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キリスト教の​すべての​祝日同様、​今日​迎える​祝日は​平和の​祝日です。​古から​象徴的な​意味を​有する​オリーブの​枝を​見ると、​創世記の​次の​場面を​思い出します。​「更に​七日待って、​彼は​再び鳩を​箱舟から​放した。​鳩は​夕方に​なって​ノアのもとに​帰って​来た。​見よ、​鳩は​くちばしに​オリーブの​葉を​くわえていた。​ノアは​水が​地​上から​ひいた​ことを​知った」1。​神と​その​民との​契約が、​今、​キリストに​おいて​固められ確立された​ことを​思い出します。​キリストに​おいてと​いうのは、​「キリストは​わたしたちの​平和」2であるからです。​古きものと​新しきものとが​素晴らしい​形で​一致・​結合していると​いう​事実、​これこそ聖なる​カトリック教会の​典礼の​特徴ですが、​その​典礼には、​次のような​喜びに​満ちた​言葉が​みられます。​「ヘブライ人の​子らは、​オリーブの​枝を​もって​主を​迎え、​天の​高き所に​ホザンナ、と​歓呼した」3。

​ 馬小屋で​お生まれに​なった​とき​お受けに​なった​歓呼、​その​イエス・キリストを​歓呼する​声が​心の​なかに​大きく​響いてきます。​「イエスが​進んで​行かれると、​人々は​自分の​服を​道に​敷いた。​イエスが​オリーブ山の​下り坂に​さしかかられた​とき、​弟子の​群れは​こぞって、​自分の​見た​あらゆる​奇跡の​ことで​喜び、​声高らかに​神を​賛美し始めた。​『主の​名に​よって​来られる​方、​王に、​祝福が​あるように。​天には​平和、​いと​高き​ところには​栄光』」4。

​地に​平和

 天に​平和。​しかし、​この​世にも​目を​向けてみましょう。​地上にはなぜ平和が​ないのでしょうか。​確かに、​平和を​見つける​ことは​できません。​あるのは、​上辺だけの​平和、​恐れが​動機と​なっている​均衡状態、​あてにならない​約束だけです。​教会にも​平和は​ありません。​キリストの​花嫁の​汚れの​ない​衣裳は​引き裂かれているのです。​人々の​心にも​平安を​見つける​ことは​できません。​人々は​心の​不安を​なんとかしようと​奔走しますが、​いつも​苦い​後味を​味わう​のみですから、​満たしてくれるは​ずも​ないつまらない​慰めで、​いたずらに​心を​満た​そうと​するばかりです。

​ 「棕櫚の​葉は、​勝利を​意味する​故に​敬意を​表すしるしである。​主は​十字架上で​死去する​ことに​よって​勝利を​得んばかりだった。​十字架の​しるしを​以て​死の​帝王・悪魔に​打ち勝たんばかりであった」5と​聖アウグスチヌスは​書いています。​キリストは、​人々の​心に​積りつもった​悪意と​戦ったが​故に​勝利を​得、​勝利を​得たが​故に​私たちの​平和なのです。

​ キリストは、​私たちの​平和であると​同時に、​道でもあります6。​平和を​望むなら​キリストの​跡に​従わなければなりません。​平和とは、​戦い、​つまり徳を​修める​ための​内的戦いの​結果と​して​得る​ことができる​ものです。​キリスト信者は、​高慢・官能・利己主義・浅薄・狭い心に​対して、​つまり、​神からではない​もの​すべてに​対抗して​戦わなければなりません。​「悪意、​殺意、​姦淫、​みだらな​行い、​盗み、​偽証、​悪口などは、​心から​出て​来る」7ものですから、​心の​奥底に​良心の​平安が​なければ、​いくら​外面的な​安らぎを​叫び求めても​無益なのです。

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