答えたのです。

 力の限界を痛感する時にはおさらのこと、父である神、子である神、聖霊なる神に眼差しを向け、神の生命にあずかっていることを自覚しなければなりません。主が傍にいてくださるのですから、後ろを顧みる33理由などあり得ないのです。忠義・忠節を尽くし、頑張って義務を果たしましょう。他人の過ちを理解し、自らの過失を乗り越えるための愛と励ましをイエスに求めましょう。そうすれば、失望落胆はすべて、あなたと私の失望も全人類の落胆も、キリストのみ国を支える柱となることでしょう。

 自らの病を認めると同時に、神の力に対する信仰を告白したいものです。楽観と喜び、さらに、神に役立つ道具であるという確信、これらがキリスト信者の生活の隅々まで行きわたらなければなりません。聖なる教会の一部であると感じ、ペトロの堅固な岩は聖霊の働きに支えられていることを自覚するなら、瞬間毎に少しずつ種を蒔くともいえる、日々の小さな義務を果たす決心がつくでしょう。そして、穀倉は収穫物で一杯になるのです。

この点を別の言語で