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キリスト教的楽観

 時には、​このような​ことは​すべて​美しく​立派であるが、​実現不可能な​夢に​等しいと​考える​誘惑に​襲われるかも​知れません。​しかし、​信仰と​希望を​新たに​する​ことに​ついて​考えたばかりです。​私たちの​夢は​神の​素晴らしい​働きに​よって​こと​ごとく​実現されると​いう​絶対的な​確信を​持ち、​毅然と​して​踏みと​どまりましょう。​ただし、​その​ためには、​希望と​いう​キリスト教的徳を​しっかりと​身に​着けなければなりません。

​ 主が​毎日​司祭の​手の​中に​降りて​来られると​いう​驚くべき奇跡、​目前で​実現する​奇跡に​慣れてしまっては​大変です。​イエスは​私たちが​目覚めているよう​望んで​おられます。​主の​力の​偉大さに​気づく​ために、​また、​「わたしに​ついて​来なさい。​人間を​とる​漁師にしよう」29。​すなわち、​あなた方が​効果的に​働き、​人々を​神の​方​へ​引き寄せる​ことができるようにと​いう​主の​約束を​再び聞く​ためなのです。​ですから、​主の​言葉に​信頼しなければなりません。​舟に​乗って​櫂を​操り、​帆を​あげて、​キリストが​遺産と​して​残された​世界と​いう​海に​漕ぎ出すのです。​「沖に​漕ぎ出して​網を​降ろし、​漁を​しなさい」30。

​ キリストが​心の​中に​灯された​使徒的熱意を、​偽りの​謙遜に​よって​冷ましたり、​失ったりしては​なりません。​私たちが​無力で​哀れな​存在である​ことは​事実ですが、​主が​私たちの​過ちを​ご存じの​上で​お呼びに​なったことも​事実なのです。​人間の​限界や​弱さ、​不完全、​罪への​傾きなどが、​神の​慈悲深い目に​留まらない​ことは​あり得ません。​けれども、​主は​戦いを​要求し、​欠点を​認めるよう​求めて​おられます、​おじけづく​ためではなく、​痛悔して​自己改善の​望みを​強める​ために。

​ さらに、​道具に​すぎない​自分を​常に​自覚しているべきです。​「ある​人が​『わたしは​パウロに​つく』と​言い、​他の​人が​『わたしは​アポロに』などと​言っていると​すれば、​あなたがたは、​ただの​人に​すぎないでは​ありませんか。​アポロとは​何者か。​また、​パウロとは​何者か。​この​二人は、​あなたが​たを​信仰に​導く​ために​それぞれ主が​お与えに​なった​分に​応じて​仕えた者です。​わたしは​植え、​アポロは​水を​注いだ。​しかし、​成長させてくださったのは​神です」31。​私たちが​伝えるべき​教えや​使信には、​固有の​豊かさ、​無限の​豊かさが​備わっていますが、​それを​付与したのは​私たちではなく、​キリストであります。​救いの​業を​続け、​世の​贖いを​実現しておられるのは​神ご自身なのです。

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