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聖週間が​始まりました。​カルワリオに​おける​救いの​完成を​目前に​しています。​このような​時に、​イエスが​どのような​方​法で​人類を​お救いに​なるかを​考えるのは、​時宜にかなった​ことだと​言えます。​土くれのように​卑しい​人間を、​筆舌に​尽くし難い​ほど愛する​主を​黙想するのです。

​ 母なる​教会は、​灰の​水曜日に、​「人よ、​おぼえよ、​汝は​塵であって、​また塵に​返る」1と​呼びかけ、​無に​等しい​私たちの​姿を​思い起こさせます。​生気に​満ちている​今の​肉体は​いつの​日か​朽ちてしまう。​歩みに​つれて​立ちの​ぼる​ほこり、​あるいは​「太陽の​光に​押しのけられ、​その熱に​解かされて、​霧のように​散らされてしまう」2存在、​これが​私たちです。

​キリストの​模範

 人間の​儚さを​ありのまま​思い出した​あとで、​今度は、​素晴らしい​現実に​目を​向けて​欲しいと​思います。​それは、​私たちを​支え、​神化してくださる​神の​偉大さの​ことです。​使徒の​言葉に​耳を​傾けましょう。​「あなたがたは、​わたしたちの​主イエス・キリストの​恵みを​知っています。​すなわち、​主は​豊かであったのに、​あなたが​たの​ために​貧しくなられた。​それは、​主の​貧しさに​よって、​あなたが​たが​豊かに​なる​ためだったのです」3。​師イエスの​模範に​落ちついて​注目すれば、​生涯に​わたって​黙想すべきテーマと、​具体的な​決心を​立ててより​一層寛大に​なる​ための​テーマを、​数多く​見つける​ことができるでしょう。​目標を​見失わないように​してください。​私たちは​イエス・キリストと​ひとつに​なるべきなのです。​すでに​ご存じのように、​主の​跡に​従う​私たちに​模範を​与える​ため、​自らを​貧しくして、​苦しまれました4。

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