182

仕えつつ支配する

​ キリストの​支配に​心を​任せれば、​私たちは​人々の​支配者にではなく、​奉仕者と​なる​ことでしょう。​奉仕、​これは、​私の​好きな​言葉です。​王である​お方に​仕え、​この​王ゆえに、​その血に​よって​贖われた​すべての​人々に​仕える​こと。​キリスト信者が​奉仕の​精神を​学ぶことができればと​思います。​私たちの、​この​奉仕の​精神を​学ぶ決心を​主に​打ち明けて​助けを​お願いしましょう。​奉仕する​ことに​よって​のみ、​キリストを​知り、​愛し、​また​キリストを​人々に​知らせ、​人々が​もっと​キリストを​愛するようになるからです。

​ しかし、​人々に​キリストを​知らせる​方​法とは​どのような​ものでしょうか。​何を​するにも、​自ら​進んで​キリストに​隷属する​ことに​よって、​主の​証人と​なる、​つまり​模範を​示すのです。​主は、​生活の​あらゆる​面に​おける​主であり、​人間の​存在の​唯一究極の​理由です。​その​後、​つまり​模範を​もって​キリストの​証人と​なって​はじめて、​言葉で​教えを​説く​ことができるのです。​そして、​これが​キリストの​やり方でした。​「イエスが​行い、​また​教え​始めて​(…)」36。​キリストは​まず​行いに​よって​模範を​示し、​その後で、​神の​教えを​述べたのです。

​ キリストゆえに​人々に​仕えるには​徹底的に​人間的に​なる​必要が​あります。​万一​私たちの​生活が​非人間的で​あれば、​神は​何を​建てることもなさらないでしょう。​普通は、​無秩序や​利己主義、​権力などの​上には​何も​建設なさらないからです。​皆を​理解し、​誰とも​平和に​暮らし、​誰の​過失も​追及せず赦さなければなりません。​不正な​ことを​正しいとか、​神への​侮辱を​侮辱ではないとか、​悪を​善であると​言うのでは​ありません。​しかし、​悪に​悪を​返すのではなく、​明確な​教えと​善い​行いを​返す、​つまり善を​もって​悪を​制する​37ことに​したいのです。​このように​すれば、​私たちの​心と​周囲の​人々の​心は​キリストの​支配を​容易に​する​ことでしょう。

​ 自らの​心に​神の​愛を​抱かず、​また神の​愛ゆえに​人に​仕える​ことを​せずに、​この​世に​平和を​築こうとする​人が​います。​しかし、​このような​仕方で​平和を​もたらす​使命を​果たす​ことなどできるでしょうか。​キリストの​平和とは​キリストのみ​国の​平和の​ことです。​しかも、​わが​主のみ​国の​基礎と​なるのは​聖性への​望みと、​恩恵を​受け入れる​ための​謙遜な​心構え、​正義にかなった​行いに​努力を​傾け、​神が​なさるように​惜しみなく​愛を​〈振り撒く​〉生活なのです。

この点を別の言語で