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より​神と​隣人に​近づく​ために​役立つ​行いを、​いく​つも​挙げる​ことは​できますが、​今は、​思いついた​ことを​少しだけ​お話ししました。​大きな​償いの​行為を​軽蔑しているわけでは​ありません。​それどころか、​主が​その道に​お呼びに​なれば、​常に​霊的指導者の​許しを​得て​実行する​限り、​大変立派で、​必要で​さえ​ある​ことを​知っておかなければなりません。​ただし、​大きな​犠牲は、​高慢の​生みだす​大きな​過ちと​両立すると​いう​事実も​知っておいてください。​微笑む気持ちの​ない​ときに​微笑む努力を​する​ことは、​時に、​一時間の​肉体的苦行よりも​辛い​ものです。​絶えず神を​お喜ばせする​ために、​小さな​ことに​おいて​常に​戦う​決意が​あれば、​高慢を​野放しに​する​ことも、​英雄気どりに​なることもない。​かえって​幼い​子供である​自分の​姿に​気づき、​御父は​どんなに​つまらない​ものでも​喜んで​受け入れてくださる​ことが​分かってきます。

​ と​いうわけで、​キリスト信者は、​いつも​愛ゆえに​償いを​捧げなければなりません。​聖パウロの​言うように、​私たちは​召し出しと​いう​宝を​「土の​器に​納めています。​この​並外れて​偉大な​力が​神の​ものであって、​わたしたちから​出た​ものでない​ことが​明らかに​なる​ために。​わたしたちは、​四方から​苦しめられても​行き詰まらず、​途方に​暮れても​失望せず、​虐げられても​見捨てられず、​打ち倒されても​滅ぼされない。​わたしたちは、​いつも​イエスの​死を​体に​まとっています、​イエスの​命が​この​体に​現れる​ために」22。

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