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人間からの応答

 この神の御憐れみを背景として、キリスト信者の生活が展開します。これが、御父の子どもとして生きるために信者が努力する場であります。召命がしっかりと根を下ろすようにするにはどんなことをすればよいでしょうか。今日は二つお教えしましょう。それはキリスト信者としての行動の生きた要のようなもの、つまり、信仰についての深い知識と内的生活をもつことなのです。

 第一に内的生活です。これがわかる人はまだなんと僅かなのでしょう。内的生活という言葉を耳にすると、うす暗い教会を想像し、でなければどこかの殺風景な香部屋を考える人々もあります。そうではないのだと言い続けて長い年月が経ちました。普通のキリスト信者は大抵外にいるのでその内的生活は戸外にあります。それは、街で、仕事・家庭・レジャーの時などにおいて、一日中イエスのことを忘れずにいることだと言えるでしょう。日常生活を絶えざる祈りの生活としないとすれば、それは一体何になるでしょうか。あなたを〈神のようにする〉ために導いてくださる神との交わりを求めて、祈りの人となることが必要だとわかったのではありませんか。これがキリスト教の信仰です。祈りの精神をもった人々は常にこのように理解してきたのです。アレクサンドリアのクレメンスの言葉を借りれば、「神がお望みになることを望む人は神のようになる」41のだと言えます。

 最初は困難でしょう。しかし、私たちに対する父としてのあれやこれやのいつくしみに感謝するためにも、神に向かって話しかけるためにも、努力をしなければなりません。そうすれば、気持ちの問題ではありませんが、神の愛も心に触れるように一気にはっきりしてくるでしょう。優しく私たちの後を追われるのはキリストであります。「わたしは戸口に立って、たたいている」42。私たちの祈りの生活はどうでしょうか。一日の間、時にはもっと落ち着いてキリストと語り合いたいと感じることはないでしょうか。後でお話ししますとか、後でこのことについて話し合いましょう、などと申し上げたことはないでしょうか。

 主との対話のために時間を決めると、心は大きくなり、意志は強められ、恩恵に助けられた知性は超自然的なことや人間的なことを深く洞察できるようになります。その結果、行いをよりよくし、どんな人とも愛徳をもって親切に交わり、愛と平和のキリスト教的な戦いにおいて、立派な運動選手のように一所懸命に励もうという実践的ではっきりした決心がいつも生まれることでしょう。

 心臓の鼓動や脈拍のように祈りは継続的になります。この神の現存なしには観想生活などあり得ません。観想生活がなければキリストのために働くことにもあまり価値がありません。主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしいからです43。

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