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聖なる​好奇心にかられて、​主が​どのような​仕方で​愛の​浪費とも​言える​ほどの​愛を​注いでくださったか、​考えたことが​あるでしょう。​これに​ついても、​聖パウロが​教えてくれます。​「キリストは、​神の​身分で​ありながら、​神と​等しい者である​ことに​固執しようとは​思わず、​かえって​自分を​無に​して、​僕の​身分に​なり、​人間と​同じ​者に​なられました」5。​これほどの​秘義を​前に​すれば、​驚いて​当然です。​感謝の​心で​多くの​ことを​学びとらなければなりません。​全能、​荘厳、​美その​ものであり、​偉大で​測り​知れない​豊かさと、​無限の​調和を​もつ​唯一の​神、​その​神が​人間に​仕える​ため、​キリストの​人性に​隠れておいでになる。​全能の​贖い主は、​人々が​近寄りやすいように、​自らの​光栄を​しばしの​間​お隠しに​なったのです。

​ 福音史家聖ヨハネは​次のように​述べています。​「神を​見た​者は​いない。​父の​ふところに​いる​独り子である​神、​この​方が​神を​示されたのである」6。​人間が​唖然と​するような​方​法で​主は​出現なさいました。​まず、​ベツレヘムで​生まれた​ばかりの​赤子と​して、​そののち近所の​子供たちと​全く​同じ​幼年時代を​過ごし、​しばしの​時を​経てから、​賢明で​利発な​若者の​姿で​神殿に​現れる。​そして​最後に、​群衆の​心を​とらえ、​熱狂させた、​愛深く​魅力的な​師と​して。

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