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聖ヨハネの​書いた​もう​一つの​敵は、​感覚でとらえられる​ものにだけ価値を​認める​貪欲、​「目の​欲」であります。​地上の​物事に​吸いつけられたようになっている​眼は、​その​ために​超自然的な​事柄を​見出すことができないのです。​物質的な​富に​対する​貪欲、​他人や​生活環境や​時間など​私たちの​周囲の​物事を​人間的な​見方に​よって​見つめさせる​歪みを、​聖書の​この​言葉に​含める​ことができます。

​  心の​眼が​鈍ると、​自力で​十分に​悟る​ことができると​信じ込んで、​理性は​神を​除外しようとします。​しかし、​これは​知性の​尊厳に​働きかける​巧妙な​誘惑です。​理性とは​父である​神が​自由に​神を​知り愛するように​お与えくださった​ものだったのです。​ところが​この​誘惑に​引きずられて、​人間の​知性は​自分が​宇宙の​中心であると​思い込み、​「神のようになる」22ことに​再び強く​あこがれます。​そして​自己愛で​一杯に​なった​理性は​神の​愛に​背を​向けるのです。

​ かくして​私たちの​存在は、​第三の​敵である​「生活の​おごり」の​手中に​無条件に​陥る​ことになります。​これは​虚栄心とか​自愛心とかを​一時的に​持つと​いうだけではなく、​思い​上がりの​状態を​持続すると​いう​ことであります。​自分を​欺くのは​止めましょう。​これは​悪の​中でも​最も​醜く、​あらゆる​逸脱の​原因に​なる​ものです。​傲慢に​対しては​いつも​戦わなければなりません。​人が​死んでも​傲慢は​その​翌日まで​死なないと​言われているのも​尤もな​ことです。​ファリサイ派の​人々は​傲慢でしたから、​彼らを​義と​する​ことを​神は​拒まれました。​自己満足と​いう​壁が​あったからです。​他人を​見下げ、​支配し、​悪く​あしらうに​至らせるのは​傲慢に​よる​ことです。​なぜならば、​「傲慢の​ある​ところには​怒りと​偽りとがある」23からです。

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