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このように​考えると、もし本当に​神の​お傍近くに​従い、​神と​人々に​仕えたいと​望むなら、​知識や​健康、​名誉や​気高い​望み、​勝利や​成功などから、​つまり​自分​自身から​本気で​離脱すべきことを​納得しなければなりません。

​ 高尚な​望みに​ついても​お話ししましょう。​常に​神に​光栄を​帰する​ことのできるよう、​次のような​規準に​従って​生きる​望みの​ことです。​つまり、​主が​お望みなら​望み、​そうでないなら​放棄する。​こう​すれば、​良心を​歪めている​虚栄心や​自己愛を​狙い​撃ちに​する​ことができます。​そして、​無私の​心を​得た​私たちは、​一層親密に、​一層熱烈に​神を​所有し、​心は​真の​平和に​安らぐ​ことでしょう。

​ 主に​倣うには、​あらゆる​種類の​執着を​断ち切らなければなりません。​「わたしに​ついて​来たい者は、​自分を​捨て、​自分の​十字架を​背負って、​わたしに​従いなさい。​自分の​命を​救いたいと​思う​者は、​それを​失うが、​わたしの​ために​命を​失う者は、​それを​得る。​人は、​たとえ全世界を​手に​入れても、​自分の​命を​失ったら、​何の​得が​あろうか」8。​この​言葉に​ついて​大聖グレゴリオは​説明を​加えています。​「物から​離脱していても​自分を​捨てなければ​不充分である。​しかし、​自分以外の​どこへ​行くのだろうか。​自分​自身から​出たのなら、​一体​放棄するのは​誰なのだろうか。

​ 罪に​よって​堕落している​状態と、​神に​よって​造られていると​いう​真実との​両方を​知らねばならない。​神に​よって​造られたと​いう​事実から、​自分とは​別な​所に​自分​自身の​存在のもとを​見つけ出す。​罪を​犯して​変わってしまった​自己を​放棄し、​恩寵に​よって​生まれ変わった​自己を​保持しよう。​このように、​高慢だった​者が、​キリストに​向かって​回心するなら、​謙遜に​なり自己を​放棄する​ことになる。​もし好色の​人が​節制に​努めるなら、​以前の​自分を​放棄したことになる。​また、​もし強欲な​者が​欲を​抑え、​他人の​ものを​奪うのを​止め、​寛大に​なり始めたら、​確かに​自己を​放棄したことに​なる」9。

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