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神の​子に​相応しい​落ち着き

 ​「しかし​こんな​ことに​耳を​貸す人は​いない、ましてや実行する​人と​なれば​な​おさらいない」と​言う​人も​いるでしょう。​確かに​そうだと​思います。​自由と​いう​植物は​強くて​丈夫な​ものですが、​石地や​茨の​間、​あるいは​人々が​遠慮会釈なく​踏みつけて​通る​道45では​うまく​育たない​ものだからです。​これに​ついては​キリストが​この​地上に​おいでになる​前から、​私たちに​告げておられました。

​ 詩編の​第二編を​思い​起こしてください。​「なに​ゆえ、​国々は​騒ぎ立ち、​人々は​むなしく声を​あげるのか。​なに​ゆえ、​地上の​王は​構え、​支配者は​結束して​主に​逆らい、​主の​油注がれた​方に​逆らうのか」46。​今に​なって​始まった​ことではないことが​おわかりに​なるでしょう。​キリストの​降誕以前から、​すでに​キリストに​反抗する​人々が​いました。​キリストの​平和を​告げる​足音が​パレスチナの​道々に​響きわたる​ときにも、​彼に​反対する​人々が​いました。​そして​その​後​現在まで、​キリストの​神秘体の​成員を​攻撃し、​迫害し続けているのです。​なぜ、​こんなに​憎むのでしょうか。​なぜ、​汚れない​清純な​人々を​これほど​苦しめるのでしょうか。​なぜ、​個々の​人の​良心の​自由を​押しつぶそうと​する​態度が​こんなにも​広がっているのでしょうか。

​ 「我らは、​枷を​はずし、​縄を​切って​投げ捨て​よう」47。​快い軛を​壊し、​聖性と​正義、​恩恵・愛・平和と​いう​素晴らしい​荷、​キリストの​荷を​捨て​去るのです。​愛を​みて腹を​立て、​自分を​守る​ために​天使の​軍勢を​お呼びに​なる​48ことも​敢えてなさらず、​全く​逆ら​おうとも​されない​神の​優しさを、​人々は​あざけるのです。​もし、​主が​仲裁を​お認めに​なると​すれば、​あるいは、​何人かの​無実の​罪の​人たちを​犠牲に​して​大部分を​占める​罪人の​償いと​すると​いうのであれば、​主と​話し合いを​試みる​ことも​できるでしょう。​しかし、​このような​やり方は​神の​お考えでは​ありません。​私たちの​父は​本当の​父であって、​たとえ正しい​人が​十人しかいなくても​49、​悪の​働き手が​何千人いようとも​彼らを​赦そうと​心を​決めて​おられます。​憎悪に​狂う​人たちは、​このような​慈しみの​心を​理解できず、​この​世で​罰を​受けないように​見えるのを​よいことに​元気づいて、​ますます悪を​働くのです。

​ 「天を​王座と​する方は笑い、​主は​彼らを​嘲り、​憤って、​恐怖に​落とし、​怒って、​彼らに​宣言される」50。​神の​怒りは​当然の​こと、​その​憤りも​道理に​適った​ことでしょう。​しかし、​神の​慈悲は​なんと​深い​ことでしょう。

​ 「『聖なる​山シオンで、​わたしは​自ら、​王を​即位させた』。​主の​定められた​ところに​従って​わたしは​述べよう。​主は​わたしに​告げられた。​『お前は​わたしの​子、​今日、​わたしは​お前を​生んだ』」51。​父である​神は、​慈しみ深い​心から、​御子を​私たちの​王と​してお与えに​なりました。​人間を​脅かす​ことは​あっても、​すぐに​その心を​和らげ、​怒りを​示すと​同時に​ご自分の​愛を​お恵みに​なります。​お前は​私の​子だ、​と​御父は​御子に​向かって​言われます。​私たちがもう​一人の​キリスト・​同じ​キリストに​なる​決心を​すれば、​あなたにも​私にも​そのように​言ってくださるのです。

​ 神の​優しさを​知って​感動する​心を​言葉で​表すことは​できません。​お前は​私の​子だ、​とおっしゃっています。​見知らぬ人でも、​よい​待遇を​うける​召​使いでもない、​ただの​友人でもありません。​友だと​言ってくださるだけでも​ありが​たい​ことですが、​それだけではなく、​「子よ!」と​言ってくださいます。​神に​対して​望むままに​子と​しての​情愛を​表すことができるのです。​さらに、​決して​願いを​拒むことを​なさらない​神は、​その神の​子の​厚かましい​態度さえ​認めてくださるとまで​言いたいと​思います。

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