み跡に従って

1955年4月3日


「わたしは​道であり、​真理であり、​命である」1。​主は​このように​明瞭な​言葉で​永遠の​幸せに​至る​真の​道を​お示しに​なりました。​天国と​地上とを​結ぶ​唯一の​道、​それは​主です。​「わたしは​道である」、​これは​全人​類への​使信ですが、​とりわけ、​キリスト者と​しての​召し出しを​真剣に​生きる​決意を​した​人々、​そうする​ことに​よって、​思いや​言葉、​行い、​平凡な​日常生活の​中で、​絶えず神の​現存を​保つ覚悟を​もつ​人々に​向けられた​言葉です。

​ イエスは​道です。​主は​この​世に​清い​足跡を​お残しに​なった。​まことに、​歳月を​経てもな​お消えず、​不実な​敵の​裏切りに​よっても​拭い​去られる​ことの​ない​足跡です。​「イエス・キリストは、​きのうも​今日も、​また​永遠に​変わる​ことの​ない方です」2。​思い出すだけでも​素晴らしい​ことでは​ありませんか。​使徒たちを​はじめ、​主を​探し求める​人々の​ために​おいでになった​イエスは、​今日も、​そして​永遠に、​生き続けておられます。​常に​今も​生きておられる​主の​顔を、​時と​して​見失うのは、​私たちに​落度の​ある​ときだけで、​疲れて​濁った​目で​見るからです。​今、​聖櫃の​前で​祈りを​始めるに​当たって、​「主よ、​見えますように」3と、​福音書の​中の​あの​盲人のように​お願いしましょう。​私の​知性を​光で​満たし、​キリストの​言葉を​精神に​染み透らせ、​キリストの​生命を​私の​魂に​定着させてください。​こうして、​永遠の​栄光に​向かうべく​自らを​変える​ことのできますように。

キリスト信者の​道

  キリストの​教えは​実に​明白です。​いつものように​福音書を​繙いてみましょう。​マタイ福音書第十一章を​開くと、​「わたしは​柔和で​謙遜な​者だから、​わたしの​軛を​負い、​わたしに​学びなさい」4と​いう​言葉が​目に​入ります。​お分かりでしょうか。​私たちは​唯一の​模範である​イエスに​教わらなければなりません。​躓きや​戸惑いを​恐れずに​前進したいの​なら、​主の​歩まれた​道を​歩むほかは​ない。​主のみ​跡を​一歩​一歩​踏みしめ、​謙遜で​忍耐強い​聖心の​うちに​入り込み、​主の​命令と​愛の​泉から​力を​汲みとる。​一言で​いえば、​イエスに​同化するのです。​兄弟である​人々の​中に​あって、​本当に​<もう​一人の​キリスト>であると​言えるようになる​ために​努力しなければなりません。

​ ごまかしでない​ことを​確かめる​ために、​マタイ福音書の​他の​箇所を​読んで​みましょう。​第十六章を​見ると、​主は​一層明確に​教えておられます。​「わたしに​ついて​来たい者は、​自分を​捨て、​自分の​十字架を​背負って、​わたしに​従いなさい」5。​神への​道は、​放棄の​道、​犠牲と​依託の​道です。​しかし、​悲しみの​道でも​気弱な​人の​道でもありません。

​ ベツレヘムの​まぐさ桶から​カルワリオの​玉座に​至るまで、​道々キリストが​お示しに​なった​模範に​もう​一度​目を​やり、​飢えや​渇き、​疲れや​暑さ、​睡魔や​虐待、​無理解や​涙6など、​あらゆる​種類の​窮乏を​忍び、​自己を​放棄する​主、​そして、​全人​類の​救いを​思って​喜ぶ主に​ついて​黙想しましょう。​「あなたがたは​神に​愛されている​子供ですから、​神に​倣う​者と​なりなさい。​キリストが​わたしたちを​愛して、​ご自分を​香りの​よい​供え物、​つまり、​いけに​えと​して​わたしたちの​ために​神に​献げてくださったように、​あなたが​たも​愛に​よって​歩みなさい」7。​このように​呼びかけた​聖パウロの​言葉を、​心と​精神に​刻み込んでいただきたい。​何度も​黙想し、​実行に​移す努力を​して​欲しいのです。

イエスは​人々への​愛ゆえに​自らを​燔祭と​してお捧げに​なった。​キリストの​弟子で​あり神の​愛し子、​十字架の​値で​買われた​あなたは、​自らを​捨てる​覚悟を​しなければならない。​どのような​状況に​あっても、​決して​利己心や​自己満足に​陥っては​なりません。​単刀直入に​言えば、​道楽者のような​愚かな​振舞い​は​許されないと​いう​ことです。​「人々の​尊敬を​勝ち取る​ために​のみ​汲々とし、​人望を​集め評判を​高めんと​熱望し、​あるいは、​愉快な​生活だけを​追い​求めるなら、​あなたは​道に​迷っている。​苦しく、​狭く、​険しい​道を​通過した​者に​のみ​天の​国に​入る​ことが​許され、​永遠に​主と​共に​憩い、​そして​君臨する​ことができるのだ」8。

​ 進んで​十字架を​担う​決心が​必要です。​万一それが​できないのなら、​口では​キリストに​倣うと​言いながら、​行いでは​それを​否定する​ことに​なり、​師と​親密に​交わる​ことも​真実に​主を​愛する​ことも​できなくなります。​この​点に​ついてなるべく​早く、​しかも​深く​理解しなければなりません。​わが​ままや​虚栄心を​満足させ、​安楽や​歓心を​誘う物を、​自発的に​捨てなければ、​主の​傍を​歩むことは​できない。​犠牲と​いう​優雅な塩で​味付けを​しない​日々が​あってはならないのです。​万一、​そんな​生活は​不幸だと​思うような​ことが​あっても、​そのような​思いは​すぐに​捨ててください。​自分の​十字架を​雄々しく​担わず、​自らに​打ち​勝つ努力もしないで、​激情や​軽薄さに​引きずられて​その​支配に​任せるなら、​たとえ幸せだと​思った​としても、​実に​哀れとしか​言いようが​ありません。

きっと​他の​黙想で​お聞きに​なったことが​あるでしょう。​スペインの​黄金時代に​活躍した​作家が​見たと​いう​夢を​思い出します。​その​作家の​前には​二本の​道が​開かれている。​一方の​道は​広々とした​街道で、​気の​利いた​店や​宿が​たくさん​並び、​長閑で​愉快な​道中を​約束している。​人々は​馬や車に​揺られながら​音楽を​楽しみ、​声高に​笑いつつ歩みを​進める。​しかし、​人々の​享楽は​う​わべだけで​儚い​ものです。​その​先には​底なしの​淵が​待ちかまえているからです。​これこそ​世俗的で、​常に​自分の​満足だけを​追い​求める​人々の​歩む道です。​中味の​ない​喜びを​空々しく​見せびらかしている​のみ。​彼らは、​あらゆる​安楽と​快楽を​飽く​ことなく​追い​求める。​悲しみ、​犠牲、​放棄を​極度に​恐れ、​キリストの​十字架の​意義を​知ろうとも​せず、​十字架など​馬鹿げた​ことだと​考える。​実は、​狂っているのは​彼らなのです。​妬みや​暴飲暴食、​快楽の​奴隷であり、​遂には​どうにもならなくなる。​やがて、​この​世と​永遠の​幸福を​無意味な​ガラクタの​ために​失ってしまった​ことに​気づくでしょう。​主の​警句を​聴かせたい​ものです。​「自分の​命を​救いたいと​思う​者は、​それを​失うが、​わたしの​ために​命を​失う者は、​それを​得る。​人は、​たとえ全世界を​手に​入れても、​自分の​命を​失ったら、​何の​得が​あろうか」9。

​ 夢の​中に​もう​一本の​道が​見えます。​これは​とても​狭く、とうてい馬の​背に​乗って​通る​ことのできない​急勾配の​道。​徒歩以外に​すべは​ない。​小石を​踏みしめ、​岩を​避けながら、​心静かに。​所に​よっては​服だけでなく​肌も​傷を​受ける。​しかし、​その​先には、​花園、​永遠の​幸せ、​天国が​待っている。​これは​自ら遜る​聖なる​人々、​イエス・キリストを​愛するが​ゆえに​喜んで​隣人の​犠牲に​なる​ことのできる​人々の​道、​どんなに​重くても、​心を​込めて​十字架を​担って​進む、​登り坂を​厭わない​人々の​道です。​万一、​重さに​打ち​ひしがれて倒れても、​必ず​起き​上がって​歩みを​続け得る​ことを​知る​人、​自分の​力のもとは​キリストである​ことを​知る​人の​道なのです。

たとえ躓いても、​辛い​失敗の​後に​再び立ち​上がり、​志気を​新たに​して​前進する​望みを​持つことができるなら、​恐れるに​足りません。​聖人とは、​失敗しない​人ではなく、​謙遜と​聖なる​頑固さに​支えられて、​失敗しても​必ず​立ち上がる人である​ことを、​忘れないで​欲しい。​箴言が、​「義人は​七度た​おれる」10と​いう​くらいですから、​哀れな​私たちが、​自分の​惨めさや​躓きに​驚いたり、​意気消沈したり​すべきでは​ありません。​「疲れた​者、​重荷を​負う者は、​だれでも​わたしのもとに​来なさい。​休ませてあげよう」11。​こう​約束してくださった​御者に​強さを​求めるなら、​弛まず前進する​ことができるからです。​ありが​たいことに、​「あなたは​わたしの​神、​わたしの​砦」​12です。​あなたのみが、​常に​私の​砦、​私の​避難所、​私の​支えでありますから。

​ 本気で​内的生活に​進歩したいの​なら、​謙遜に​なりなさい。​そして、​絶えず、​信頼しきって、​主キリストの​助けと、​主の​母であり​私たちの​母でもある​聖マリアの​助けを​求めるのです。​この​前の​過失が​与えた​傷が​どんなに​痛もうとも、​穏やかな​心と​新たな心で​その​十字架を​抱きしめ、​主に​申し上げましょう。​「主よ、​あなたの​助けさえ​あれば、​戦いを​続ける​ことができるでしょう。​急な​坂や、​日々の​仕事の​外見上の​単調さ、​道中の​茨や​小石を​恐れずに、​あなたの​招きに​忠実に​応えたいと​思います。​あなたは​慈しみ深い心で​私を​助けてくださいますから、​やがて、​永久に​続く​喜びと​愛、​永遠の​幸せを​見出すことができるでしょう」。

​ 例の​作家は​同じ夢の​中で​第三の​道を​見つけました。​それは​狭く、​険しく、​第二の​道と​同じくらい​辛い​坂道です。​幾人かの​人が、​厳粛荘厳な​面持ちで、​数々の​艱難を​乗り越えて​進んでいる。​ところで、​その​道の​果てには、​第一の​道と​同じく​恐ろしい​崖が​待ちうけている。​実は、​これこそ​偽善者の​通る道。​その​人々の​意向は​正しさを​欠き、​利己的な​熱心さに​動かされ、​神の​業を​現世的利己主義と​混同してしまっている。​「愚か者は​賞賛の​的になろうと​骨の​折れる​事業を​企てる。​地上での​報いを​望みながら、​神の​掟を​守る​ために​熱心に​努力は​する。​徳の​実行で​人間的利得を​望むことは、​あたかも​値打ちものの​貴金属を​投げ売りに​供するのと​同じなのだ。​天国を​勝ち取る​ことができるのに、​儚い地上の​賞賛で​満足してしまう。​それゆえ、​偽善者の​希望は​蜘蛛の​巣の​ようだと​言われる。​丹精込めて​編み上げても、​最後に​死と​いう​一陣の​風に​運び去られてしまうのだ」​13。

目的を​見据えて

​  以上のような​ことを​お話ししたのは、​行いの​動機を​注意深く​調べて、​すべてを​神と​人類への​奉仕に​捧げると​いう、​正しい​意向で​働いて​もらいたいからです。​主が​私たちの​傍らを​お通りに​なり、​いかに​愛情深い​眼差しを​注いでくださったか、​よく​考えてください。​「神が​わたしたちを​救い、​聖なる​招きに​よって​呼び出してくださったのは、​わたしたちの​行いに​よるのではなく、​ご自身の​計画​(み旨)と​恵みに​よるのです。​この​恵みは、​永遠の​昔に​キリスト・イエスに​おいて​わたしたちの​ために​与えられ​(ました)」14。

​ 意向を​清めてください。​日々の​十字架を​喜んで​担い、​何を​するにも​神の​愛の​ために​果たしなさい。​口を​酸っぱくして​この​点を​繰り返してきたのは、​キリスト信者が​深く​心に​刻むべきことだからです。​忍耐に​限度を​設けるのではなく、​逆に、​意の​ままに​なら​ぬことや肉体的精神的苦痛を​愛し、​自分と​人々の​罪の​償いの​ために​捧げる。​そう​すれば、​そのような​艱難も​耐えが​たい​ものではなくなります。

​ あなたが​担っているのは​無意味な​十字架ではなく、​キリストの​聖なる​十字架である​ことが​分かるでしょう。​しかも​主が​引き受けてくださる。​私たちは​キレネの​シモンのように​協力する​のみ。​一日の​労働の​あと、​楽しい​休息を​思いながら​農場から​帰る​途中、​シモンは​無理矢理徴用されてイエスの​十字架を​背負わされた​15。​私たちは​自発的に​<シモン>に​なり、​痛々しくも、​ボロボロに​なった​キリストに​近くから​同行すべきです。​神愛に​陶酔した​人に​とって、​それは​不運ではなく、​かえって、​祝福する​神の​近くに​いると​いう​確信を​得る​機会と​なる。​多くの​人々が​たびたび、​オプス・​デイの​子供たちの、​人を​引き込まずには​おかない​喜びに​感嘆しました。​それらに​ついては、​いつも​同じ​説明を​しています。​ほかに​言いようは​ないのです。​生を​恐れず、​死も​恐れない、​悲しみに​屈せず、​日々を​犠牲の​精神で​過ごすために​努力する、​個人的な​惨めさや​弱さにも​かかわらず、​常に​自らを​放棄する​心構えが​ある。​キリスト者の​歩むべき道を​歩み易く、​容易に​できさえ​すれば​いいと​思いつつ。​―これが​彼らの​幸せの​秘訣です。

心臓の​鼓動の​ごとく

​  皆さんは​私の​話を​聞きながら、​神のみ​前で​自らの​行動を​糾明している​ことでしょう。​平和を​奪われ、​不安に​陥ったのは、​神の​招きに​応じなかったからか、​あるいは​自分の​ことしか​考えない​偽善者と​同じ​道を​歩いたからではないだろうか。​周りの​人々に​対して、​表向きには​キリスト信者らしく​振舞うが、​内心では​離脱や​情欲の​犠牲を​厭わしく​思い、​イエス・キリストのように​自己を​放棄して​無条件に​自らを​与えるのを​拒んでいるからではないでしょうか。

​ 聖櫃の​前で​続ける、​この​念祷の​間に​よく​考えてみてください。​神との​親しい​祈りを​具体化させる​ために​役立つ司祭の​言葉を​聞くだけで​終わらないでください。​ここで、​いく​つか​重要な​ポイントを​示して​おきましょう。​それらを​積極的に​自分の​問題と​し、​神との​内的個人的な​語り合いの​テーマに​してください。​あなたの​場合に​当てはめてみてください。​主の​光に​照らされ、​自分の​言葉や​行いを​省み、​正しい​ものと悪の​道に​つながっている​ものとを​識別しましょう。​主の​恩寵を​受けて​自らの​行いを​改める​ためです。​自分の​利益を​考えずに​実行した、​もろもろの​善い​わざに​ついて、​主に​感謝しましょう。​詩編の​作者と​共に、​「滅びの​穴、​泥沼から​わたしを​引き上げ、​わたしの​足を​岩の​上に​立たせ、​しっかりと​歩ませ」​16てくださった、​と​歌いましょう。​同時に、​あなたの​怠慢に​ついて、​あるいは​嘆かわしい​偽善の​迷路に​踏み込んで、​偽りの​行いを​したことに​ついて、​赦しを​お願いしてください。​神の​栄光と​隣人の​善のみを​望むと​断言しながら、​その​実、​自分​自身の​栄光を​追い​求めた​ことが​あったのではないでしょうか。​大胆に​なってください。​もっと​寛大に​なりなさい。​そして、​はっきりと​主に​申し上げましょう、​神と​人を​偽るような​真似は​したく​ありませんと。

天の​御母に​助けを​求める​時が​きました。​聖母が​あなたを​腕に​抱き、​御子の​慈しみ深い​眼差しを​執り成してくださる​ためです。​それから​すぐに、​具体的な​決心を​立てましょう。​たとえ苦痛が​伴っても、​神と​あなただけが​よく​知っている​その​些細な​ことを、​今度こそ、​断ち切ってしまいなさい。​高慢と​快楽、​それに​あまりに​人間的な​見方が​一緒に​なって、​「そんな​ものまでも​捨てるのか、​取るに​足りない​ことではないか」と​囁きかけるでしょうが、​誘惑とは​話し合いを​せずに、​はっきりと​言って​やりなさい。​「こんな​些細な​ことでも​神の​お望みだから​果たすのだ」と。​理由は​いくらでもあります。​愛が​こもっているかいないかは、​些細な​ことに​気を​配っているか​否かに​よって​分かります。​主が​お望みに​なる​犠牲は、​たとえ辛くとも、​たいていは​とても​小さな​ことでしょうが、​心臓の​鼓動のように​絶え間なく​実行される​べきであり、​そう​すれば​こそ、​値打ちが​あるのです。

​ ドラマの​主人公のように​勇敢な​母親は​大勢いるわけでは​ありません。​とは​いえ、​見世物的要素を​もたず、​それゆえ​決して​ニュースにはならないが、​常に​自らを​否定し、​子供の​幸せの​ために、​好みや​興味、​時間や​種々の​可能性を、​喜んで​捧げて​生きる​母親、​本当に​英雄的な​母親は、​大勢いる​ことでしょう。

日常生活の​中にも​模範は​見つかります。​「競技を​する​人は​皆、​すべてに​節制します。​彼らは​朽ちる​冠を​得る​ために​そうするのですが、​わたしたちは、​朽ちない​冠を​得る​ために​節制するのです」17。​聖パウロは​こう​言っています。​周りを​見れば、​大勢の​人々が、​健康を​守る​ため、​他人の​尊敬を​得る​ため、​どれほど​多くの​犠牲を​払っているか、​すぐに​気づきます。​溢れんばかりの​神の​愛を​知る​私たちは、​人々が​神の​この​愛に​応えないのを​見て​心を​痛め、​知恵も​心も​常に​主に​従属させて​生きる​ために、​犠牲に​すべき​ものは​犠牲に​するようになる​ことでしょう。

​ 犠牲や​償いの​キリスト教的な​意味が​忘れられ、​犠牲と​言えば​聖人の​伝記に​見られるような​断食や​鞭打ちを​思い浮かべる​人が​多いようです。​この​黙想の​はじめにはっきりと​申し上げたように、​私たちは​イエス・キリストの​模範に​倣わなければなりません。​確かに​主は​宣教に​備えて​荒野に​退き、​四十日四十夜​18の​断食を​なさいました。​しかし​その前後には、​「大食漢、​酒飲み、​税吏と​罪人の​仲間」​19と​敵が​非難する​口実に​する​ほど、​ごく​自然に​節制の​徳を​実行なさいました。

自らの​償いの​生活を​他人に​見せびらかす​ことの​ない、​主の​自然で​素朴な​態度には​深い​意味が​窺えますが、​皆さんにも、​ぜひ​その​意味を​見つけていただきたい。​主は​同じ​ことを、​あなたにも​求めて​おられる。​「断食する​ときには、​あなたがたは​偽善者のように​沈んだ​顔つきを​してはならない。​偽善者は、​断食しているのを​人に​見て​もら​おうと、​顔を​見苦しく​する。​はっきり​言っておく。​彼らは​既に​報いを​受けている。​あなたは、​断食する​とき、​頭に​油を​つけ、​顔を​洗いなさい。​それは、​あなたの​断食が​人に​気づかれず、​隠れた​ところに​おられる​あなたの父に​見ていただく​ためである。​そう​すれば、​隠れた​ことを​見ておられる​あなたの​父が​報いてくださる」20。

​ 幼い​子供が、​カルタや​おもちゃの​兵隊、​瓶の​蓋など、​二束三文の​宝物を​差し出して​父親に​愛を​示すように、​償いは​神を​見つめつつ、​神の​子と​しての​心で​果た​すべきです。​宝が​惜しくて​なかなか​決心できなかった​子供も、​やがては​それを​差し出します。​愛が​勝利を​得たのです。

社会の​直中で、​日常茶飯事を​聖化せよ、​自己を​聖化せよ、​と​招く​とき、​主は​私たちに​どのような​道を​歩めと​要求なさるのか、​再び繰り返す​ことを​お許しください。​溢れる​ほどの​信仰と​素晴らしい​良識を​もつ​聖パウロは​教えています。​「モーセの​律法に、​『脱穀している​牛に​口籠を​はめてはならない』と​書いてあります。​神が​心に​かけておられるのは、​牛の​ことですか。​それとも、​わたしたちの​ために​言っておられるのでしょうか。​もちろん、​わたしたちの​ために​そう​書かれているのです。​耕す者が​望みを​持って耕し、​脱穀する​者が​分け前に​あずかる​ことを​期待して​働くのは​当然です」21。

​ キリスト信者の​生活とは、​一連の​重い​義務を​果たす生活の​ことではない。​それゆえ、​霊魂を​どうしようもない​ほど​緊張させる​必要も​ない。​信仰生活とは、​手袋が​手に​馴染むように、​それぞれの​生活状況に​合わせる​ことができる​ものですから、​超自然的見方を​決して​失わず、​大小様々な​日常の​仕事を、​祈りと​犠牲の​心で​実行しさえ​すれば​よいのです。​神が​どれほど​私たちを​愛しておられるのか、​考えてみましょう。​ロバに​食べ物や​休息を​与えず、​過度の​鞭打ちで​その力を​削ぐような​ことを​して​おきながら、​もっと​働けとは​言えないでしょう。​あなたの身体は​エルサレム入城の​ときに​主が​お乗りに​なった​ロバです。​その身体で、​地上に​おける​神の​素晴らしい​小道を​進まなければなりません。​神への​小道から​それないように​体を​御し、​軽快な​足どりで、​ロバのように​張り​切って​前進すべきなのです。

償いの​精神

  誠実な​決心を​するよう​努めていますか。​主への​愛ゆえに​嫌なことも​喜んで​できるよう、​主の​助けを​お願いしましょう。​何を​するにも、​さりげなく、​清めの​ために​犠牲の​香りを​添え、​聖櫃の​ランプが​燃え​尽きるように、​身を​粉に​して​心静かに​働いて​主に​仕えたいのです。​心に​呼びかける​神に​対して、​具体的に​どう​応えるべきか​思いつかないのなら、​私の​述べる​ことに​よく​耳を​傾けてください。

​ 償いとは、​たとえ、​体が​抵抗し、​心が​妄想の​なかに​逃げこもうと​しても、​決めた​時間割を​正確に​守る​こと、​決まった​時刻に​起き​上がる​こと、​骨の​折れる​難しい​仕事であっても​理由なく​遅らせずに​果たす​ことです。

​ 神と​隣人と​自分に​対する​義務を​果た​すために、​必要な​時間を​見つける​努力、​これも​償いです。​疲れや​嫌気や​冷淡な心であるにも​かかわらず、​祈りの​時間に​なれば​祈りを​する。​そう​すれば、​あなたは​償いの​人なのです。​償いとは、​自分の​家族を​はじめ、​隣人と​常に​最高の​愛徳を​もって​接する​こと、​つまり、​病人や​悲嘆に​打ち​ひしがれている​人々を​細やかな心で​お世話し、​都合の​悪い​時に​訪れる​うるさい​人々を​我慢して​迎える​ことです。​さらに​人々の​正当な​必要を​満た​すため、​快く​計画を​変更し、​あるいは​中止する​ことも。

​ 日々​出くわす幾多の​小さな​困難を​快活に​耐える、​始めた​ときの​熱意が​薄れても​任務を​中途で​放棄しない、​出された​ものを​わが​ままに​負けないで​感謝の​心で​いただく、​いずれも​償いの​わざです。​両親や、​一般に​指導・教育の​任に​携わる​人々の​場合なら、​必要な​時に、​主観や​感傷を​まじえずに、​過ちの​本質や​当事者の​状態を​勘案しながら、​過ちに​陥った​者を​正すことが​償いに​なります。

​ 償いの​精神が​あれば、​心を​込めて​描いた​将来の​大きな​夢に、​節度もなく​執着する​ことは​ないでしょう。​線や​色彩を​加える​ことを​神に​お任せし、​私たちが​自分の​落​書きや​下手な​筆使いを​避けるなら、​どれほど​喜んでくださる​ことでしょう。

より​神と​隣人に​近づく​ために​役立つ​行いを、​いく​つも​挙げる​ことは​できますが、​今は、​思いついた​ことを​少しだけ​お話ししました。​大きな​償いの​行為を​軽蔑しているわけでは​ありません。​それどころか、​主が​その道に​お呼びに​なれば、​常に​霊的指導者の​許しを​得て​実行する​限り、​大変立派で、​必要で​さえ​ある​ことを​知っておかなければなりません。​ただし、​大きな​犠牲は、​高慢の​生みだす​大きな​過ちと​両立すると​いう​事実も​知っておいてください。​微笑む気持ちの​ない​ときに​微笑む努力を​する​ことは、​時に、​一時間の​肉体的苦行よりも​辛い​ものです。​絶えず神を​お喜ばせする​ために、​小さな​ことに​おいて​常に​戦う​決意が​あれば、​高慢を​野放しに​する​ことも、​英雄気どりに​なることもない。​かえって​幼い​子供である​自分の​姿に​気づき、​御父は​どんなに​つまらない​ものでも​喜んで​受け入れてくださる​ことが​分かってきます。

​ と​いうわけで、​キリスト信者は、​いつも​愛ゆえに​償いを​捧げなければなりません。​聖パウロの​言うように、​私たちは​召し出しと​いう​宝を​「土の​器に​納めています。​この​並外れて​偉大な​力が​神の​ものであって、​わたしたちから​出た​ものでない​ことが​明らかに​なる​ために。​わたしたちは、​四方から​苦しめられても​行き詰まらず、​途方に​暮れても​失望せず、​虐げられても​見捨てられず、​打ち倒されても​滅ぼされない。​わたしたちは、​いつも​イエスの​死を​体に​まとっています、​イエスの​命が​この​体に​現れる​ために」22。

たぶん、​これまでは、​もっと​近くから​キリストに​従うべきことに​気づいていなかったのではないでしょうか。​小さな​自己放棄の​わざでも、​主の​救いの​わざに​合わせる​ことができることに​気づいていなかったのではないでしょうか。​仕えたくないと​執拗に​神に​敵対する​ルチフェルの​わざ、​あらゆる​時代の​罪と​私たちの​罪、​これら​すべてを​贖ってくださる​主に​一致できるのに、​それに​気づかなかったのではないでしょうか。​主に​愛の​讃歌を​歌う​ために、​吝嗇な​心や​小さな​犠牲を​捧げる​決心を​しないで、​「主よ、​愛すべき聖心を​痛めた​ことを​悲しく​思います」などと​言える​わけが​ありません。​まことの​償いを​捧げて、​愛と​献身の​道を​直進しましょう。​キリストと​同じように、​償いの​ため​自らを​神に​捧げ、​人々の​救霊の​ため愛徳の​実行に​努力するのです。

​ さあ、​急いで​愛を​実行してください。​愛する​心が​あれば​不平や​反発は​消えます。​しばしば​忍耐して​障害を​克服するけれども、​悲しみに​沈んでしまうようでは、​神の​恩寵を​むだに​するだけでなく、​神が​それ以上​要求なさる​ことも​できなくなってしまう。​「喜んで​与える​人を​神は​愛してくださる」23のです。​愛の​虜に​なり、​心から​喜んで​与える​人、​未練が​ましい​与え方を​しない​人に​なれば、​神の​愛を​受ける​ことができるのです。

今​一度、​自らの​生活の​仕方を​振り返り、​細やかさの​不足や、​心に​感じる​次のような​ことに​ついて​赦しを​願ってください。​無頓着な​言葉遣い、​自分の​ことのみに​終始した​あの​ときの​思い、​不安や​悲嘆、​馬鹿げた​心配のもととなった​あの​批判、​など。​信じてください、​幸せに​なれるはずなのです。​ご自分が​歩まれた​幸福への​道を、​喜びに​満ち、​幸せに​包まれて​歩む​私たちを、​主は​お望みです。​不幸だと​感じるのは、​強いて​脇道に​それ、​自己愛と​快楽の​小道に​入り込んでしまう​ときだけ、​あるいは​もっと​ひどい​偽善者の​道に​入り込んだ​ときだけです。

​ キリスト信者は​何を​するに​つけても、​真摯、​真実、​誠実でなければなりません。​私たちの​言動には、​キリストの​心が​あらわれなければならないのです。​首尾一貫した​生活を​すべき​人が​いると​すれば、​キリスト信者を​おいて​ほかに​誰が​いると​言えるでしょうか。​自由に​して​救い​24を​もたらす賜物25を、​実りを​与える​ために​与えられているのは、​ほかなら​ぬキリスト信者であるからです。

​ どう​すれば​誠実さを​身に​つける​ことができるのでしょうか。​イエス・キリストは​必要な​手段を​すべて​教会に​お与えに​なりました。​天の​御父と​交わる​方​法や​祈り方を​教え、​霊魂内で​働く​知られざる​偉大な​御者・聖霊を​遣わしてくださいました。​恩寵の​目に​見える​しるしである​秘跡を​も残してくださっています。​しばしば​秘跡に​あずかってください。​信心を​深めてください。​毎日の​祈りを​忘れず、​喜ばしい​重荷である​十字架から​離れないようにしましょう。​世間が​与える​ことのできない​平和と​喜びを​<振り撒きながら>、​地上を​旅する​善き弟子と​して​主に​従うよう​招いてくださったのは、​ほか​でもない​イエスです。​それゆえ、​生に​対しても、​死に​対しても、​恐れを​抱く​ことなく​歩まなければなりません。​キリスト信者に​とっては​清めの​手段であり、​兄弟たちに​常に​真実の​愛を​示す機会と​なる​苦しみを、​決して​避けては​なりません。

​ 時間が​来ました。​あなたの心を​動か​すための​話も、​そろそろ​結びにしなければなりません。​固い​決心を​少しだけ立ててください。​主は​あなたの​喜びだけを​お望みです。​あなたが​できる​限りの​ことを​すれば、​たとえ十字架が​なくなる​ことはないと​しても、​たい​そう​幸福に​なれるはずです。​その​十字架は、​十字架と​言っても​今や​刑具ではなくて、​玉座なのです。​キリストは​その​玉座から​すべてを​お始めに​なる。​そして、​その​傍らには​私たちの​母でもある​主の​母が​いらっしゃいます。​聖母マリアは、​御子の​跡に​従う​ために​必要な​力を、​送ってくださる​ことでしょう。

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