み跡に従って

1955年4月3日


「わたしは道であり、真理であり、命である」1。主はこのように明瞭な言葉で永遠の幸せに至る真の道をお示しになりました。天国と地上とを結ぶ唯一の道、それは主です。「わたしは道である」、これは全人類への使信ですが、とりわけ、キリスト者としての召し出しを真剣に生きる決意をした人々、そうすることによって、思いや言葉、行い、平凡な日常生活の中で、絶えず神の現存を保つ覚悟をもつ人々に向けられた言葉です。

 イエスは道です。主はこの世に清い足跡をお残しになった。まことに、歳月を経てもなお消えず、不実な敵の裏切りによっても拭い去られることのない足跡です。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」2。思い出すだけでも素晴らしいことではありませんか。使徒たちをはじめ、主を探し求める人々のためにおいでになったイエスは、今日も、そして永遠に、生き続けておられます。常に今も生きておられる主の顔を、時として見失うのは、私たちに落度のあるときだけで、疲れて濁った目で見るからです。今、聖櫃の前で祈りを始めるに当たって、「主よ、見えますように」3と、福音書の中のあの盲人のようにお願いしましょう。私の知性を光で満たし、キリストの言葉を精神に染み透らせ、キリストの生命を私の魂に定着させてください。こうして、永遠の栄光に向かうべく自らを変えることのできますように。

キリスト信者の

  キリストの教えは実に明白です。いつものように福音書を繙いてみましょう。マタイ福音書第十一章を開くと、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」4という言葉が目に入ります。お分かりでしょうか。私たちは唯一の模範であるイエスに教わらなければなりません。躓きや戸惑いを恐れずに前進したいのなら、主の歩まれた道を歩むほかはない。主のみ跡を一歩一歩踏みしめ、謙遜で忍耐強い聖心のうちに入り込み、主の命令と愛の泉から力を汲みとる。一言でいえば、イエスに同化するのです。兄弟である人々の中にあって、本当に<もう一人のキリスト>であると言えるようになるために努力しなければなりません。

 ごまかしでないことを確かめるために、マタイ福音書の他の箇所を読んでみましょう。第十六章を見ると、主は一層明確に教えておられます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」5。神への道は、放棄の道、犠牲と依託の道です。しかし、悲しみの道でも気弱な人の道でもありません。

 ベツレヘムのまぐさ桶からカルワリオの玉座に至るまで、道々キリストがお示しになった模範にもう一度目をやり、飢えや渇き、疲れや暑さ、睡魔や虐待、無理解や涙6など、あらゆる種類の窮乏を忍び、自己を放棄する主、そして、全人類の救いを思って喜ぶ主について黙想しましょう。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」7。このように呼びかけた聖パウロの言葉を、心と精神に刻み込んでいただきたい。何度も黙想し、実行に移す努力をして欲しいのです。

イエスは人々への愛ゆえに自らを燔祭としてお捧げになった。キリストの弟子であり神の愛し子、十字架の値で買われたあなたは、自らを捨てる覚悟をしなければならない。どのような状況にあっても、決して利己心や自己満足に陥ってはなりません。単刀直入に言えば、道楽者のような愚かな振舞いは許されないということです。「人々の尊敬を勝ち取るためにのみ汲々とし、人望を集め評判を高めんと熱望し、あるいは、愉快な生活だけを追い求めるなら、あなたは道に迷っている。苦しく、狭く、険しい道を通過した者にのみ天の国に入ることが許され、永遠に主と共に憩い、そして君臨することができるのだ」8。

 進んで十字架を担う決心が必要です。万一それができないのなら、口ではキリストに倣うと言いながら、行いではそれを否定することになり、師と親密に交わることも真実に主を愛することもできなくなります。この点についてなるべく早く、しかも深く理解しなければなりません。わがままや虚栄心を満足させ、安楽や歓心を誘う物を、自発的に捨てなければ、主の傍を歩むことはできない。犠牲という優雅な塩で味付けをしない日々があってはならないのです。万一、そんな生活は不幸だと思うようなことがあっても、そのような思いはすぐに捨ててください。自分の十字架を雄々しく担わず、自らに打ち勝つ努力もしないで、激情や軽薄さに引きずられてその支配に任せるなら、たとえ幸せだと思ったとしても、実に哀れとしか言いようがありません。

きっと他の黙想でお聞きになったことがあるでしょう。スペインの黄金時代に活躍した作家が見たという夢を思い出します。その作家の前には二本の道が開かれている。一方の道は広々とした街道で、気の利いた店や宿がたくさん並び、長閑で愉快な道中を約束している。人々は馬や車に揺られながら音楽を楽しみ、声高に笑いつつ歩みを進める。しかし、人々の享楽はうわべだけで儚いものです。その先には底なしの淵が待ちかまえているからです。これこそ世俗的で、常に自分の満足だけを追い求める人々の歩む道です。中味のない喜びを空々しく見せびらかしているのみ。彼らは、あらゆる安楽と快楽を飽くことなく追い求める。悲しみ、犠牲、放棄を極度に恐れ、キリストの十字架の意義を知ろうともせず、十字架など馬鹿げたことだと考える。実は、狂っているのは彼らなのです。妬みや暴飲暴食、快楽の奴隷であり、遂にはどうにもならなくなる。やがて、この世と永遠の幸福を無意味なガラクタのために失ってしまったことに気づくでしょう。主の警句を聴かせたいものです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」9。

 夢の中にもう一本の道が見えます。これはとても狭く、とうてい馬の背に乗って通ることのできない急勾配の道。徒歩以外にすべはない。小石を踏みしめ、岩を避けながら、心静かに。所によっては服だけでなく肌も傷を受ける。しかし、その先には、花園、永遠の幸せ、天国が待っている。これは自ら遜る聖なる人々、イエス・キリストを愛するがゆえに喜んで隣人の犠牲になることのできる人々の道、どんなに重くても、心を込めて十字架を担って進む、登り坂を厭わない人々の道です。万一、重さに打ちひしがれて倒れても、必ず起き上がって歩みを続け得ることを知る人、自分の力のもとはキリストであることを知る人の道なのです。

たとえ躓いても、辛い失敗の後に再び立ち上がり、志気を新たにして前進する望みを持つことができるなら、恐れるに足りません。聖人とは、失敗しない人ではなく、謙遜と聖なる頑固さに支えられて、失敗しても必ず立ち上がる人であることを、忘れないで欲しい。箴言が、「義人は七度たおれる」10というくらいですから、哀れな私たちが、自分の惨めさや躓きに驚いたり、意気消沈したりすべきではありません。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」11。こう約束してくださった御者に強さを求めるなら、弛まず前進することができるからです。ありがたいことに、「あなたはわたしの神、わたしの砦」12です。あなたのみが、常に私の砦、私の避難所、私の支えでありますから。

 本気で内的生活に進歩したいのなら、謙遜になりなさい。そして、絶えず、信頼しきって、主キリストの助けと、主の母であり私たちの母でもある聖マリアの助けを求めるのです。この前の過失が与えた傷がどんなに痛もうとも、穏やかな心と新たな心でその十字架を抱きしめ、主に申し上げましょう。「主よ、あなたの助けさえあれば、戦いを続けることができるでしょう。急な坂や、日々の仕事の外見上の単調さ、道中の茨や小石を恐れずに、あなたの招きに忠実に応えたいと思います。あなたは慈しみ深い心で私を助けてくださいますから、やがて、永久に続く喜びと愛、永遠の幸せを見出すことができるでしょう」。

 例の作家は同じ夢の中で第三の道を見つけました。それは狭く、険しく、第二の道と同じくらい辛い坂道です。幾人かの人が、厳粛荘厳な面持ちで、数々の艱難を乗り越えて進んでいる。ところで、その道の果てには、第一の道と同じく恐ろしい崖が待ちうけている。実は、これこそ偽善者の通る道。その人々の意向は正しさを欠き、利己的な熱心さに動かされ、神の業を現世的利己主義と混同してしまっている。「愚か者は賞賛の的になろうと骨の折れる事業を企てる。地上での報いを望みながら、神の掟を守るために熱心に努力はする。徳の実行で人間的利得を望むことは、あたかも値打ちものの貴金属を投げ売りに供するのと同じなのだ。天国を勝ち取ることができるのに、儚い地上の賞賛で満足してしまう。それゆえ、偽善者の希望は蜘蛛の巣のようだと言われる。丹精込めて編み上げても、最後に死という一陣の風に運び去られてしまうのだ」13。

目的を見据えて

  以上のようなことをお話ししたのは、行いの動機を注意深く調べて、すべてを神と人類への奉仕に捧げるという、正しい意向で働いてもらいたいからです。主が私たちの傍らをお通りになり、いかに愛情深い眼差しを注いでくださったか、よく考えてください。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画(み旨)恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ(ました)」14。

 意向を清めてください。日々の十字架を喜んで担い、何をするにも神の愛のために果たしなさい。口を酸っぱくしてこの点を繰り返してきたのは、キリスト信者が深く心に刻むべきことだからです。忍耐に限度を設けるのではなく、逆に、意のままにならぬことや肉体的精神的苦痛を愛し、自分と人々の罪の償いのために捧げる。そうすれば、そのような艱難も耐えがたいものではなくなります。

 あなたが担っているのは無意味な十字架ではなく、キリストの聖なる十字架であることが分かるでしょう。しかも主が引き受けてくださる。私たちはキレネのシモンのように協力するのみ。一日の労働のあと、楽しい休息を思いながら農場から帰る途中、シモンは無理矢理徴用されてイエスの十字架を背負わされた15。私たちは自発的に<シモン>になり、痛々しくも、ボロボロになったキリストに近くから同行すべきです。神愛に陶酔した人にとって、それは不運ではなく、かえって、祝福する神の近くにいるという確信を得る機会となる。多くの人々がたびたび、オプス・デイの子供たちの、人を引き込まずにはおかない喜びに感嘆しました。それらについては、いつも同じ説明をしています。ほかに言いようはないのです。生を恐れず、死も恐れない、悲しみに屈せず、日々を犠牲の精神で過ごすために努力する、個人的な惨めさや弱さにもかかわらず、常に自らを放棄する心構えがある。キリスト者の歩むべき道を歩み易く、容易にできさえすればいいと思いつつ。―これが彼らの幸せの秘訣です。

心臓の鼓動のごとく

  皆さんは私の話を聞きながら、神のみ前で自らの行動を糾明していることでしょう。平和を奪われ、不安に陥ったのは、神の招きに応じなかったからか、あるいは自分のことしか考えない偽善者と同じ道を歩いたからではないだろうか。周りの人々に対して、表向きにはキリスト信者らしく振舞うが、内心では離脱や情欲の犠牲を厭わしく思い、イエス・キリストのように自己を放棄して無条件に自らを与えるのを拒んでいるからではないでしょうか。

 聖櫃の前で続ける、この念祷の間によく考えてみてください。神との親しい祈りを具体化させるために役立つ司祭の言葉を聞くだけで終わらないでください。ここで、いくつか重要なポイントを示しておきましょう。それらを積極的に自分の問題とし、神との内的個人的な語り合いのテーマにしてください。あなたの場合に当てはめてみてください。主の光に照らされ、自分の言葉や行いを省み、正しいものと悪の道につながっているものとを識別しましょう。主の恩寵を受けて自らの行いを改めるためです。自分の利益を考えずに実行した、もろもろの善いわざについて、主に感謝しましょう。詩編の作者と共に、「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ」16てくださった、歌いましょう。同時に、あなたの怠慢について、あるいは嘆かわしい偽善の迷路に踏み込んで、偽りの行いをしたことについて、赦しをお願いしてください。神の栄光と隣人の善のみを望むと断言しながら、その実、自分自身の栄光を追い求めたことがあったのではないでしょうか。大胆になってください。もっと寛大になりなさい。そして、はっきりと主に申し上げましょう、神と人を偽るような真似はしたくありませんと。

天の御母に助けを求める時がきました。聖母があなたを腕に抱き、御子の慈しみ深い眼差しを執り成してくださるためです。それからすぐに、具体的な決心を立てましょう。たとえ苦痛が伴っても、神とあなただけがよく知っているその些細なことを、今度こそ、断ち切ってしまいなさい。高慢と快楽、それにあまりに人間的な見方が一緒になって、「そんなものまでも捨てるのか、取るに足りないことではないか」と囁きかけるでしょうが、誘惑とは話し合いをせずに、はっきりと言ってやりなさい。「こんな些細なことでも神のお望みだから果たすのだ」と。理由はいくらでもあります。愛がこもっているかいないかは、些細なことに気を配っているか否かによって分かります。主がお望みになる犠牲は、たとえ辛くとも、たいていはとても小さなことでしょうが、心臓の鼓動のように絶え間なく実行されるべきであり、そうすればこそ、値打ちがあるのです。

 ドラマの主人公のように勇敢な母親は大勢いるわけではありません。とはいえ、見世物的要素をもたず、それゆえ決してニュースにはならないが、常に自らを否定し、子供の幸せのために、好みや興味、時間や種々の可能性を、喜んで捧げて生きる母親、本当に英雄的な母親は、大勢いることでしょう。

日常生活の中にも模範は見つかります。「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」17。聖パウロはこう言っています。周りを見れば、大勢の人々が、健康を守るため、他人の尊敬を得るため、どれほど多くの犠牲を払っているか、すぐに気づきます。溢れんばかりの神の愛を知る私たちは、人々が神のこの愛に応えないのを見て心を痛め、知恵も心も常に主に従属させて生きるために、犠牲にすべきものは犠牲にするようになることでしょう。

 犠牲や償いのキリスト教的な意味が忘れられ、犠牲と言えば聖人の伝記に見られるような断食や鞭打ちを思い浮かべる人が多いようです。この黙想のはじめにはっきりと申し上げたように、私たちはイエス・キリストの模範に倣わなければなりません。確かに主は宣教に備えて荒野に退き、四十日四十夜18の断食をなさいました。しかしその前後には、「大食漢、酒飲み、税吏と罪人の仲間」19と敵が非難する口実にするほど、ごく自然に節制の徳を実行なさいました。

自らの償いの生活を他人に見せびらかすことのない、主の自然で素朴な態度には深い意味が窺えますが、皆さんにも、ぜひその意味を見つけていただきたい。主は同じことを、あなたにも求めておられる。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」20。

 幼い子供が、カルタやおもちゃの兵隊、瓶の蓋など、二束三文の宝物を差し出して父親に愛を示すように、償いは神を見つめつつ、神の子としての心で果たすべきです。宝が惜しくてなかなか決心できなかった子供も、やがてはそれを差し出します。愛が勝利を得たのです。

社会の直中で、日常茶飯事を聖化せよ、自己を聖化せよ、招くとき、主は私たちにどのような道を歩めと要求なさるのか、再び繰り返すことをお許しください。溢れるほどの信仰と素晴らしい良識をもつ聖パウロは教えています。「モーセの律法に、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です」21。

 キリスト信者の生活とは、一連の重い義務を果たす生活のことではない。それゆえ、霊魂をどうしようもないほど緊張させる必要もない。信仰生活とは、手袋が手に馴染むように、それぞれの生活状況に合わせることができるものですから、超自然的見方を決して失わず、大小様々な日常の仕事を、祈りと犠牲の心で実行しさえすればよいのです。神がどれほど私たちを愛しておられるのか、考えてみましょう。ロバに食べ物や休息を与えず、過度の鞭打ちでその力を削ぐようなことをしておきながら、もっと働けとは言えないでしょう。あなたの身体はエルサレム入城のときに主がお乗りになったロバです。その身体で、地上における神の素晴らしい小道を進まなければなりません。神への小道からそれないように体を御し、軽快な足どりで、ロバのように張り切って前進すべきなのです。

償いの精神

  誠実な決心をするよう努めていますか。主への愛ゆえに嫌なことも喜んでできるよう、主の助けをお願いしましょう。何をするにも、さりげなく、清めのために犠牲の香りを添え、聖櫃のランプが燃え尽きるように、身を粉にして心静かに働いて主に仕えたいのです。心に呼びかける神に対して、具体的にどう応えるべきか思いつかないのなら、私の述べることによく耳を傾けてください。

 償いとは、たとえ、体が抵抗し、心が妄想のなかに逃げこもうとしても、決めた時間割を正確に守ること、決まった時刻に起き上がること、骨の折れる難しい仕事であっても理由なく遅らせずに果たすことです。

 神と隣人と自分に対する義務を果たすために、必要な時間を見つける努力、これも償いです。疲れや嫌気や冷淡な心であるにもかかわらず、祈りの時間になれば祈りをする。そうすれば、あなたは償いの人なのです。償いとは、自分の家族をはじめ、隣人と常に最高の愛徳をもって接すること、つまり、病人や悲嘆に打ちひしがれている人々を細やかな心でお世話し、都合の悪い時に訪れるうるさい人々を我慢して迎えることです。さらに人々の正当な必要を満たすため、快く計画を変更し、あるいは中止することも。

 日々出くわす幾多の小さな困難を快活に耐える、始めたときの熱意が薄れても任務を中途で放棄しない、出されたものをわがままに負けないで感謝の心でいただく、いずれも償いのわざです。両親や、一般に指導・教育の任に携わる人々の場合なら、必要な時に、主観や感傷をまじえずに、過ちの本質や当事者の状態を勘案しながら、過ちに陥った者を正すことが償いになります。

 償いの精神があれば、心を込めて描いた将来の大きな夢に、節度もなく執着することはないでしょう。線や色彩を加えることを神にお任せし、私たちが自分の落書きや下手な筆使いを避けるなら、どれほど喜んでくださることでしょう。

より神と隣人に近づくために役立つ行いを、いくつも挙げることはできますが、今は、思いついたことを少しだけお話ししました。大きな償いの行為を軽蔑しているわけではありません。それどころか、主がその道にお呼びになれば、常に霊的指導者の許しを得て実行する限り、大変立派で、必要でさえあることを知っておかなければなりません。ただし、大きな犠牲は、高慢の生みだす大きな過ちと両立するという事実も知っておいてください。微笑気持ちのないときに微笑む努力をすることは、時に、一時間の肉体的苦行よりも辛いものです。絶えず神をお喜ばせするために、小さなことにおいて常に戦う決意があれば、高慢を野放しにすることも、英雄気どりになることもない。かえって幼い子供である自分の姿に気づき、御父はどんなにつまらないものでも喜んで受け入れてくださることが分かってきます。

 というわけで、キリスト信者は、いつも愛ゆえに償いを捧げなければなりません。聖パウロの言うように、私たちは召し出しという宝を「土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」22。

ぶん、これまでは、もっと近くからキリストに従うべきことに気づいていなかったのではないでしょうか。小さな自己放棄のわざでも、主の救いのわざに合わせることができることに気づいていなかったのではないでしょうか。仕えたくないと執拗に神に敵対するルチフェルのわざ、あらゆる時代の罪と私たちの罪、これらすべてを贖ってくださる主に一致できるのに、それに気づかなかったのではないでしょうか。主に愛の讃歌を歌うために、吝嗇な心や小さな犠牲を捧げる決心をしないで、「主よ、愛すべき聖心を痛めたことを悲しく思います」などと言えるわけがありません。まことの償いを捧げて、愛と献身の道を直進しましょう。キリストと同じように、償いのため自らを神に捧げ、人々の救霊のため愛徳の実行に努力するのです。

 さあ、急いで愛を実行してください。愛する心があれば不平や反発は消えます。しばしば忍耐して障害を克服するけれども、悲しみに沈んでしまうようでは、神の恩寵をむだにするだけでなく、神がそれ以上要求なさることもできなくなってしまう。「喜んで与える人を神は愛してくださる」23のです。愛の虜になり、心から喜んで与える人、未練がましい与え方をしない人になれば、神の愛を受けることができるのです。

一度、自らの生活の仕方を振り返り、細やかさの不足や、心に感じる次のようなことについて赦しを願ってください。無頓着な言葉遣い、自分のことのみに終始したあのときの思い、不安や悲嘆、馬鹿げた心配のもととなったあの批判、など。信じてください、幸せになれるはずなのです。ご自分が歩まれた幸福への道を、喜びに満ち、幸せに包まれて歩む私たちを、主はお望みです。不幸だと感じるのは、強いて脇道にそれ、自己愛と快楽の小道に入り込んでしまうときだけ、あるいはもっとひどい偽善者の道に入り込んだときだけです。

 キリスト信者は何をするにつけても、真摯、真実、誠実でなければなりません。私たちの言動には、キリストの心があらわれなければならないのです。首尾一貫した生活をすべき人がいるとすれば、キリスト信者をおいてほかに誰がいると言えるでしょうか。自由にして救い24をもたらす賜物25を、実りを与えるために与えられているのは、ほかならぬキリスト信者であるからです。

 どうすれば誠実さを身につけることができるのでしょうか。イエス・キリストは必要な手段をすべて教会にお与えになりました。天の御父と交わる方法や祈り方を教え、霊魂内で働く知られざる偉大な御者・聖霊を遣わしてくださいました。恩寵の目に見えるしるしである秘跡をも残してくださっています。しばしば秘跡にあずかってください。信心を深めてください。毎日の祈りを忘れず、喜ばしい重荷である十字架から離れないようにしましょう。世間が与えることのできない平和と喜びを<振り撒きながら>、地上を旅する善き弟子として主に従うよう招いてくださったのは、ほかでもないイエスです。それゆえ、生に対しても、死に対しても、恐れを抱くことなく歩まなければなりません。キリスト信者にとっては清めの手段であり、兄弟たちに常に真実の愛を示す機会となる苦しみを、決して避けてはなりません。

 時間が来ました。あなたの心を動かすための話も、そろそろ結びにしなければなりません。固い決心を少しだけ立ててください。主はあなたの喜びだけをお望みです。あなたができる限りのことをすれば、たとえ十字架がなくなることはないとしても、たいそう幸福になれるはずです。その十字架は、十字架と言っても今や刑具ではなくて、玉座なのです。キリストはその玉座からすべてをお始めになる。そして、その傍らには私たちの母でもある主の母がいらっしゃいます。聖母マリアは、御子の跡に従うために必要な力を、送ってくださることでしょう。

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