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失望感に​押し流される​ことも、​あまりにも​人間的な​打算に​拘泥する​こともなく、​確たる​信仰を​持ちたい​ものです。​障害を​乗り越える​ためには、​まず​働き​始めなければなりません。​そして、​ひたすら​仕事に​専念するのです。​そう​すれば、​仕事に​専念しようと​いう​努力が​新しい​道を​拓いてくれますから。​どんな​困難にも​役立つ〈万能薬〉、​それは​聖性と​神への​献身であると​言えましょう。

​ 聖人とは、​天の​御父が​お定めに​なった​通りに​生きる​人の​ことです。​聖人に​なるなど、​難しい​ことだと​言えるかも​知れません。​確かに​高い​理想には​違い​ありませんから。​しかし、​同時に​容易だとも​言えるのです。​手の​届く​所に​あるのです。​病気に​罹った​とき、​薬が​手に​入らない​ことが​時々ありますが、​超自然的な​ことに​おいては、​こんな​ことは​ありません。​薬は​いつも​手近に​あります、​つまり、​聖体に​現存する​キリスト、​それのみならず制定な​さった​他の​秘跡に​よっても​恩恵を​与えてくださるのです。

​ 言葉と​行いを​もって​繰り返しましょう。​「主よ、​あなたに​信頼いたします。​私には​あなたのいつもの​心遣いと​日々の​助けだけで​十分です」。​大きな​奇跡を​神に​求める​必要は​ありません。​けれども、​信仰を​強め、​知性を​照らし、​意志を​強めてくださる​よう​お願い​すべきです。​イエスは​いつも​私たちの​傍に​いて、​神に​相応しい​助けを​与えてくださるからです。

​ 私は​司祭と​しての​生活を​始めた​ときから、​誤った​〈神化〉に​ついていつも​注意を​促して​来ました。​ありのままの​姿、​泥で​できている​自分を​見ても​心を​乱しては​なりません。​心配する​必要は​ないのです。​あなたも​私も​神の​子であり ― これが​正しい​〈神化〉です ― 永遠の​昔から​神の​召し出しに​よって​選ばれているのです。​「天地創造の​前に、​神は​わたしたちを​愛して、​御自分の​前で​聖なる者、​汚れの​ない​者にしようと、​キリストに​おいて​お選びに​なりました」32。​ですから、​私たちは​神の​もの、​哀れで​惨めな​存在では​あっても、​神の​道具と​なった身ですから、​自らの​弱さを​忘れない​限り効果的な​働きが​できるのです。​誘惑は​私た​ちがどれほど​弱いかを​教えるだけである​ことを​忘れずに​おきましょう。

​ 自らの​弱さを​嫌と​いう​ほど​味わったとしても、​その​ときこそ神の​手に​すべてを​委ねる​ときです。​伝説に​よると、​ある​とき、​アレキサンダー大王は​施しを​願う​物乞いに​会いましたが、​大王は​立ち止まって​その​男を​五つの​都市の​領主に​するように​命じたのです。​男は​驚き、うろたえて​叫びました。​「そんなに​大層な​ことは、​願っておりません」と。​すると​大王は、​「お前に​相応しい​ことを​お前は​願った。​それで、​私は​私に​相応しい​施し方を​したのだ」と​答えたのです。

​ 力の​限界を​痛感する​時には​な​おさらの​こと、​父である​神、​子である​神、​聖霊なる​神に​眼差しを​向け、​神の​生命に​あずかっている​ことを​自覚しなければなりません。​主が​傍に​いてくださるのですから、​後ろを​顧みる​33理由など​あり得ないのです。​忠義・忠節を​尽くし、​頑張って​義務を​果たしましょう。​他人の​過ちを​理解し、​自らの​過失を​乗り越える​ための​愛と​励ましを​イエスに​求めましょう。​そう​すれば、​失望落胆は​すべて、​あなたと​私の​失望も​全人​類の​落胆も、​キリストのみ​国を​支える​柱と​なる​ことでしょう。

​ 自らの​病を​認めると​同時に、​神の​力に​対する​信仰を​告白したい​ものです。​楽観と​喜び、​さらに、​神に​役立つ道具であると​いう​確信、​これらが​キリスト信者の​生活の​隅々まで​行きわたらなければなりません。​聖なる​教会の​一部であると​感じ、​ペトロの​堅固な​岩は​聖霊の​働きに​支えられている​ことを​自覚するなら、​瞬間毎に​少しずつ種を​蒔くとも​いえる、​日々の​小さな​義務を​果たす決心が​つくでしょう。​そして、​穀倉は​収穫物で​一杯に​なるのです。

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