心戦

1971年4月4日 枝の主日


キリスト教の​すべての​祝日同様、​今日​迎える​祝日は​平和の​祝日です。​古から​象徴的な​意味を​有する​オリーブの​枝を​見ると、​創世記の​次の​場面を​思い出します。​「更に​七日待って、​彼は​再び鳩を​箱舟から​放した。​鳩は​夕方に​なって​ノアのもとに​帰って​来た。​見よ、​鳩は​くちばしに​オリーブの​葉を​くわえていた。​ノアは​水が​地​上から​ひいた​ことを​知った」1。​神と​その​民との​契約が、​今、​キリストに​おいて​固められ確立された​ことを​思い出します。​キリストに​おいてと​いうのは、​「キリストは​わたしたちの​平和」2であるからです。​古きものと​新しきものとが​素晴らしい​形で​一致・​結合していると​いう​事実、​これこそ聖なる​カトリック教会の​典礼の​特徴ですが、​その​典礼には、​次のような​喜びに​満ちた​言葉が​みられます。​「ヘブライ人の​子らは、​オリーブの​枝を​もって​主を​迎え、​天の​高き所に​ホザンナ、と​歓呼した」3。

​ 馬小屋で​お生まれに​なった​とき​お受けに​なった​歓呼、​その​イエス・キリストを​歓呼する​声が​心の​なかに​大きく​響いてきます。​「イエスが​進んで​行かれると、​人々は​自分の​服を​道に​敷いた。​イエスが​オリーブ山の​下り坂に​さしかかられた​とき、​弟子の​群れは​こぞって、​自分の​見た​あらゆる​奇跡の​ことで​喜び、​声高らかに​神を​賛美し始めた。​『主の​名に​よって​来られる​方、​王に、​祝福が​あるように。​天には​平和、​いと​高き​ところには​栄光』」4。

​地に​平和

 天に​平和。​しかし、​この​世にも​目を​向けてみましょう。​地上にはなぜ平和が​ないのでしょうか。​確かに、​平和を​見つける​ことは​できません。​あるのは、​上辺だけの​平和、​恐れが​動機と​なっている​均衡状態、​あてにならない​約束だけです。​教会にも​平和は​ありません。​キリストの​花嫁の​汚れの​ない​衣裳は​引き裂かれているのです。​人々の​心にも​平安を​見つける​ことは​できません。​人々は​心の​不安を​なんとかしようと​奔走しますが、​いつも​苦い​後味を​味わう​のみですから、​満たしてくれるは​ずも​ないつまらない​慰めで、​いたずらに​心を​満た​そうと​するばかりです。

​ 「棕櫚の​葉は、​勝利を​意味する​故に​敬意を​表すしるしである。​主は​十字架上で​死去する​ことに​よって​勝利を​得んばかりだった。​十字架の​しるしを​以て​死の​帝王・悪魔に​打ち勝たんばかりであった」5と​聖アウグスチヌスは​書いています。​キリストは、​人々の​心に​積りつもった​悪意と​戦ったが​故に​勝利を​得、​勝利を​得たが​故に​私たちの​平和なのです。

​ キリストは、​私たちの​平和であると​同時に、​道でもあります6。​平和を​望むなら​キリストの​跡に​従わなければなりません。​平和とは、​戦い、​つまり徳を​修める​ための​内的戦いの​結果と​して​得る​ことができる​ものです。​キリスト信者は、​高慢・官能・利己主義・浅薄・狭い心に​対して、​つまり、​神からではない​もの​すべてに​対抗して​戦わなければなりません。​「悪意、​殺意、​姦淫、​みだらな​行い、​盗み、​偽証、​悪口などは、​心から​出て​来る」7ものですから、​心の​奥底に​良心の​平安が​なければ、​いくら​外面的な​安らぎを​叫び求めても​無益なのです。

戦い​ ― 愛と​正義の​約束

 この​戦いと​いう​言葉は​もう​使い古され​廃れてしまったのではないでしょうか。​あるいは、​似て​非なる​科学の​衣裳でもって、​個人的な​失敗を​覆い隠すような​言葉に​とって​換えられたのではないでしょうか。​暗黙の​うちの​合意が​あって、​本当の​善とは、​何でも​買う​ことのできる​お金、​現世の​権力、​常に​高位に​居続けるずる​賢さ、​自分は​大人であると​考え、​また、​聖なる​ものは​〈時代遅れ〉だと​考える​浅薄な​知恵ではないのでしょうか。

​ 私は​元来悲観論者では​ありません。​信仰の​教えに​よって、​キリストは​決定的な​勝利を​得た​上に、​その​勝利の​証拠と​して、​一つの​命令を​お与えに​なった​ことを​知っているからです。​その​命令は​同時に​約束でもあります。​つまり、​戦う​こと。​キリスト信者は​神の​恩恵の​呼びかけに​応えて、​自由に​愛の​義務を​受け入れました。​その​義務に​動かされ、​私たちは​執拗な​戦いに​向かいます。​なぜなら、​私たちには​人々と​同じ​弱さが​ある​ことが​わかっているからです。​しかし、​それと​同時に、​手段さえ​講ずれば、​地の​塩・世の​光・世の​酵母と​なる​ことも​できる、​つまり、​神を​お慰めする​ことさえできる​ことを​忘れる​わけには​いきません。

​ 神の​愛に​留まるべく​努力を​続け堅忍しようと​いう​心づもりは、​正義に​適う​義務でもあります。​そして​すべての​信者に​共通の​この​義務は​絶えず​戦うことに​よって​果た​すことができるのです。​聖伝に​よると、​信者は、​自己の​悪への​傾きと​戦い​続ける​一方、​人々に​平安を​もたらす兵士であると​教えています。​ところが、​超自然の​見方を​欠いたり、​冷えきった​信仰を​持っていたりする​ため、​人々は、​この​世に​おける​生活は​戦いである​ことを​なかなか​理解しようとしません。​信者は​キリストの​兵士であると​考えれば、​信仰を、​暴力や​派閥と​いう​現世的な​目的を​達成する​ための​手段に​する​ことに​なるのではないかと、​悪意に​満ちた​解釈を​するのです。​このような​考え方は、​悲しむべき単純化であって、​あまり​論理的とは​言えませんが、​大抵の​場合、​安楽で​臆病な​態度から​生まれます。

​ 狂信ほど​キリスト教と​似ても​似つかない​ものは​ありません。​狂信とは、​どんな​種類の​ものであれ、​現世的な​ものと​霊的な​ものとを​変な​具合に​調和させようと​する​態度であります。​しかし、​戦いと​いう​ことを​キリストの​教えに​従って​解釈すれば、​狂信に​陥る​危険など​皆無です。​キリストの​お教えに​なる​戦いとは、​自分​自身との​戦い、​利己主義を​放棄する​ための​戦い、​人々に​仕える​ための​戦いであるからなのです。​理由の​如何を​問わず、​この​戦いを​あきらめるなら、​初めから​敗北と​壊滅を​認め、​信仰を​失い、​落胆し、​つまらない​快楽に​浮身を​やつすことになります。

​ 神のみ​前で、​また​信仰を​同じく​する​兄弟と​共に​続ける​霊的な​戦いは、​キリスト信者に​とっては​必要事、​信者と​して​当然の​義務なのです。​それゆえ、もし戦わない​人が​あれば、​その​人は​キリストを​裏切る​のみでなく、​キリストの​神秘体、​つまり​教会を​も裏切る​ことに​なるのです。

不断の​戦い

​ キリスト信者の​戦いは​絶え間なき戦いです。​内的生活に​あっては​いつまで​経っても​何度でも​始める​必要が​あるからです。​そして​不断の​戦いが​あれば、​高慢にも​自分は​もう​完全だと​考える​ことは​なくなってしまいます。​道を​進むに​あたって​数多くの​困難を​避ける​ことは​できません。​障害に​出くわさないと​いう​ことに​なれば、​それは​私たちが​生身の​人間ではないと​言うに​等しくなるでしょう。​人を​卑しい​ものの​方​へ​引っ張る​欲情は​いつまで​経っても​消える​ものでは​ありませんから、​程度の​差こそ​あれ、​そのような​激しい​欲情から​身を​守る​戦いを​いつも​続けなければならないのです。

​ 傲慢や​官能、​妬み、​怠惰、​また​他人を​征服したいと​いう​欲望の​棘が、​心と​身体に​刺さっている​ことが​わかっても、​大発見を​したことには​なりません。​それは​個人的な​体験に​よって​確認済みの、​昔から​ある​悪なのです。​この​棘こそは、​心の​中の​この​戦いを​通して、​御父の​家に​至るまでの​競走に​勝利を​得る​ための​出発点であり、​競走の​場なのです。​「わたしと​しては、​やみくもに​走ったりしないし、​空を​打つような​拳闘もしません。​むしろ、​自分の​体を​打ちたたいて​服従させます」8。

​ キリスト信者で​あれば、​戦いを​始める​ために、​外的な​しるしや、​乗り気に​なるのを​待つべきでは​ありません。​内的生活は​気分や​気持ちの​問題ではなく、​神の​恩恵および愛、​すなわち意志の​問題だからです。​弟子たちは​皆、​キリストに​付き従う​ことができましたが、​それは、​エルサレムでの​凱旋の​ときだけであって、​十字架の​死刑の​ときには、​ほとんど​皆が​キリストを​置き去りに​してしまったのです。

​ 本当に​愛するには、​信仰と​希望と​愛の​徳に​しっかり​根差した​心を​持ち、​逞しく、​忠誠でなければなりません。​中身の​ない​軽薄な​態度だけが、​軽々しく​愛の​対象を​変えてしまいます。​しかも​そのような​愛は​実は​愛とは​言えず、​自分の​ことしか​考えない​利己的な​埋め合わせに​すぎないのです。​愛の​ある​ところには、​依託・犠牲・努力・​自己放棄を​辞さない​堅固さも​あります。​そして​依託と​犠牲と​自己放棄の​生活を​していれば、​困難に​さいなまれても、​幸せと​喜びを​得る​ことができます。​しかも​その​喜びが​取り去られる​ことは​決してないのです。

​ 痛悔の​心を​持ち、​生活を​改める​良い​決心を​立て、​ゆる​しの​秘跡を​通して​神の​許に​馳せよれば、​この​愛ゆえの​戦いの​間に、​過失、​それも​重大な​過失を​犯しても​悲しみを​覚える​ことは​ないでしょう。​キリスト信者は​汚点の​ない​偏執的な​収集家ではないのです。​わが​主イエス・キリストは​ヨハネの​純潔と​忠実に​いたく​心を​動かされましたが、​失敗の​あとの​ペトロの​痛悔にも​心を​打たれたのです。​イエスは​私たちの​弱さを​ご存じですから、​私たちが​毎日​少しずつ執拗に​坂道を​上るよう​お望みに​なりますが、​ゆる​やかな​坂道を​越えて​少しずつ​ご自分の​方​へ​向かう​よう​引き寄せてくださいます。​エマオの​二人の​弟子を​ご自分から​捜しに​出ていかれたように、​また、​トマスを​捜し、​御手と​御脇腹の​傷を​お示しに​なり、​手を​入れるように​とおっしゃったように、​私たちを​捜しておいでになります。​我々人間の​弱さを​ご存じだから​こそ、​イエス・キリストは​私たちが主の​許に​戻るのを​待ってくださるのです。

心戦

 ​「キリスト・イエスの​立派な​兵士と​して、​わたしと​共に​苦しみを​忍びなさい」9と​聖パウロは​勧めています。​キリスト信者の​生活は、​戦い・戦争、​つまり​美しい​平和の​戦いであって、​人間の​引き起こす戦争の​ことでは​ありません。​人間の​戦争は​分裂に​始まり、​憎悪に​鼓舞された​ものですが、​神の​子の​戦いは​自己愛との​戦いであって、​一致と​愛を​基とします。​「わたしたちは​肉に​おいて​歩んでいますが、​肉に​従って​戦うのでは​ありません。​わたしたちの​戦いの​武器は​肉の​ものではなく、​神に​由来する力であって​要塞も​破壊するに​足ります。​わたしたちは​理屈を​打ち破り、​神の​知識に​逆らう​あらゆる​高慢を​打ち倒し、​あらゆる​思惑を​とりこに​して​キリストに​従わせ」​10る 。​ここで​いう​戦いとは、​う​ぬぼれ、​悪へ​向かわせる​勢力、​思い​上った​理性に​抗する​休みなき前哨戦の​ことなのです。

​ 私たちの​主が​人間の​救いに​とって​重要な​季節を​お始めに​なる​枝の​主日には、​上辺だけの​浅はかな​考えを​捨てて、​中心に​なる​もの、​本当に​大切な​ものに​向かいましょう。​私たちの​狙いは​天国に​入る​ことなのです。​万一、​天国に​入れないと​すれば​何を​しても​無駄に​過ぎなくなります。​天国に​入る​ためには​キリストの​教えに​忠実でなければなりません。​そして、​忠実である​ためには、​永遠の​幸せの​邪魔を​する​障害に​対抗して、​絶え間なき戦いに​没頭しなければならないのです。

​ 戦いに​ついて​話すと、​すぐに​私たちの​弱さを​頭に​浮かべて、​戦う​前から​失敗や​過ちの​ことを​考えてしまいます。​しかし、​神は​それも​よく​ご存じなのです。​また​道を​歩む限り、​どうしても​ほこりを​巻き上げてしまいます。​私たちは​創られた​もの、​欠点だらけの​存在であって、​いつまで​経っても​欠点を​取り除く​ことは​できないと​申し上げたいのです。​しかし、​それらは​魂のかげりであって、​その​おかげで、​それとは​対照的に、​神の​恩恵と​神の​恵みに​応えようとする​私たちの​努力が​光と​輝きを​帯びてきます。​しかも光と​陰、​つまり​私たちの​努力と​過ちの​おかげで、​私たちは​親切と​謙遜・理解力と​寛大さを​備えた​人に​なることができるのです。

​ 自分を​欺かないようにしましょう。​人生には​さっそうとした​ところや​勝利が​あるのと​同じく、​落ちぶれた​ところや​敗北も​あります。​キリスト信者の​一生、​列聖された​聖人の​人生行路も​常に​このような​ものでした。​ペトロや​アウグスチヌスや​フランシスコの​ことを​覚えているでしょう。​母の​胎内に​いる​ときから​恩恵に​固められていたかのように​聖人の​偉業を​語る​伝記類は​読むに​たえません。​それは​素朴な​心から​出た​ものですが、​同時に、​教理の​知識が​不足していた​結果​生まれた​ものです。​キリストの​英雄たちの​本当の​伝記は​私たちと​同じなのです。​彼ら​とて​戦っては​勝利を​得、​また​戦っては​敗北を​喫した​ものです。​そして​敗れた​ときは、​痛悔の​心を​もって​再び戦いに​赴いたのです。

​ 敗北の​憂き目に​遭えばいつも​心に​痛みを​感じる​ことでしょう。​しかし​大抵の​場合、と​いう​より、​いつもは​あまり​大切でない​敗北に​違い​ありませんから、​驚く​必要は​ないのです。​神の​愛が​あり、​謙遜と​堅忍の​心が​あり、​執拗に​戦いを​続ける​限り、​このような​敗北も​たいして​重大な​意味を​持つことは​ありません。​戦い​続ける​限り、​いずれ勝利が​訪れるからです。​しかも​その​勝利は​神の​目に​とっては​栄光であります。​神のみ​旨を​果た​そうと​望みつつ、​無力な​自分に​頼らず神の​恩恵に​頼って、​しかも​正しい​意向を​持って振る​舞う​ならば、​失敗など​あり得ないのです。

ところが、​キリストの​教えを​完全に​実行しようとする​望みに​反抗する​強力な敵、​傲慢が​待ち構えています。​しかも、​失敗と​敗北の​後で​主の​優しい​御手と​慈悲とを​求めないと、​この​傲慢と​いう​敵は​勢力を​増してくるのです。​そうなると、​魂は​うら悲しい​暗闇に​覆われ、​自分は​だめだと​考えてしまいます。​そのうえ少しでも​謙遜に​なれば、​すぐに​障害でない​ことがわかるはずなのに、​そうなれないが​ために​想像力は​ありも​しない​障害を​でっちあげていきます。​傲慢な​想像に​よって​魂は​時と​して​複雑な​カルワリオに​包まれてしまうのです。​ところが、​キリストは​そのような​カルワリオには​おいでになりません。​たとえ魂が​暗闇に​囲まれ、​苦痛に​打ち​ひしがれていても、​主が​おられる​ところでは​平和と​喜びを​味わうことができるは​ずだからです。

​ 私たちの​聖性を​妨害する​もう​一人の​偽善的な​敵が​います。​それも​傲慢の​もう​一つの​現れですが、​内的戦いとは​特別の​障害、​火を​噴く​竜に​立ち向かう​ことだと​考えてしまう​こと、​つまり​ラッパを​吹いて​鳴り物入りで、​派手に​戦おうと​する​態度の​ことです。

​ 岩に​とって​一番の​大敵は、​つる​は​しや斧でも、​ほかの​鋭い​道具でもありません。​大敵は​岩の​割れ目に​一滴ずつ浸入し、​やがて、​岩の​構造を​破壊してしまう​水滴なのです。

​ キリスト信者に​とって​最大の​危険は、​小競り合いを​軽視する​態度ですが、​そのような​態度は​徐々に​魂を​侵し、​ついには​脆くて​弱い​人、​神の​声に​無関心で​鈍感な​人に​してしまいます。

​ 主の​おっしゃる​ことに​耳を​傾けましょう。​「ごく​小さな​事に​忠実な​者は、​大きな​事にも​忠実である。​ごく​小さな​事に​不忠実な​者は、​大きな​事にも​不忠実である」11。​主は​次のような​ことを​思い出させようと​しておられるようです。​つまらない​ことだと​思うだろうが、​私から​みれば​いずれも​偉大な​ことであるから、​小さな​ことに​おいて​絶えず​戦いなさい。​時間通りに​義務を​果たしなさい。​たとえ心に​痛みを​感じていても​微笑みを​必要と​する​人には​微笑みかけなさい。​祈りに​必要なだけの​時間を​惜しまずに​費やしなさい。​助けを​必要と​する​人には​助けの​手を​差し​伸べなさい。​正義にかなった​行いだけで​満足せずに、​愛徳を​実行しなさい。

​ 他にも​ありますが、​今​述べたような​事柄こそ、​克己と​いう​この​超自然の​スポーツに​おいて​勝利を​得る​ため、​練習に​励めと​促す無言の​勧めであり、​霊感なのです。​神の​光に​照らされ、​主の​警告に​気づく​ことができますように、​神が​お助けに​なりますように。​そして​勝利を​得た​とき、​主が​私たちの​傍らに​おいでになりますように。​倒れた​ときに​お見捨てになることがありませんように。​このような​神の​助けが​あれば、​いつも​立ち​上がり、​戦い​続ける​ことができるでしょうから。

​ じっと​している​わけには​いきません。​もっと​迅速に、​もっと​強く​激しく、​さらに​広範囲に​わたる​戦いを​続ける​よう、​主は​願っておられます。​自己を​改善し続けなければなりません。​この​戦いの​唯一の​目標は、​天国の​栄光に​到達する​ことだからです。​万一天国に​入れなかったと​すれば、​すべてが​無駄に​なります。

恩恵の​泉 ― 秘跡

 戦いを​望む者は​手段を​選びます。​そして、​二十世紀に​わたる​キリスト教の​歴史を​通して、​祈りと​犠牲と​秘跡が​内的戦いの​手段である​ことに​変わりは​ありませんでした。​ところで、​犠牲は​感覚に​よる​祈りですから、​これらの​手段を​祈りと​秘跡の​二語に​要約する​ことができます。

​ 神の​憐れみの​この​上なき顕れであり、​神の​恵みの​泉である​秘跡に​ついて​考えたいと​思います。​ピオ五世の​公教要理​(ローマ公教要理)に​ある​秘跡の​定義を​ゆっくりと​黙想しましょう。​秘跡とは​「恩恵を​表し同時に​それを​生じさせる、​いわば​眼前に​おき感覚に​訴える​しるしである」12。​私たちの​主は​無限の​御方であり、​その愛の​尽きる​ことは​なく、​その​寛大さと​慈悲の​心に​限りは​ありません。​そして、​ほかに​多くの​方法で​恩恵を​注いでくださりは​する​ものの、​誰もが​いつも​簡単に​近づき、​救いのみ​業の​功徳に​あずかる​ことができるように、​超自然の​恩恵を​示し、​それを​与える​七つの​しるしを、​わざわざ​私たちの​ために​制定してくださいました。

​ 秘跡を​な​おざりに​すると、​真の​キリスト教的な​生活は​できなくなります。​それにも​拘わらず、​昨今特に、​キリストの​救いの​恩恵を​忘れ、​果ては​無視する​人々が​目に​つきます。​伝統的に​キリスト教を​信仰する​国々で​見られる​このような​傷に​触れるのは​悲しい​ことです。​しかし、​もっと​愛を​込めもっと​感謝の​心を​持って、​聖化の​源である​秘跡に​近づこうと​いう​望みを​心の​中に​しっかりと​刻むためには、​事実を​無視する​ことは​できないのです。

​ 生まれた​ばかりの​子ども​たちの​洗礼も、​ためらいもなく​遅らせてしまいます。​子ども​たちは​原罪の​汚れに​染まったままで​生まれます。​ところが​その子ども​たちに、​この​上なく​貴重な宝である​三位一体の​神と​信仰の​恵みを​与えないように​するのです。​これは​正義と​愛徳に​反する​ことではないでしょうか。​聖伝の​一致した​教えに​よれば、​堅信は​内的生活を​強め、​聖霊を​静かに​豊かに​注ぎます。​その​結果、​信者は​超自然的に​強められ、​キリストの​兵士と​して​自己愛と​欲情に​抗して​戦う​ことができるようになります。​ところが、​この​堅信の​秘跡に​固有な本質を​見失う​傾向さえみられるのです。

​ 聖なる​ものに​対する​感受性を​失えば、​ゆる​しの​秘跡の​大切さは​理解できなくなるでしょう。​告解は​神との​話し合いであって、​人と​人との​話し合いでは​ありません。​この​秘跡は​神の​正義を​確実に​行う​裁判であると​同時に、​「悪人が​死ぬのを​喜ばない。​むしろ、​悪人が​その​道から​立ち帰って​生きる​ことを​喜ぶ」​13裁判官を​有する、​慈悲深い​裁判なのです。

​ 主の​慈しみに​限りは​ありません。​なんと​いう​細やかな心で​ご自分の​子ども​たちに​接してくださる​ことでしょう。​婚姻を、​キリストと​その​教会との​一致を​表すかた​どり14、​聖なる​絆に​してくださいました。​婚姻は​偉大な​秘跡です。​この​秘跡の​おかげで​神の​恩恵に​助けられ、​平和と​一致を​保ち、​聖性の​学校と​なる​信者の​家庭が​生まれます。​両親は​神の​協力者ですから、​敬愛と​いう​愛すべき義務が​子ども​たちに​課せられるのです。​だから​こそ​以前から​第四戒を​いとも​甘美なる​掟と​呼ん​できたのです。​神が​お望みに​なるように​清い​結婚​生活を​送るならば、​家庭は​平和で​明るく​喜びに​満ちた​安住の​地と​なるでしょう。

信者の​ある​者に、​新たな、​得も​言われぬ方​法で​聖霊を​注ぎ、​消える​ことの​ない​印章を​刻むために、​主は​叙階の​秘跡を​制定してくださいました。​共通の​祭司職と​職位的祭司職の​間には、​程度のみならず本質的な​相違が​あります15。​叙階の​秘跡の​印章に​よって​キリストと​一体​化し、​神秘体の​頭16である​キリストのみ​名に​おいて​働く​司祭と​なります。​聖務者は、​キリストの​御体と​御血を​聖別し、​聖なるいけにえを​神に​捧げ、​ゆる​しの​秘跡に​おいて​罪を​赦し、​神に​関する​こと17すべて、​しかも神に​関する​ことのみを、​人々に​教える​聖務を​果たすことができるのです。

​ それゆえ、​司祭は​ただただ神の​人と​なるべきなのです。​司祭を​必要としない​分野で​活躍しようなどと​考えるべきでは​ありません。​司祭は​心理学者でも、​社会学者でも、​人類学者でもありません。​司祭は、​兄弟たちの​魂を​救う​もう​一人の​キリスト・​同じ​キリストなのです。​祭司職に​没頭する​司祭なら、​神学に​関係の​ない​学問を​少し​研究したとしても、​せいぜい​趣味の​域を​出ない​ことでしょう。​それにも​拘わらず、​わずかばかりの​知識を​盾に​して、​それだけで​教義神学や​倫理神学の​権威者だと​思ってしまうことが​あれば​悲しい​ことです。​賢人面を​して​それでも​幾人かの​読者や​予備知識の​ない​人々を​欺きとおすことは​できるかも​知れません。​しかし、​結局は​諸学問と​神学の​いずれに​おいても​無知である​ことを​さらけ出してしまう​ことでしょう。

​ ある​聖職者たちがキリストを​裏切り、​一人​ひとりの​救いと​いう​教会の​霊的な​目的を、​現世的な​目的に​とってかえ、​新しい​教会を​作りあげようと​している​ことは​衆知の​事実です。​このような​誘惑に​抵抗しないならば、​聖務を​果たさなくなり、​人々の​信頼と​尊敬を​失い、​教会内に​恐ろしい​破壊を​招く​ことに​なるでしょう。​そのうえ、​不当にでしゃばり、​信者だけでなく​その​ほかの​人々の​政治的な​自由を​侵すことに​なり、​遂には、​彼ら​自身が​社会生活に​混乱を​引き起こす危険人物に​なってしまう​ことでしょう。​叙階は、​信仰を​同じく​する​兄弟たちの​信仰生活を​助ける​司祭を​生む秘跡です。​しかし​ある​人たちは​この​秘跡を​新たな​独裁制を​実現させる​ための​道具にしようと​しているようです。

この​問題は​さて​おき、​素晴らしい​秘跡の​黙想を​続けましょう。​今は​病者の​塗油と​称される​終油の​秘跡を​受けて、​御父の​お住まいに​着くまでの​旅支度を​します。​恩恵の​浪費とも​言える​ほどの​秘跡である​ご聖体に​よって、​恩恵だけでなく、​御体・御血・​ご霊魂​・神性を​伴い、​実際に​おられる​神ご自身、​つまり​イエス・キリストご自身を​受けるのです。​しかも、​イエスは​ごミサの​間のみではなく​常に​現存してくださるのです。

​ 神の​恩恵の​通路である​秘跡を、​すべての​信者の​ために​確保すると​いう​司祭の​責任に​ついて、​私は​何度と​なく​考えました。​神の​恩恵は​一人​ひとりを​救う​ために​与えられます。​各人が​具体的援助を​必要と​するからです。​人々を​集団と​して​扱う​ことは​できません。​一人​ひとりの​霊魂は、​かけが​えの​ない宝、​一人​ひとりの​人間は​唯一の​存在です。​キリストは​一人​ひとりの​ために​御血を​流してくださったのですから、​聖職者たちが​人々を​キリストの​愛に​結ぶ​絆と​なるべき​自分の​義務を​自覚せず、​また、​道具に​すぎない​自分を​謙遜に​認めて​一人​ひとりに​個人的に​近づく​ことを​せず、​信者の​人間と​しての​尊厳と​神の​子と​しての​尊厳を​損なうならば、​不当と​言う​ほかは​ないでしょう。

​ 戦いに​ついて​考えてきました。​ところで、​戦いには​訓練と​適切な​栄養が​必要です。​また​病気や​打ち身や​負傷の​ときには​応急処置も​必要と​なります。​秘跡は​教会の​主たる薬であって、​余分な​ものではないのです。​自ら​進んで​秘跡を​放棄するような​ことが​あれば、​イエス・キリストに​従う​ことは​できなくなります。​生きる​ために​呼吸や​血液の​循環や光を​要するのと​同じように、​各瞬間に​主が​お望みに​なっている​ことを​知る​ためには、​秘跡が​必要なのです。

​ 強くなければ​修徳に​励むことは​できません。​ところが、​力は​創造主に​属する​能力です。​私たちは​暗闇で​あり主は​明澄な​輝き、​私たちは​病であり主は​逞しい​健康、​私たちは​欠乏で​あり主は​無限の​富です。​私たちは​弱い​存在ですが、​主は​強めてくださいます。​あなたは​わたしの​神、​わたしの​砦18、​私の​力は​すべて​御身から​与えられます。​キリストの​救霊の​御血が​も​どかしげに​湧きだすのを​邪魔する​ものは​この​世には​ありません。​しかし、​卑賤な​人間の​ことですから​目を​覆って​神の​偉大さに​気づかないこともあります。​だから​こそ、​特に​神の​民を​霊的に​導き仕える、​聖務を​有する​人たち、​ひいては​全信者に、​恩恵の​源を​絶やさない​責任と​キリストの​十字架を​恥じない​責任が​課せられているのです。

司牧者の​責任

 神の​教会に​あって、​キリストの​教えに​さらに​忠実になろうと​絶えず努力する​ことは、​すべての​人々の​義務であって、​誰も​免除されてはいません。​信仰の​遺産・共通の​遺産である​信仰と​道徳を、​忠実に​尊重する​心や​繊細な​良心を​得る​ために、​牧者自らが​戦わなければ、​エゼキエルの​預言が​実現してしまうのです。​「人の​子よ、​イスラエルの​牧者たちに​対して​預言し、​牧者である​彼らに​語りなさい。​主なる​神は​こう​言われる。​災いだ、​自分​自身を​養う​イスラエルの​牧者たちは。​牧者は​群れを​養うべきではないか。​お前たちは​乳を​飲み、​羊毛を​身に​まとい、​肥えた​動物を​屠るが、​群れを​養おうと​は​しない。​お前たちは​弱い​ものを​強めず、​病める​ものを​いや​さず、​傷ついた​ものを​包んで​やらなかった。​また、​追われた​ものを​連れ戻さず、​失われた​ものを​探し求めず、​かえって​力ずくで、​苛酷に​群れを​支配した」19。

​ 厳しい​叱責の​言葉です。​しかし、​すべての​人々の​霊的善に​気を​配るべき聖職者が、​人を​再生に​導く​洗礼の​清らかな​水、​力を​与える​堅信の​聖香油、​赦しを​与える​裁判、​永遠の​生命を​与える​食物を​奪い​取ると​すれば、​それほど​酷い​神への​侮辱は​ないでしょう。

​ こんな​ことは、​いつ​起こるのでしょうか。​平和の​戦いを​放棄した​ときに​起こります。​戦わなければ、​ただただ​人間的な​物の​見方を​する​奴隷状態、​権力と​現世的名誉のみを​熱心に​望む奴隷状態、​虚栄の​奴隷状態、​金銭の​奴隷、​欲情の​奴隷など、​肉の​心を​縛りつける​種々の​奴隷状態の​いずれかに​身を​置く​ことになってしまうのです。

​ いつか ― 神は​このような​試みを​お許しに​なることがありますから​ ― 牧者と​いう​名に​値しない​牧者に​出会っても​驚かないでください。​キリストは​衰える​ことの​ない​絶対確実な​助けを​教会に​約束なさいましたが、​教会を​構成する​人間の​忠実は​保証なさいませんでした。​神が​要求なさる​ほんの​わずかの​ことを​実行し、​聖性への​道の​障害物を、​神の​恩恵に​助けられて​取り除く​努力と​警戒を​怠らなければ、​不忠実な​人々にも、​豊かで​寛大な​恩恵の​欠ける​ことは​ないでしょう。​戦いを​続けない​人々なら、​たとえ高い​所に​いると​思われても、​神の​目には​非常に​低い所に​いる​こともあります。​「わたしは​あなたの​行いを​知っている。​あなたが​生きているとは​名ばかりで、​実は​死んでいる。​目を​覚ませ。​死に​かけている​残りの​者たちを​強めよ。​わたしは、​あなたの​行いが、​わたしの​神の​前に​完全な​ものとは​認めない。​だから、​どのように​受け、​また​聞いたか​思い​起こして、​それを​守り​抜き、​かつ悔い​改めよ」​20。

​ これは、​一世紀に​サルディスの​教会を​預かっていた​人々に​向けた、​使徒聖ヨハネの​訓戒です。​牧者の​ある​者が​責任を​放棄するような​状態は、​近代に​なって​始まった​現象ではないのです。​イエス・キリストが​生きておいでになった​とき、​使徒たちの​時代に​すでに​現れました。​自己と​戦う​ことを​止めれば、​誰一人と​して​確実に​救われるとは​言えないのです。​誰も​自分の​力だけで​救いを​得る​ことは​できません。​私たちは​皆、​効果的な​手段を​用いなければなりません。​そして​その​手段とは、​キリストの​支配を​容易に​すべく​心を​整える​犠牲を​実行し、​信仰を​保存するだけでなく​広める​ために、​昔から​変わらない​確かな​教えを​勉強する​ことなのです。

きのう、​きょう

​ 枝の​主日の​典礼では​次の​交唱を​唱えます。​「門よ、​扉を​開け、​永遠の​戸よ、​上がれ、​栄光の​王が​入る」21。​利己主義の​城壁内に​閉じこもる者は​戦場に​赴かないでしょう。​しかし、​要塞の​扉を​開き、​平和の​主の​入城を​認めれば、​視力を​弱め、​良心を​麻痺させる​あらゆる​惨めさに​抗する​戦いに、​主と​共に​赴く​ことができるのです。

​ ​「古い扉を​開け」。​戦いに​赴けと​いう​この​命令は、​キリスト教に​とっては、​永遠の​真理であって、​別に​新しい​命令では​ありません。​戦いが​なければ​勝利は​なく、​勝利が​なければ​平和を​得る​ことは​できません。​平和が​なければ、​人間の​喜びも​ただの​見せかけ、​偽り、​不毛の​喜びに​すぎず、​そのような​喜びを​持っていても、​人を​助ける​ことも、​愛徳の​行為や​正義の​行いも、​赦しや​憐れみも、​神への​奉仕も​生まれては​こない​ことでしょう。

​ 現在、​教会の​内外で、​上に​立つ人から​下に​いる​人までが​各自の​内的戦いを​放棄しているようです。​武器も​装備も​捨てて、​隷属状態に​身を​任せる​人々が​多い​印象を​受けます。​しかも、​このような​危険は​いつも​すべての​キリスト信者を​待ち伏せています。

​ だから​こそ、​聖三位一体の​神に​執拗に​救いを​求め、​慈悲を​与えてくださる​よう​お願いしなければなりません。​教会内外の​このような​事情を​話すに​つけ、​私は​神の​正義を​考えて​震え​あがります。​神の​御憐れみと​慈悲に​救いを​求め、​私たちの​罪を​見ず、​キリストの​功徳、​そして​私たちの​母でもある​聖マリアの​功徳、​父と​された​太祖聖ヨセフ、​諸聖人の​功徳を、​顧みてくださいと​私は​お願いしております。

​ 今日の​ミサに​あるように、​戦う​望みさえ​あれば、​神は​その​右手で​支えてくださると​いう​確信を​持って​生きる​ことができます。​みすぼらしいろばに​乗って​エルサレムに​入城された​平和の​王である​イエスは​仰せに​なりました。​「彼​(洗礼者ヨハネ)が​活動し始めた​ときから​今に​至るまで、​天の​国は​力ずくで​襲われており、​激しく​襲う​者が​それを​奪い取ろうと​している」22と。​この​暴力は​他人に​対する​乱暴では​ありません。​それは、​自己の​弱さや​惨めさを​克服する​勇気、​自己の​不忠実を​覆い​隠さない​勇敢な​態度、​たとえ周囲の​反対が​あっても​信仰を​告白する​大胆さの​ことなのです。

​ 今日も​咋日と​同じく、​人々は​キリスト信者の​英雄的行為を​望んでいます。​普通は、​毎日の​小さな​事柄に​おいて​戦うだけで​十分でしょう。​しかし、​必要なら​大きな​戦いに​おいて​英雄的な​振舞いが​必要です。​やむことなく、​神の​愛の​ために​戦い​続ければ、​たとえ無意味と​思われるような​戦いであっても、​主は​私たち子どもの​傍らに、​愛に​溢れた​牧者と​して​常に​いてくださいます。​「わたしが​わたしの​群れを​養い、​憩わせる、​と主なる神は​言われる。​わたしは​失われた​ものを​尋ね求め、​追われた​ものを​連れ戻し、​傷ついた​ものを​包み、​弱った​ものを​強くする。​しかし、​肥えた​ものと​強い​ものを​滅ぼす。​わたしは​公平を​もって​彼らを​養う」、​「野の​木は​実を​結び、​地は​産物を​生じ、​彼らは​自分の​土地に​安んじている​ことができる。​わたしが​彼らの​軛の​棒を​折り、​彼らを​奴隷に​した者の​手から​救い出すとき、​彼らは​わたしが​主である​ことを​知る」​23であろう。

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