11

待降節への​期待

 救い主の​誕生まであと​幾日と​指折り​数え​始める​待降節第一主日の​今日、​いろいろな​ことを​十分に​申し上げたと​思います。​キリスト信者と​しての​召命の​真相、​すなわち人々を​聖性に​導き、​神に​近づけ、​教会に​一致させ、​すべての​人の​心に​神の​国を​拡げる​ために、​主は​どれほど​私たちを​頼りに​しておられるかと​いう​ことを​考えてきました。​私たちが​自己を​完全に​捧げ、​忠実であるように、​細やかで​愛情深い​ものであるようにと主は​望んで​おられます。​私たちが​聖人である​こと、​全く​主の​ものである​ことを​望んで​おられるのです。

​ 一方には​傲慢・官能・憎悪・利己主義が​あり、​他方には​愛・献身・いつくしみ・謙遜・犠牲・​喜びが​あります。​そして、​その​いずれかを​選ばなければなりません。​信仰・希望・愛の​生活に​召されたからには、​目標を​下げて​中途半端な​ところに​孤立している​わけには​いきません。

​ ある​時、​鉄の​おりに​閉じこめられている​鷲を​見たことがあります。​羽は​汚れて​半分抜けており、​足には​腐った​肉を​つかんでいました。​その​とき​自分の​ことを​考えてみたのです。​もし神から​受けた​召命を​捨てれば​どうなるであろうか、と。​あの​鳥は​非常に​高い​ところまで​飛翔し、​太陽を​正面から​見つめるべく​生まれてきているのに、​おりに​閉じこめられて​孤独な​姿を​さらしているのは​残念な​ことです。​私たちは、​神の​愛と​人々への​奉仕と​いう​〈謙虚な​高さ〉まで​昇る​ことができます。​しかし​その​ためには、​イエス・キリストの​光が​差し込まないような​陰が​心に​ないようにしなければなりません。​イエスから​自分を​遠ざけるような​すべての​心配事を​投げ捨てるべきです。​そう​すれば、​キリストは​知性にも、​言葉にも、​心にも、​業にも​留まってくださるでしょう。​心と​業・知性と​言葉からなる​生活全体は​こうして​神に​満たされるはずです。

​ 「身を​起こして​頭を​上げなさい。​あなたが​たの​解放の​時が​近いからだ」​50と​いう​福音書の​一節を​読んだ​ところです。​待降節は​希望の​季節です。​キリスト信者と​しての​召命に​ついての​広い​視野と父である​神の​現存を​中心とした​〈生活の​一致〉は、​日々​実現されなければなりません。

​ 聖母が​御子の​降誕を​待つ数ヶ月を​どのように​お過ごしに​なったかを​想像しながら、​ご一緒に​聖母に​願いましょう。​聖母は​私たちが​同じ​キリスト、​キリスト自身と​なる​ことができるように​助けてくださる​ことでしょう。

聖書への参照
この点を別の言語で