184

自由

 キリスト信者は、​自らの​義務である​仕事に​従事する​とき、​人間的な​ものに​固有の​義務を​避けたり​無視したり​すべきでは​ありません。​人間の​諸活動を​祝福すると​いう​言葉が​諸活動に​固有な​働きを​否定したりごまか​したりする​ことであると​解釈されるような​ことがあると​すれば、​そのような​表現を​使いたく​ありません。​個人的な​考えと​しては、​付け足しの​看板のように、​通常の​活動に​宗教的な​形容詞を​仰々しく​付すことには​賛成できません。​反対意見は​尊重しますが、​そうする​ことに​よって​私たちの​信仰を​みだりに​用いる​危険が​あるからです。​さらに​もう​一つの​理由は、​カトリックと​いう​レッテルを、​必ずしも​信義にかなうとは​言えないような​立場や​運動を​正当化する​ために​使う​人々も​いたからなのです。

​ この​世界と​その中に​ある​罪以外の​すべての​ものが​善いと​すれば、​それは​私たちの​主である​神の​働きに​よる​ものです。​キリスト信者は、​神を​侮辱する​ことの​ないよう常に​戦いつつ、​つまり​愛から​出る​積極的な​戦いを​続けながら、​この​世の​あらゆる​分野で​人々と​肩を​組んで​活躍し、​人格の​尊厳に​由来する​あらゆる​善を​弁護しなければなりません。

​ そのなかでも​特に​一つ常に​探し求めるべきものが​あります。​それは​個人の​自由と​いう​善の​ことです。​他人の​自由と​それに​伴う​個人的な​責任を​擁護してこそ、​人と​して、​キリスト信者と​して、​恐れる​ことなく​自らの​自由を​弁護する​ことができるでしょう。​これからも、​絶えず次の​ことを​繰り返し申し上げたいのです。​主は​無償で​超自然の​賜物である​恩恵を​お与えに​なりましたが、​さらに​もう​一つ、​個人の​自由と​いう、​人間に​相応しく​素晴らしい​贈り物を​くださいました。​この​自由が​崩壊して​自由放埓に​ならないように​する​ため、​神法にかなった​活動を​する​とき、​実効的な​努力と​十全な​態度が​要求されています。​主の​霊の​おられる​ところに​自由が​ある​43からです。

​ キリストのみ​国は​自由の​国です。​そこには、​神の​愛ゆえに​望んで​自己を​鎖で​縛る​召​使いしかいません。​幸いなるかな、​私たちを​自由に​する​愛ゆえの​隷属は!​ 自由が​なければ​恩恵に​応える​ことは​できません。​自由が​なければ、​〈やる​気が​あるから​やるのだ〉と​いう​最も​超自然的な​動機に​よって、​何ものにも​拘束されずに、​すべてを​主に​捧げる​ことは​できないのです。

​ 今、​私の​言葉を​聞いてくださる​方​々の​中には、​もう​何年も​前から​私を​知ってくださっている​方も​いらっしゃいます。​そのような​方​々は、​私が​生涯を​かけて、​個人の​自由と​それに​伴う​個人の​責任に​ついて​説き続けてきた​ことを​証明してくださるでしょう。​私は​この​世に​自由は​ない​ものかと​一所​懸命探し求めてきました。​今も​探し続けているのです。​そして​日増しに​自由を​愛する、​と申し上げます。​この​世の​何ものにも​増して​自由を​愛しています。​自由こそ決して​十分に​評価し尽く​すことのできない宝であるからです。

​ 個人の​自由に​ついて​話すとき、​司祭と​しての​私の​職務に​関係の​ない​問題には、​たとえ問題自体が​正当であっても​自由を​口実に​口を​挾むつもりは​ありません。​世俗的な、​やがて​過ぎ去る​一時的な​話題を​扱うのは​私の​仕事ではないと​承知しております。​そのような​問題は、​現世的・​社会的分野に​属する​ものであって、​主が​人々の​静かな​話し合いに​お任せに​なった​事柄であるからです。​また、​司祭は、​いずれの​党派にも​属する​ことなく、​神に、​そして​神の​救いに​関係する​霊的な​教えに​人々を​導き、​イエス・キリストの​制定に​なる​秘跡に​人々を​近づけ、​さらに​内的生活に​進歩するよう指導する​ことに​よって、​神の​子である​人間が​互いに​例外なく​兄弟である​ことを​自覚できるよう助ける​時のみ、​口を​開くべきである​ことも​知っている​つもりです。

​ 本日は​王である​キリストの​祝日です。​キリストのみ​国を​政治的な​意味に​解釈する​人々は​信仰の​超自然の​目的を​十分深く​理解していない、​また、​そのような​人々は、​わたしの​軛は​負いやすく、​わたしの​荷は​軽い​44、​と​主が​仰せに​なったのに、​人の​良心に​キリストの​ものではない​重荷を​負わせようと​すると​言っても、​祭司職に​無関係な​ことを​言っている​ことには​なりません。​すべての​人々を​本当に​愛しましょう。​そして​何にもまして​キリストを​愛さなければなりません。​そう​すれば、​平穏で​理に​適った​社会生活に​おいて、​当然、​他人の​正当な​自由を​尊重する​ことに​なると​思うのです。

この点を別の言語で