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典礼暦年の​初めが​訪れました。​ミサの​入祭文は、​キリスト信者の​生活原理、​つまり、​信者と​しての​召し出しと​深い​関係の​ある​事柄を​考えさせてくれます。​「主よ、​あなたの道を​わたしに​示し、​あなたに​従う道を​教えてください」1。​主の​掟の​頂点である​愛徳2に​向かう​ことができるように​お導きください、​主の​足跡を​お示しくださいとお願い​するのです。

​ 信仰に​合致した​生活を​送ろうと​決心しましたが、​その​時の​状況を​考えると、​感謝が​口を​ついて​出、​私たちに​功徳が​なかったのに​呼んでくださった​ことが、​偽りの​謙遜に​よってではなく、​素直に​納得できると​思います。​幼い​時から​神に​祈る​ことを​両親の​口から​学びました。​その後、​私たちがキリストから​目を​そらさないように、​先生も、​友人も、​知人も​あらゆる​方法で​助けてくれました。

​ 一般化すべきことではないので、​一人​ひとりが​心を​開いて​自らの​体験を​主に​申し上げましょう。​ある​日、​たぶんあなたと​同じ​信者である​友人が​深くて​新しい、​しかも​同時に​福音のように​古い​パノラマを​示してくれました。​真剣に​なって​キリストに​従い、​使徒たちの​使徒に​なる​可能性を​教えられたのです。​その​とき、​多分​驚いて​少しばかり​落ち着きを​失った​ことでしょう。​しかし、​遂に、​自分から​やる​気に​なって​ ― これが​最も​超自然的な​理由です ― 神に​向かって​「はい」と​答えました。​すると​あなたの​不安は​平安に​変わったのです。​そして、​何が​起ころうとも​変わる​ことなく​続く​喜び、​神から​離れた​時に​しか​消えない​喜びを​得たのでした。

​ 私たちが​選ばれた​人であるとか、​特権を​得た者であるとは​言いたく​ありません。​しかし、​話しかけお選びに​なるのは​キリストご自身なのです。​聖書に​そう​書いてあります。​「ご自分の​前で​聖なる者、​汚れの​ない​者にしようと、​キリストに​おいて​お選びに​なりました」3と​パウロが​述べている​通りなのです。​選ばれたからと​言って、​あなたが​高慢に​なったり、​自分が​他人より​優れていると​思ったりしない​ことは​わかっています。​召し出しの​根本である、​この​神から​選ばれたと​いう​事実は、​謙遜の​基礎と​なるべきはずだからです。​絵筆の​ために​記念碑を​建てたりするでしょうか。​絵筆は​傑作を​物に​する​ために​役立ちました。​しかし、​その​功績は​画家の​ものです。​わたしたちキリスト信者は、​世の​創造主・​全人​類の​救い主の​道具に​すぎないのです。

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